倫理の起源25
次に「②ニーチェ思想には、生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれるようにみえる要素があるため、彼の言葉が、誰にとっても当てはまる人生哲学であると受け取られやすいこと」について。
現代日本のニーチェ論者・研究者・紹介者の一部には、こういう立場をとる人が多い。その要因として第一に考えられるのは、日本が豊かな先進社会になってから、多くの人が明日の食物の心配からとりあえず解放されたために、人々の関心が個人的な人間関係の問題に集中しがちになった点である。もともと繊細だった日本人の精神はさらに繊細化し、少しのことに傷つく人が増えている。精神科医やカウンセリングや人生相談が大はやりである。
どうすれば落ち込みから回復できるのか。どうすれば他人とのかかわりで自信を持って生きられるのか。周りから自分の価値を認めてもらうにはどうすればいいのか。多少ともデリケートな人たちは、こういう問題で深刻に悩んでいる。
そこでニーチェの役割である。彼は、自分よりも強い人にルサンチマンを抱かず、与えられた条件を恨まず、運命を引き受け、かつて一度でも幸福な瞬間があったのなら、この理不尽で無意味に感じられる生をあるがままに肯定して生きよ、と力強く説いている――ように見える。その現世肯定思想の極限形式が「永遠回帰」というキャッチフレーズである、というわけだ。
しかし第一に、「永遠回帰」などという奇妙な着想が、本当に私たち近代人の普通の時間感覚にフィットするだろうか。ニーチェ自身がこの強引な着想に合理的な根拠を与えようと苦心しているが、それは成功しているようには思えない(中島義道『ニーチェ ニヒリズムを生きる』河出書房新社参照)。日本でも萩原朔太郎などが、あまり論理的な明晰さの持ち合わせがないのに、この思想の論理的な解釈の試みを行っているが、これも説得力がない。
私も若いころニーチェにかなりかぶれたことがあり、この永遠回帰という奇妙な着想を何とか体感的に納得しようと苦しんだことがある。しかしそれは無駄だった。実感できない時間感覚を理解しろと言われても無理である。
かくするうち、これはキリスト教救済思想を支えている終末論的な歴史感覚に対するアンチテーゼであろうと考えた。
キリスト教の救済思想は、まず全能の神による天地創造を前提とする。その上で、現世において罪びとであるわれらが、その罪を一身に背負うために遣わされた神のひとり子をひたすら信じることによって、死後、終末において最後の審判を受けて救われるという直線的な歴史物語を提供する。こういう物語が成立するためには、時間が世界の始まりから直線的に流れてゆくという形式的な条件が必要である。ニーチェは、この救済思想の欺瞞性を根柢から指摘するために、直線的な時間意識そのものに抗わなくてはならないと考えた〈感じた〉のではないか。
ニーチェは自分の文化環境を心から呪い、キリスト教文明に見られるユートピア主義を、あの世でなら必ず支払うという偽の借用証書ばかり振り出し続けるニヒリズムと規定した。またキリスト教道徳を、弱者がルサンチマン解消のために編み出した奴隷道徳であると生涯断罪し続けた思想家である。この反逆意志の文脈の中においてみるとき、「永遠回帰」という奇妙な着想は、かろうじて(ほとんどニーチェ自身の気違いじみた執着と情熱にとってのみ)意味を持つ何かである。
なるほどキリスト教の救済思想をニヒリズムとして規定し、その道徳を畜群やのために用意された奴隷道徳として徹底的に否定するためには、個体の生命時間をはるかに超えた創造から救済(審判)へという直線的な時間進行の物語そのものにどこかでストップをかけなくてはならない。
ちなみにこの着想に至ったニーチェの頭の中では、ショーペンハウアーなどによって触発された仏教的な世界観が(半ば否定的に)媒介されていると想像される。仏教では、煩悩から永遠に解脱できない生類の輪廻転生の考え方を基礎として、そこから仏の慈悲による救済思想を導き出すからである。この世界観のなかには、一部に、過去は未来であり未来は過去であって、世界ははじめも終わりもなく循環し、生類はその循環を永遠にさまよい続けるという発想がたしかに見受けられる。じっさいニーチェは、キリスト教に比べて仏教を「成熟した宗教」として一定程度評価していた。
いずれにしても、ニーチェにとって「永遠回帰」は、キリスト教全体をニヒリズムと決めつけ、その道徳を道徳として頭ごなしに否定するためにぜひとも必要な道具立てだった。しかし彼は、この着想自体もまた、ニヒリズムの表現であり、むしろその徹底化であると自覚していた。これは納得がいく。生のすべては、空手形ばかり振り出す救済思想によってごまかされようと、ただ同じことが永遠に繰り返されるのが実相であろうと、いずれにしても無意味、無価値であることには変わりがないからだ。
だが彼は、この事態を何とか独力で克服したいと無理なことを考えた。人類が骨の髄までやられているニヒリズムの病を一人で背負って治癒したいと気負ったのである。凡人の幸福に甘んじることはけち臭い。科学的な合理主義も解決にならない。政治や経済によってできるだけ多くの人に幸福や快楽を配ることも許せない。もし克服できるとすれば、唯一、天才や超人、すなわち特別に選ばれた者だけがそれを可能とするはずだ。ほかに出口はあり得ない。
その実現(ニヒリズムの克服)のためには、凡庸な者、、出来損ないの者、畜群、奴隷などは、どんどん犠牲に供されてしかるべきである。そしてニーチェは自分もその選ばれし者の一員になりたい、その一員に違いないと思い込むようになった。ここまでくれば、彼の誇大妄想は完成する。だが世界の様相は絶望的で、ほとんど誰も自分の声に耳を貸そうとしない。かくして彼は狂ったのである。
ニーチェは、貴族道徳と奴隷道徳との間に妥協不可能な境界線を引いた。これは一見、人間には「」ばかりでなく、高貴な民もいるという実体的な差別を強調しているかに見える。しかし一方では彼は、「人間全体」を出来損ないとみなしていたフシが多分にある。彼のアフォリズムに「人間は神が創った失敗作なのか。それとも神が人間の創った失敗作なのか」というのがある。だからこそ彼は、「超人」というイメージを定着させようと必死になったのである。
ちなみに炯眼な読者はすでにお気づきのことと思うが、ここまで来ると、彼のこの思考過程は、一見キリスト教を根柢から批判しているようにみえて、じつはメシアとしてのキリスト像を立てる救済物語とその構造において相似形であることが見えてくる。
キリスト教はイエスだけを神のひとり子とし、人類の罪〈普遍的欠陥、どうしようもなさ〉を一人で身代わりとして背負って十字架にかけられた。この(私たち日本人にとっては)異様にしか見えない物語によってナザレのイエスというひとりの男は、唯一の至高存在(神人)として特権化された。
十字架にかけた者たちはみな神を冒涜した自覚なきであり、そうであるゆえに彼らはイエスひとりを神の子としてあがめなくては救いようがない。みな、イエス・キリストの奴隷になりなさい。お前たちの命などは、神と神の子の前では、吹けば飛ぶような意味のないものにすぎない。せめてそのことを自覚しなさい。そうすれば神と神の子は、愛と憐れみによってお前たちを救ってくださるだろう。そこから絶対者への信仰がようやく始まるのだ……。この物語の原型を編み出したのは、もちろんイエスその人ではなく、使徒パウロである。
ところでニーチェは、自分の生まれ育ったキリスト教文化環境を生涯呪いつづけたが、だからこそ自分は、その文化環境の住民である「」によって十字架にかけられる運命にあるのだ、と考えるようになった。あのナザレのイエスがユダヤのどもの手にかかって殺されたように。しかり、私はイエス・キリストの生まれ変わりなのだ!
昏倒前後の書簡二つ。
*コージマ・ヴァーグナー宛:私が人間であるということは、一つの偏見です。……私はまた十字架にかかってしまったのだ……
*ペーター・ガスト宛:わが巨匠ピエトロに。わがために新しき歌をうたえ。――世は明るく輝けり、天はこぞりて悦べり。十字架にかけられし者。
ミイラ取りがミイラになってしまった。いや、文化としての「キリスト」を殺そうとした者が、自ら「神の子」を演じてしまった!
さてこう見てくると、ニーチェ思想を、「生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれる人生哲学」などと安易に受け取るわけにはいかないことが呑み込めるだろう。少なくとも、彼は「誰にとっても当てはまる」ことなど言ってはいないのであり、逆に、「特別に選ばれた者たち」を設定し、彼らのためにだけ語ろうとしたのだ。『ツァラトゥストラ』の冒頭には、「万人に与える書、何人にも与えぬ書」という謎めいた有名な一句がある。あえて解読すれば、万人とは人間すべてである。この書は、人間すべてが神の子を殺してしまう「」であると宣告しており、したがって私の言わんとすることはだれにも伝わるはずはないのだ……。
だから、普通の人間世界のあり方に対して怨念と毒をまき散らしつづけたこの落魄と敗残の「貴族」が、現代日本の大衆社会を生きる、悩める「ひとりのあなた」のためになぞ語りかけてくれるはずがないのである。そこで私は、この種のニーチェ解釈がまかり通っている日本の哲学研究・哲学紹介とは、いったい何なのだ、とあえて問いかけたい。私たち普通の日本人に、この異様な思想家の内部にとぐろを巻いていたどす黒い情念に気安く共感を示すことなどできるはずがないのである。
ニーチェの思想は、キリスト教文明という強烈な背景を抜きにしては、その性格をいささかでも感知することすらできない。彼は、キリスト教をニヒリズムと規定したが、彼自身はニヒリズムの克服者であったのではなく、その事実の忠実な告知者、被害報告者であったにすぎない。それ以上のことを彼はなしえていない。彼にとっては、啓蒙的理性主義、科学的合理主義、道徳原理としての功利主義、民主主義、社会主義、自由平等主義など、すべてがキリスト教的ニヒリズムの延長であり、よって主観的には、すべてが敵であった。しかし敵を呪い敵と戦い敵を克服しようとする言葉を延々と吐き出し続けながら、彼が実際に(思想として)なしえたことは、これらすべてが畜群思想の産物であり、あるべき価値を抹殺するものだという一つのきわめて興味深い反措定を提出したことだけである。
そこで、倫理問題を扱っている本書において、この怪物とどのようにつきあうのかという問いを、私たち自身にまず突きつけよう。
第一に、少なくとも私はこの局面では、ツァラトゥストラのサルになるわけにはいかない。もちろん私は平等主義的道徳やイデオロギーとしての民主主義に対して大いに批判的だが、いっぽうでは、生活の中で普通の民衆(といっても色々だが)と対等に会話したり酒を飲んだりするのがとても身に合っている。そしておおむね相手からも好意を持って迎えられる。ニーチェほど孤高を気取って大衆社会風潮を頭ごなしに罵倒する気にはなれないのである。民衆を集団として括ってそれが醸す空気や風潮やイデオロギーに異を唱えることと、一人ひとりの民衆の存在を尊重して対等に接することとは、論理的には矛盾しているかもしれないが、私はその両面を矛盾のままに抱えて現に生きている。欺瞞的なイデオロギーと闘う気は十分にあるが、この共同社会から見放されること、人から嫌われることを心底恐れてもいる。そういう自分であってみれば、彼の猿真似をすることはできない。
ちなみに発狂直前のニーチェの自伝『この人を見よ』のなかに、散歩中に出会う八百屋のおばさんと仲良くなった経験談が出てくる。ニーチェは、「哲学者になるためにはこれくらいでなくては駄目だ」などという自慢の文句を付け加えているが、こんな文句はまことに滑稽である。彼は付近の子どもたちにあの偏屈オヤジをからかってやろうと石をぶつけられているからだ。
八百屋のおばさんとの会話は、哲学者としての自慢に値するのではない。もしそういう話をしたければ、めったに民衆との気さくな会話などできず、女にももてなかった彼自身が、はげしい孤独感を慰められた一エピソードとして、その時のうれしさを素直に表出すべきなのだ。
だから私はこんな時のニーチェに言ってやりたい――おいおい君、何もそんなに意地を張ってエキセントリックにならなくてもいいじゃないか。八百屋のおばさんと話ができてよかったじゃないか。君もひとりの寂しい人間だね、君はふだんから字面の上では同情や共感の徳をあんなに否定していながら、その赤子のような人恋しげな目つきは何なのだ? と。
第二に、では彼のエキセントリックなところに蓋をして、彼の教説が、普通の現代人の生き方にまつわる個人的な苦しみや悩みや問いに答えてくれるような力づけの効用を持っていると私自身がみなせるかと言えば、それもとんだお門違いである。彼の思想は、そういう普遍的・一般的な「活用」が可能なようにはできていない。なぜなら普通の現代人はほとんどすべて、彼によって、骨の髄まで救いようのない奴隷根性の持ち主であり、畜群道徳の体現者であるとされているからだ。
したがって、彼の思想的情念の核心であるこの一般世間嫌悪の呪いと毒とを水で薄めて解毒した上で、「あなたも読んでごらん。生きることに肯定感が持てるよ」などとおススメするような、日本的生ぬるさによる欺瞞的解釈に加担するわけにもいかないのである。ニーチェの文体と思想はある特殊な人、とりわけ孤独で知的プライドの高い人、選ばれた存在(と同時にはじかれた存在)としての自意識の強い人に対してのみ昂揚感を与えるので、一般読者には適合しない。特に女性読者には勧められない。事実、女性でニーチェに心底から共感を示す人に私は出会ったことがない。
こういったからと言って、私は何も、この特異な思想家を特権的な領域に囲い込んで神棚に祭り上げ、とりあえず敬遠しておこうというわけではない。逆に、そういう特異性をごまかさずに見極めたうえで、この人が倫理思想として何を言い、それが通俗的な道徳意識にどういうショックを与えたかを応分に評価したいと思うのである。
それだけではない。その先が重要である。私は彼の倫理思想に全面的に同調するわけにはいかないが、かといって、彼が自分の反対物と考えていた畜群道徳の新たな代表者を買って出ようというわけでもない。彼に対する違和をきちんと整理して批判にまで鍛え上げ、これまで書いてきたことを踏まえて、こういうふうに考えたほうがいいのではないかという対案を提示したいのである。
つまり、いささか口幅ったい話だが、ニーチェの人間把握と自分のそれとを突き合わせてまっとうに対決したいのである。それをやらないと、彼のよって立つ貴族道徳と、現代の大衆民主主義社会における「思いやりとやさしさと憐れみ」道徳(ニーチェの言う奴隷道徳)とが、永遠に平行線のままに終わるだろう。一方はただ相手を畜群、出来損ないとののしりつづけ、他方はそんな偏屈哲学者など目にもくれない。ナイーヴな「民主主義」信奉者は、衆を恃んだ善意という名の「力への意志」による同情主義を押し広げてゆくだけだろう。あとは、それぞれの生き方の問題、才能や感受性の違いの問題、体質の問題に還元されておしまいである。倫理思想は発展しない。
次に「②ニーチェ思想には、生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれるようにみえる要素があるため、彼の言葉が、誰にとっても当てはまる人生哲学であると受け取られやすいこと」について。
現代日本のニーチェ論者・研究者・紹介者の一部には、こういう立場をとる人が多い。その要因として第一に考えられるのは、日本が豊かな先進社会になってから、多くの人が明日の食物の心配からとりあえず解放されたために、人々の関心が個人的な人間関係の問題に集中しがちになった点である。もともと繊細だった日本人の精神はさらに繊細化し、少しのことに傷つく人が増えている。精神科医やカウンセリングや人生相談が大はやりである。
どうすれば落ち込みから回復できるのか。どうすれば他人とのかかわりで自信を持って生きられるのか。周りから自分の価値を認めてもらうにはどうすればいいのか。多少ともデリケートな人たちは、こういう問題で深刻に悩んでいる。
そこでニーチェの役割である。彼は、自分よりも強い人にルサンチマンを抱かず、与えられた条件を恨まず、運命を引き受け、かつて一度でも幸福な瞬間があったのなら、この理不尽で無意味に感じられる生をあるがままに肯定して生きよ、と力強く説いている――ように見える。その現世肯定思想の極限形式が「永遠回帰」というキャッチフレーズである、というわけだ。
しかし第一に、「永遠回帰」などという奇妙な着想が、本当に私たち近代人の普通の時間感覚にフィットするだろうか。ニーチェ自身がこの強引な着想に合理的な根拠を与えようと苦心しているが、それは成功しているようには思えない(中島義道『ニーチェ ニヒリズムを生きる』河出書房新社参照)。日本でも萩原朔太郎などが、あまり論理的な明晰さの持ち合わせがないのに、この思想の論理的な解釈の試みを行っているが、これも説得力がない。
私も若いころニーチェにかなりかぶれたことがあり、この永遠回帰という奇妙な着想を何とか体感的に納得しようと苦しんだことがある。しかしそれは無駄だった。実感できない時間感覚を理解しろと言われても無理である。
かくするうち、これはキリスト教救済思想を支えている終末論的な歴史感覚に対するアンチテーゼであろうと考えた。
キリスト教の救済思想は、まず全能の神による天地創造を前提とする。その上で、現世において罪びとであるわれらが、その罪を一身に背負うために遣わされた神のひとり子をひたすら信じることによって、死後、終末において最後の審判を受けて救われるという直線的な歴史物語を提供する。こういう物語が成立するためには、時間が世界の始まりから直線的に流れてゆくという形式的な条件が必要である。ニーチェは、この救済思想の欺瞞性を根柢から指摘するために、直線的な時間意識そのものに抗わなくてはならないと考えた〈感じた〉のではないか。
ニーチェは自分の文化環境を心から呪い、キリスト教文明に見られるユートピア主義を、あの世でなら必ず支払うという偽の借用証書ばかり振り出し続けるニヒリズムと規定した。またキリスト教道徳を、弱者がルサンチマン解消のために編み出した奴隷道徳であると生涯断罪し続けた思想家である。この反逆意志の文脈の中においてみるとき、「永遠回帰」という奇妙な着想は、かろうじて(ほとんどニーチェ自身の気違いじみた執着と情熱にとってのみ)意味を持つ何かである。
なるほどキリスト教の救済思想をニヒリズムとして規定し、その道徳を畜群やのために用意された奴隷道徳として徹底的に否定するためには、個体の生命時間をはるかに超えた創造から救済(審判)へという直線的な時間進行の物語そのものにどこかでストップをかけなくてはならない。
ちなみにこの着想に至ったニーチェの頭の中では、ショーペンハウアーなどによって触発された仏教的な世界観が(半ば否定的に)媒介されていると想像される。仏教では、煩悩から永遠に解脱できない生類の輪廻転生の考え方を基礎として、そこから仏の慈悲による救済思想を導き出すからである。この世界観のなかには、一部に、過去は未来であり未来は過去であって、世界ははじめも終わりもなく循環し、生類はその循環を永遠にさまよい続けるという発想がたしかに見受けられる。じっさいニーチェは、キリスト教に比べて仏教を「成熟した宗教」として一定程度評価していた。
いずれにしても、ニーチェにとって「永遠回帰」は、キリスト教全体をニヒリズムと決めつけ、その道徳を道徳として頭ごなしに否定するためにぜひとも必要な道具立てだった。しかし彼は、この着想自体もまた、ニヒリズムの表現であり、むしろその徹底化であると自覚していた。これは納得がいく。生のすべては、空手形ばかり振り出す救済思想によってごまかされようと、ただ同じことが永遠に繰り返されるのが実相であろうと、いずれにしても無意味、無価値であることには変わりがないからだ。
だが彼は、この事態を何とか独力で克服したいと無理なことを考えた。人類が骨の髄までやられているニヒリズムの病を一人で背負って治癒したいと気負ったのである。凡人の幸福に甘んじることはけち臭い。科学的な合理主義も解決にならない。政治や経済によってできるだけ多くの人に幸福や快楽を配ることも許せない。もし克服できるとすれば、唯一、天才や超人、すなわち特別に選ばれた者だけがそれを可能とするはずだ。ほかに出口はあり得ない。
その実現(ニヒリズムの克服)のためには、凡庸な者、、出来損ないの者、畜群、奴隷などは、どんどん犠牲に供されてしかるべきである。そしてニーチェは自分もその選ばれし者の一員になりたい、その一員に違いないと思い込むようになった。ここまでくれば、彼の誇大妄想は完成する。だが世界の様相は絶望的で、ほとんど誰も自分の声に耳を貸そうとしない。かくして彼は狂ったのである。
ニーチェは、貴族道徳と奴隷道徳との間に妥協不可能な境界線を引いた。これは一見、人間には「」ばかりでなく、高貴な民もいるという実体的な差別を強調しているかに見える。しかし一方では彼は、「人間全体」を出来損ないとみなしていたフシが多分にある。彼のアフォリズムに「人間は神が創った失敗作なのか。それとも神が人間の創った失敗作なのか」というのがある。だからこそ彼は、「超人」というイメージを定着させようと必死になったのである。
ちなみに炯眼な読者はすでにお気づきのことと思うが、ここまで来ると、彼のこの思考過程は、一見キリスト教を根柢から批判しているようにみえて、じつはメシアとしてのキリスト像を立てる救済物語とその構造において相似形であることが見えてくる。
キリスト教はイエスだけを神のひとり子とし、人類の罪〈普遍的欠陥、どうしようもなさ〉を一人で身代わりとして背負って十字架にかけられた。この(私たち日本人にとっては)異様にしか見えない物語によってナザレのイエスというひとりの男は、唯一の至高存在(神人)として特権化された。
十字架にかけた者たちはみな神を冒涜した自覚なきであり、そうであるゆえに彼らはイエスひとりを神の子としてあがめなくては救いようがない。みな、イエス・キリストの奴隷になりなさい。お前たちの命などは、神と神の子の前では、吹けば飛ぶような意味のないものにすぎない。せめてそのことを自覚しなさい。そうすれば神と神の子は、愛と憐れみによってお前たちを救ってくださるだろう。そこから絶対者への信仰がようやく始まるのだ……。この物語の原型を編み出したのは、もちろんイエスその人ではなく、使徒パウロである。
ところでニーチェは、自分の生まれ育ったキリスト教文化環境を生涯呪いつづけたが、だからこそ自分は、その文化環境の住民である「」によって十字架にかけられる運命にあるのだ、と考えるようになった。あのナザレのイエスがユダヤのどもの手にかかって殺されたように。しかり、私はイエス・キリストの生まれ変わりなのだ!
昏倒前後の書簡二つ。
*コージマ・ヴァーグナー宛:私が人間であるということは、一つの偏見です。……私はまた十字架にかかってしまったのだ……
*ペーター・ガスト宛:わが巨匠ピエトロに。わがために新しき歌をうたえ。――世は明るく輝けり、天はこぞりて悦べり。十字架にかけられし者。
ミイラ取りがミイラになってしまった。いや、文化としての「キリスト」を殺そうとした者が、自ら「神の子」を演じてしまった!
さてこう見てくると、ニーチェ思想を、「生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれる人生哲学」などと安易に受け取るわけにはいかないことが呑み込めるだろう。少なくとも、彼は「誰にとっても当てはまる」ことなど言ってはいないのであり、逆に、「特別に選ばれた者たち」を設定し、彼らのためにだけ語ろうとしたのだ。『ツァラトゥストラ』の冒頭には、「万人に与える書、何人にも与えぬ書」という謎めいた有名な一句がある。あえて解読すれば、万人とは人間すべてである。この書は、人間すべてが神の子を殺してしまう「」であると宣告しており、したがって私の言わんとすることはだれにも伝わるはずはないのだ……。
だから、普通の人間世界のあり方に対して怨念と毒をまき散らしつづけたこの落魄と敗残の「貴族」が、現代日本の大衆社会を生きる、悩める「ひとりのあなた」のためになぞ語りかけてくれるはずがないのである。そこで私は、この種のニーチェ解釈がまかり通っている日本の哲学研究・哲学紹介とは、いったい何なのだ、とあえて問いかけたい。私たち普通の日本人に、この異様な思想家の内部にとぐろを巻いていたどす黒い情念に気安く共感を示すことなどできるはずがないのである。
ニーチェの思想は、キリスト教文明という強烈な背景を抜きにしては、その性格をいささかでも感知することすらできない。彼は、キリスト教をニヒリズムと規定したが、彼自身はニヒリズムの克服者であったのではなく、その事実の忠実な告知者、被害報告者であったにすぎない。それ以上のことを彼はなしえていない。彼にとっては、啓蒙的理性主義、科学的合理主義、道徳原理としての功利主義、民主主義、社会主義、自由平等主義など、すべてがキリスト教的ニヒリズムの延長であり、よって主観的には、すべてが敵であった。しかし敵を呪い敵と戦い敵を克服しようとする言葉を延々と吐き出し続けながら、彼が実際に(思想として)なしえたことは、これらすべてが畜群思想の産物であり、あるべき価値を抹殺するものだという一つのきわめて興味深い反措定を提出したことだけである。
そこで、倫理問題を扱っている本書において、この怪物とどのようにつきあうのかという問いを、私たち自身にまず突きつけよう。
第一に、少なくとも私はこの局面では、ツァラトゥストラのサルになるわけにはいかない。もちろん私は平等主義的道徳やイデオロギーとしての民主主義に対して大いに批判的だが、いっぽうでは、生活の中で普通の民衆(といっても色々だが)と対等に会話したり酒を飲んだりするのがとても身に合っている。そしておおむね相手からも好意を持って迎えられる。ニーチェほど孤高を気取って大衆社会風潮を頭ごなしに罵倒する気にはなれないのである。民衆を集団として括ってそれが醸す空気や風潮やイデオロギーに異を唱えることと、一人ひとりの民衆の存在を尊重して対等に接することとは、論理的には矛盾しているかもしれないが、私はその両面を矛盾のままに抱えて現に生きている。欺瞞的なイデオロギーと闘う気は十分にあるが、この共同社会から見放されること、人から嫌われることを心底恐れてもいる。そういう自分であってみれば、彼の猿真似をすることはできない。
ちなみに発狂直前のニーチェの自伝『この人を見よ』のなかに、散歩中に出会う八百屋のおばさんと仲良くなった経験談が出てくる。ニーチェは、「哲学者になるためにはこれくらいでなくては駄目だ」などという自慢の文句を付け加えているが、こんな文句はまことに滑稽である。彼は付近の子どもたちにあの偏屈オヤジをからかってやろうと石をぶつけられているからだ。
八百屋のおばさんとの会話は、哲学者としての自慢に値するのではない。もしそういう話をしたければ、めったに民衆との気さくな会話などできず、女にももてなかった彼自身が、はげしい孤独感を慰められた一エピソードとして、その時のうれしさを素直に表出すべきなのだ。
だから私はこんな時のニーチェに言ってやりたい――おいおい君、何もそんなに意地を張ってエキセントリックにならなくてもいいじゃないか。八百屋のおばさんと話ができてよかったじゃないか。君もひとりの寂しい人間だね、君はふだんから字面の上では同情や共感の徳をあんなに否定していながら、その赤子のような人恋しげな目つきは何なのだ? と。
第二に、では彼のエキセントリックなところに蓋をして、彼の教説が、普通の現代人の生き方にまつわる個人的な苦しみや悩みや問いに答えてくれるような力づけの効用を持っていると私自身がみなせるかと言えば、それもとんだお門違いである。彼の思想は、そういう普遍的・一般的な「活用」が可能なようにはできていない。なぜなら普通の現代人はほとんどすべて、彼によって、骨の髄まで救いようのない奴隷根性の持ち主であり、畜群道徳の体現者であるとされているからだ。
したがって、彼の思想的情念の核心であるこの一般世間嫌悪の呪いと毒とを水で薄めて解毒した上で、「あなたも読んでごらん。生きることに肯定感が持てるよ」などとおススメするような、日本的生ぬるさによる欺瞞的解釈に加担するわけにもいかないのである。ニーチェの文体と思想はある特殊な人、とりわけ孤独で知的プライドの高い人、選ばれた存在(と同時にはじかれた存在)としての自意識の強い人に対してのみ昂揚感を与えるので、一般読者には適合しない。特に女性読者には勧められない。事実、女性でニーチェに心底から共感を示す人に私は出会ったことがない。
こういったからと言って、私は何も、この特異な思想家を特権的な領域に囲い込んで神棚に祭り上げ、とりあえず敬遠しておこうというわけではない。逆に、そういう特異性をごまかさずに見極めたうえで、この人が倫理思想として何を言い、それが通俗的な道徳意識にどういうショックを与えたかを応分に評価したいと思うのである。
それだけではない。その先が重要である。私は彼の倫理思想に全面的に同調するわけにはいかないが、かといって、彼が自分の反対物と考えていた畜群道徳の新たな代表者を買って出ようというわけでもない。彼に対する違和をきちんと整理して批判にまで鍛え上げ、これまで書いてきたことを踏まえて、こういうふうに考えたほうがいいのではないかという対案を提示したいのである。
つまり、いささか口幅ったい話だが、ニーチェの人間把握と自分のそれとを突き合わせてまっとうに対決したいのである。それをやらないと、彼のよって立つ貴族道徳と、現代の大衆民主主義社会における「思いやりとやさしさと憐れみ」道徳(ニーチェの言う奴隷道徳)とが、永遠に平行線のままに終わるだろう。一方はただ相手を畜群、出来損ないとののしりつづけ、他方はそんな偏屈哲学者など目にもくれない。ナイーヴな「民主主義」信奉者は、衆を恃んだ善意という名の「力への意志」による同情主義を押し広げてゆくだけだろう。あとは、それぞれの生き方の問題、才能や感受性の違いの問題、体質の問題に還元されておしまいである。倫理思想は発展しない。