小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

二曲聴いてふと感じたこと

2014年05月13日 00時15分25秒 | エッセイ
二曲聴いてふと感じたこと


 徳永英明の「VOCALIST」シリーズを持っています。
 このシリーズの4のなかに、①「時の流れに身をまかせ」(原曲テレサ・テン)と②「First Love」(原曲宇多田ヒカル)が収められています。
 とりあえずYou Tubeから、この2曲を転載しましょう。

徳永英明 / 時の流れに身をまかせ


「First Love」hideaki tokunaga


 さてこの2曲を聴いているうちに、ふとあることを感じました。それについて書いてみます。
 どちらも切ない女心を歌っていて、曲としてはとてもいい出来栄えですね。ただその詩の出来不出来について、どうしても言いたいことがあります。
 ①は、新しい恋人を得た歓びとともにその恋を失いたくないという思いを訴えた歌、②は初めての恋に破れて痛むわが心の傷を自らそっといたわろうとする歌。両者はシチュエーションが逆といってもいいので、そもそも比較するには無理があるかもしれません。でもあえて比較してみようと思います。
 私の直感をまず言うと、①は文句のつけようのないいい詩ですが、②には何だかウソくさいイヤなものが感じられるのです。では、それぞれの歌詞の1番をここに書き写してみましょう。

①時の流れに身をまかせ

  もしもあなたと 逢えずにいたら
  わたしは何を してたでしょうか
  平凡だけど 誰かを愛し
  普通の暮し してたでしょうか

  時の流れに 身をまかせ
  あなたの色に 染められ
  一度の人生それさえ 捨てることもかまわない

  だからお願い そばに置いてね
  いまは あなたしか愛せない


②First Love

  最後のキスは
  タバコのflavorがした
  にがくてせつない香り

  明日の今頃には
  あなたはどこにいるんだろう
  誰を想ってるんだろう

  You are always gonna be my love
 いつか誰かとまた恋に落ちても
  I'll remember to love
  You taught me how
  You are always gonna be the one
  今はまだ悲しいlove song
 新しい歌 うたえるまで


 この両方の詩にはある共通点があります。それは、世の中は移ろいやすいもので、自分の心も定めがたいから、時間がたてば今の思いは変わってしまうかもしれないという「はかなさ」の感覚があらかじめ織り込まれていることです。
 ①では、「いまはあなたしか愛せない」というところにそれがあらわれ、②では「いまはまだ悲しいlove song 新しい歌うたえるまで」というところにそれがあらわれていますね。
 しかし、①の場合には、「いま」の恋心が何のためらいもなく一途にストレートに表出されています。「だからお願い そばに置いてね」というセリフを聞かされた男は、相手に少しでも惚れていれば、まず間違いなく参ってしまうでしょう。「いまはあなたしか愛せない」という一種の「限定」は、少しも男の心を醒ます方向にははたらかず、かえってますます「おお、それでいいとも」と相手を受け入れて応じる気持ちをかき立てるに違いありません。人生とはそういうものだというはかなさの感覚がいよよ二人をつなぎとめるのです。

 ②の場合はどうでしょうか。
 自分がまだ失恋の痛手から癒えないので、これからもずっとあなたを心の隅で思い続けると懸命に言い聞かせているわけですね。「the one」とまで言っています。その気持ちはわからなくはありません。
 でも「いつかまた誰かと恋に落ちても」と自ら平然とつぶやいて見せる余裕はいかがなものでしょう。「あなたがどんなにかけがえのない人かがわかった」という言い方も妙に覚めています。「いま」あるはずの直接的な心からすでに離れて、未来の自分を想定してしまっているのですね。
 言い換えれば、この人は失恋の痛手に浸ってはいず、早くも自分を相対化しようとしています。そこには失恋で落ち込んでいる自分の状態そのものを歌にしようという真率さが感じられません(たとえば中島みゆきの「あばよ」にはそれがあります)。なんだ、態のいいことを言ってるけど、そんなに傷ついていねえんじゃねえの、と冷やかしたくなります。私はたぶんその軽薄さが気に入らないのでしょうね。
 もちろん、初めての恋人に対する「あなただけは特別でいつまでも」という思いを心の奥底に秘め続けるということは実際にありうるでしょう。前の恋人にずっと未練を残し続けるということもある。
 それはそれでいいのですが、歌は公開的です。ほかの人も聴いています。その「ほかの人」が、ここに歌われている「いつかまた恋に落ちる」誰かだったらどうでしょうか。「新しい歌」の受け手だったら? ふざけんじゃねえ、そんなこと聞きたくねえ、ということになりませんか。ぬけぬけとそんなこと歌うんじゃねえよ、と。
 私が言いたいことをもっとはっきりいうと、この歌詞は、自分自身を突き放して冷ややかであるぶんだけ、かえって他の誰かに配慮しないはしたなさが露出しているということです。要するにナルシシズムなのですが、そのナルシシズムには可愛さが感じられず、すれっからしに特有のひとりよがりなのですね。歌わずに隠しておけばよいのに。

 私はずいぶんやかましいことを言っているかもしれません。でも、微差に見えるこの違いをどうしても見過ごすわけにいかないのです。
 で、こういう違いは、どこからくるのか。世代差、歌の作り手の個性など、いろいろ考えられるのですが、ここでは②の作者(宇多田ヒカルさん自身)を傷つける気は毛頭ありません。もちろん、たかが二つの曲だけを素材に文明論的な一般化を施すことなどできないのですが、そのことを承知の上であえて言うと、ここにはどうも日本的な機微の細やかさとアメリカ的な粗雑さが何ほどか反映しているような気がしてならないのです。①の感性は日本の伝統をそのまま受け継いでいますが、②の感性はいかにも戦後(=アメリカ)的です。
 調子に乗って、つい乱暴な結論を導き出してしまいました。反論、お叱りなどいただければ幸いです。