小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源33

2014年05月15日 16時13分04秒 | 哲学
倫理の起源33



 すでに折々に触れてきたが、和辻哲郎の『倫理学』は、わが国が産んだ倫理思想の最高峰であり、世界的な偉業である。その関係論的な人間観の徹底性、記述の体系性、いたずらに形而上学に溺れす、たえず日常生活の実感を汲み上げつつ論理を構成していこうとする思考態度などにおいて比類がない。だれもまだこれを乗り越えた者はいない。
 私は、彼のこの仕事についてやや詳しく論じたことがある(『日本の七大思想家』幻冬舎)。そこでは、その創造性を大いに評価するとともに、疑問点についても指摘しておいた。細かいことはそちらを参照していただくとして、いま簡潔にその論点を整理しておくとともに、いくつかの点を付加しておきたい。

 まず優れている点について。

①人間を孤立した個人として捉えず、間柄的存在としてとらえ、その実践的行為的連関のうちに人間の本質を見る。倫理とは、(筆者流に言い換えれば)「なかまとしていきるすじみちをあらわすことわり」であり、この定義は、彼の人間本質の捉え方から必然的に導かれる。

②彼は、人間を次のように規定する。人間世界(世間)は、社会と個人との二重性において成り立ち、個としての存在は、全体からの離脱、すなわち全体の否定であり、人間存在の本質的契機のひとつとして必ずその立脚点を認められなければならないものである。が、さらに進んで、その存在は再びみずからを否定し、その本来的在り処としての共同存在に自己還帰する。こうした無限につづく否定の否定としての弁証法的運動の全体が人間のあり方である。

③この規定からは、「悪」が次のように定義づけられる。「悪」とは一般に、共同性からの個の背反であるが、背反の事実それ自体は同時に共同性への還帰の契機ともなるので、それだけをもって「悪」と呼ぶことはできない。共同性への還帰の運動を伴わないような、背反の固定化、すなわち個への「停滞」こそが「悪」である。同時にまた、はじめからこの運動への契機をはらまないような「共同体」への怠惰な眠り込み(創造性の欠落)も「畜群」への転落として位置づけられる。

④夫婦、家族、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共同体、国家などの具体的な共同性のあり方の中に、それぞれ固有の人倫性を認める。例えば経済的組織(企業など)は、単に、個人およびその集合体がみずからの利益だけを合理的に追求する「経済人」の集合なのではなく、もともとその組織に内在する人倫性があると主張される。
 このように、具体的な共同体のあり方の中に人倫性を認めようとする方法論自体は、たいへん独創的で新鮮なものである。普遍から具体性へ、具体性から普遍へ、と思考を往復させる和辻倫理学ならではの生き生きとした特長が躍如としている。カントなどには到底望めない方法である。しかし反面、このやり方に問題がないわけではない(後述)。

⑤以下に挙げる点は、④に深くかかわる。
 和辻倫理学の特に独創的な点は、彼の言う「二人関係」、すなわち男女の私的な関係のうちに、内在的な人倫精神の出発点を見いだすという、生活の具体相に即した発想である。この発想は、管見の及ぶ限りでは、西洋の倫理学にはけっして見られないものである。
 なるほど西洋には、恋愛や結婚をまじめに、肯定的に論じた書物はたくさんあるし、また「我と汝」という関係のあり方の探求を通して、そこに基本的な人倫の原理を打ち立てようとした書物もある。しかし概して前者は、その美的側面や人生における重要性を強調しただけに終わっており(例:スタンダールやキルケゴール)、後者は、男女という「性愛」関係の特殊なあり方を捨象した抽象的な「自他関係」の記述に終始している(例:ジンメルやブーバー。なおジンメルについては、和辻自身が的確に批判している)。
 またヘーゲルの『精神現象学』は、「家族」の人倫性について卓抜な展開を見せているが、その前段階、つまり性愛関係そのものに対しては深い関心を示していない。
 西洋の倫理学(哲学)は、これまで見てきたように、「精神」や「理性」や「公共性」を「肉体」や「感性」や「私生活」に対して優位に立てるということが暗黙の前提になっているので、肉体の交わりを含み、感性的な歓びをめざし、私生活そのものの世界を開示するような性愛関係は、初めからネガティブなバイアスをもって見られる。だから性愛はそれ自体として倫理性を含むのではなく、肉の愛が宗教的な精神の媒介によって浄化された暁に、ようやく倫理性を獲得するという話になる。
 ちなみに、明治時代に北村透谷が「恋愛は人生の秘鑰なり」として、政治社会にこれを対置し、男女関係の重要性を説いたのは、思想的な発想としては卓抜であった。
 しかし透谷は、西洋由来の「恋愛」なる概念を、それまでの江戸情緒ふうな男女関係のあり方とは異質な、何かより崇高な精神的なものであるかのように印象づけた。これはその時点ではやむを得なかったとはいえ、いかにもインテリらしい勘違いであった。端的に言えば、透谷、藤村、花袋、光太郎ら、日本近代前期の「自然主義」文学者たちは、日本風の「至誠」「まごころ」「自分に忠実であること」などの倫理感覚の器に、キリスト教の宣教師たちが持ち込んできた欺瞞的、両義的な「愛」なる概念を注入されてたぶらかされたのである。

 和辻倫理学は、西洋的な霊肉二元論そのものを退ける。しかもそのモチーフは、あくまでも日常茶飯の生活交流(実践的行為的連関)のなかに人倫の源を見いだすという徹底した方法によって貫かれていて、単なる形而上学的な対抗論理を提供しているのではない。したがって私たちの誰をも(もちろん西洋人をも)うなずかせるに足る普遍的な説得力を持つのである。だから、彼がまず、私生活を根底から規定している男女関係(エロス関係)のあり方そのもののうちに最初の人倫的契機を求めたというのは、きわめて必然的なことなのである。
 和辻は、「肉体」をけっして軽蔑しないどころか、「肉体」こそは精神があらわれる唯一の座であると一貫して考えていた。たとえば次の引用を見よう。

 以上のごとき省察の下に我々は、抽象化せられた性衝動から出発することを斥けて、まず初めに具体的な性関係を把捉し、そこに人間関係における根源的な「対偶」を見いだそうとするのである。日常的現実における性関係は、初めより人格や愛の契機を含み、心身の統一において男女が互いに相手の全体を取り、自己の全体を与えんとするのものであって、何らかの浄化過程を経た後にかかる段階に達するのではない。心身分離の立場に立って、身体の側に性衝動を、心霊の側に愛を認めようとするごときは、抽象的思惟の作為にすぎない。ある女に性的に引かれ、あるいは結びつく男が、その女の身体、たとえばその女の「顔」を、単に身体的なるものとして愛の外に押しやるなどということがあり得るであろうか。愛するものの「顔」は単なる肉体などではない。そこに相手の人格があり心霊があり情緒がありまた個性がある。相手が頼もしい人物である場合には、その頼もしさは顔に現われている。相手が優しければその優しさも顔にある。相手が他の何人によっても置き換えられえぬ唯一回的な存在であるとすれば、その唯一性もまた顔にある。(中略)顔が情緒をあらわしているように、全身もまた情緒を現わし得る。顔に気品があり得るように、身体にもまた気品があり得る。してみれば、肉体全体は精神の座である。しかもそれは肉体であることをやめはしない。そうしてその点が男女関係においては欠くことのできない重大な契機なのである。(『倫理学』第三章第二節)

 このように、心身一如として人間をとらえるところから、先に述べた「二人関係=男女の性愛関係」そのもののうちに人倫性を見いだすというユニークな視点が得られる。その人倫性は、ひとりの相手に己の心身のすべてを与えると同時に、その相手の心身のすべてを取るという全人格的な関係のあり方を根拠としている。この関係において、個人としての「私」は止揚されて、一体となった存在の共同が実現される。
 じっさい、深い性愛関係以外に、こういう徹底的なあり方はあり得ない。そうして、それが他を排除するまったく特殊な存在の共同であるがゆえに、最も私的なものとして公共性からは秘匿される。公の立場から見れば、それは他人に共有されない情の交換や「犬も食わない」些末なやりとりに終始するという理由から、「どうでもよい」「より低い」ものとみなされがちだが、和辻は、そのことを認めつつ、次のように高らかに宣言するのである。

 もちろんそれは閉鎖的な私的存在であることを媒介として実現されるのであるから、「私」として貶められるべき性格を振り捨てることはできぬ。にもかかわらず、それは人間存在の理法を実現する最も端的な道としての意義を失わないのである。従って世界宗教がいかにこれを排撃しようとも、人間はこの道を捨てなかった。男女の道は人倫の道である。その権威は逆に世界宗教を感化して、さまざまの形においてこの性的存在共同を容認するに至らしめている。(同前)

 この宣言は、同時代の思想家・小林秀雄が『Xへの手紙』のなかで、「たとへ俺にとつて、この世に尊敬すべき男や女は一人もゐないとしても、彼等の交渉するこの場所だけは、近付き難い威厳を備えてゐるものの様に見える」と書いたことに正確に呼応している。
 こうして、男女の深い性愛(恋愛)関係が、いかに第三者の介入を強く排除するものであるか、そうしてその介入が現に行われた時には、不倫による裏切りや三角関係の葛藤のように、いかに命さえかかった切実な苦悩を呼び起こすかについて、和辻は力説する。古来、文学が扱ってきたこの問題のうちに、彼は男女の結合に必然的に内在する人倫の如実な相を見いだすのである。
 また、一対の男女関係が公的な承認(婚姻)を経ることによって、夫婦共同体となった時には、その人倫性は、共同性実現の第一段階を指し示しているにもかかわらず、同時に、「信頼や信実のごとき根本的な人間の道を実現する場所としては決して初歩的な段階ではなくして最も深刻な要求の行われる段階」として、次のように押さえられる。

 ここで和合が問題とせられるに当たっても、それは夫婦が心身のことごとくを含めての互いの全存在をあますところなく与えまた取るという和合でなくてはならぬのである。これは己れの全存在を相手に委せるという意味で絶対信頼に近いのであるが、特に「身を委せる」という言い現わしが示唆しているごとく、身体的な合一を含む点において他の共同存在よりも徹底的なのである。
 この特徴をとらえて夫婦の和合はしばしば性愛の合一と同一視せられるが、しかし性愛の合一は夫婦の道の一部であって全部ではなく、また夫婦の道としてあらわに説かれてきたものでもない。(中略)宗教はむしろそれを否定的に取り扱い、哲学もまたそれに近い態度を取った。一般に行為の仕方を示している道徳思想においても性愛の仕方を立ち入って教えているものはない。(中略)が、もしかかる知識が教えられるとすれば、それは秘密に、隠された仕方においてである。すなわち性愛の合一は最も閉鎖的な「私的存在」であり、従って隠さるべきものなのである
。(同前)

「夫婦の道」としての本来性が、まことに的確にとらえられている。先の引用にも見られたが、和辻はここで、既成の宗教、哲学、道徳が、絶対に落としてはならない「人の道」であるはずの男女や夫婦のあり方に対して、軽視のまなざしをしか投げてこなかった事実をやんわりと批判している。これは、私自身がこれまでさんざん述べてきたように、特にキリスト教文化圏で顕著である。しかしそういう一種の道学的な抑圧装置をいくら施しても、そのリアクションはかえって激しく開花し、西洋文学や西洋芸術は、性愛を見事な形で大いに肯定的に扱ってきたのである。ことに古典文学やルネサンス芸術においてそれが著しい。和辻自身もそのことを指摘しているが、こういう問題をきちんと拾い上げるところが、彼の人間観の幅の大きさとしなやかさとをあらわしている。

 しかし、ここで一つだけ疑問を呈しておきたい。
 彼はただ性愛の合一が最も閉鎖的で私的であるゆえに隠されるべきものであると述べているだけであるが、これは一種の同義反復であろう。「人の道、夫婦の道はこうなっている」という現象の記述としては、この通りと言うほかはないが、では、なぜ性愛的な関係に限ってそのように厳重に秘匿されるのか、それが人倫の見地から見てなぜ正当なことなのかという問いに答えていない。私的な行為にはたとえば食事や遊戯があるが、これらが人と共に行われても、別に隠されることはないのである。
 これについては、後に私見を
述べることにする。

*次回は、和辻倫理学の難点について論じます。