小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源47

2014年09月25日 19時13分09秒 | 哲学
倫理の起源47


 デイヴィッド・ヒューム

5. 個体生命

 一九七七年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の総理大臣・福田赳夫が「一人の生命は地球より重い」という名言(迷言)を吐いて、犯人の要求をすべて呑んだことで有名になった。個体生命にかかわる倫理は、「いのちの大切さ」などと呼ばれて、他の何よりも優先されるという観念が一般的である。個体生命倫理は、この世に身体を持つ誰にも適用される抽象的性格を持っているので、この正当性自体に疑いが持たれることはあまりなく、この倫理に反する意志や言動、たとえば大量殺戮などは、ただちに非難されるのがふつうである。
 しかし、この論考で繰り返し言及しているように、人間生活の現実は、しばしばある倫理が他の倫理と解決困難な形で矛盾しあう局面を示すことがある。また、実際に個体生命の喪失にかかわる事態ではなくても、自己や他者の生命を衰弱させたり心身に危害を加えたりする人間の意志や言動はいくらでもあり得る。しかもそれらは、必ずしも明確な悪意に基いているわけではない。
 したがって、個体生命尊重の倫理は、それだけとして無傷で成り立たせることが容易ではない。そうした解決困難な問題について考察するために、まず、この個体生命の尊重という倫理が、私たちの生活のなかでどのように具体化しているかを、身近なところから追いかけてみよう。
 まず、意外に思われるかもしれないが、私たちは日常的な人間づきあいを通して、「よい性格」とか「いやな性格」とかいった区別の感覚を施しつつ生きている。じつはこの区別の感覚のなかに、個体生命倫理がすでに織り込まれているのである。
 ある人を「よい性格」と評価する場合に筆頭に挙げられるのは、「やさしい」ということであろう。恋愛や結婚の相手を選ぶ場合に、どういう条件を重んじるかというアンケート調査では、いつの時代にも、この「性格がやさしい」がトップを占める。
「やさしい」とは何か。人の気持ちをよく理解し、思いやりが深く、自分をゴリ押しせず、柔和で寛容であり、必要な時にその人のために力になってあげるということであろう。これは、せんじ詰めれば、他者一般の心や身体や人格、そして生命を大切にしているというところに行き着く。つまり「よい性格」という時の「よい」とは、個体生命倫理を身につけているということなのである。反対に「悪い性格」としてトップを占めるのは、冷たい奴、残酷な奴、自分勝手で人を人とも思わない奴、などであろう。
 次に、私たちは、親しい人々、知人友人の安否や健康を気遣うことが多い。この気遣いは、「気をつけて」「お元気で」「大丈夫?」「お体大切に」「どうぞご自愛ください」「ご多幸をお祈りしています」など、挨拶や儀礼のかたちで習慣化しており、それほど本気で気遣っていない場合でも、表現として頻繁に用いられる。
 これはつまり、それぞれの生命を尊重するという人倫精神が、人間生活のなかに根付いている一つの証拠である。たとえただの形式であってもその力は生きている。いやむしろ、そのような形式こそが人間関係を円滑に運ぶ有力な手立てであることを私たちがわきまえているという事実が大切なのである。
 実際に困っている人に親切にしてあげたりする場合には、なおさらである。自分を犠牲にしても人を救った時には、美談として大いに語り継がれる。
 また、命や健康にかかわる職業、医師、看護師、介護士、消防士などが、その社会的待遇に関してはさまざまであるにしても、一般的に言って尊敬に値する職業とみなされていることは疑いないだろう。逆に言えば、医療従事者に対しては、それだけ社会の倫理的なまなざしが厳しいわけで、少しの失敗も許されないという了解が成り立っている。医療過誤は発覚すれば大きなニュースとして取り上げられる。
 また私たちは、死者に対して哀悼、哀惜、鎮魂の念を抱くのがふつうである。憎んでいた人が死んだので心の中で「ざまあみろ」と思っていたり、あまりにも厄介をかけた人が死んだので「やっとすっきりした」と思ったとしても、それを、死の直後にあからさまに口に出す人はあまりいず、厳かな顔をして告別の儀に参加するものだ。極悪人が死刑に処せられたときにも、読経がなされ線香があげられ、み霊よ安らかに眠れと祈りがささげられる。
 死者を弔うのは人間だけだが、この弔いをするという行為のうちには、人間である限りひとしなみにその個体生命が尊重されなくてはならないという人倫感覚が生きているのである。
 さらに私たちは、自殺、殺害死、事故死、夭折、突然死などをその人にとっての特別の不幸とみなす習慣を身につけている。たとえ、もっと生きていてもよいことはなかったかもしれないという合理的な想定が成り立つような場合でも、そういう理屈は、まず感情が受け付けないだろう。その人が「急にいなくなってしまった」ことに対する私たちの驚き、織り成されている共同性からの個体の脱落に直面した時の私たちの寂寥感、虚脱感は、ほとんど身体的なものである。それは、私たちのそばにだれかれが生きてあるという単純な事実そのものについての尊重の思いを、裏側から証明するものに他ならない。
 またこういう例を挙げることもできる。私たちは、多く未来を持つ者、すなわち赤子や子どもや年少者、また未来の生を生み出す者、すなわち女性の生命の存続を優先させる習慣を持っている。
 これは、必ずしも子どもや女性がか弱い存在だからではない。弱いか強いかという尺度をヒト種族のあれこれに単純に当てはめることはできない。「いざとなると女は強い」とは、よく聞かれるセリフである。また、死が近づいている弱り切った老人よりも、壮健な若者や元気いっぱいの子どものほうが優先的に生き残るべきだという判断が健全だと感じるのは私だけではあるまい。
 だから、弱い存在ほどその命が尊重されるべきだというのは、理屈としては正しいように思えるが、必ずしも私たちの倫理感覚に適合しているわけではないのである。若者が特攻隊などで死んでいった事実にことさら悲哀の感情が集まるのも、可能であったはずの余命の長さが消滅してしまったこと、送られるべきであった豊かな人生が踏みにじられたことに対する悔しさが残存するからであろう。
 こういう場合には、強い弱いが命の尊重の基準となっているのではなく、前途の可能性が基準となっているのである。子どもの場合にも、単に「弱くいつくしむべき存在」という観念によってその命の尊重の度合いが根拠づけられるのではなく、そのほかに、明らかにこの「前途の可能性」の観念が優先順位を決めるのに与っている。
 戦争時における、戦闘員と民間人との区別、つまり、敵兵を殺すことはやむを得ないがたとえ敵国人でも後者を殺すことはより罪が重いと考える私たちの習慣も、無辜の生命に対する尊重の念の表れである。看護や救済が国境を超えて容認され、むしろ称えられさえするという事実や、捕虜殺害や捕虜虐待が戦争犯罪として弾劾されるという事実は、「人道的見地」なる感覚が普遍的に生きていることを示している。もちろん、こうした感覚が実際に守られるかどうかは、この際問題ではない。戦場ではどんな残虐もあり得るというのは、さんざん見せつけられてきた歴史的な事実である。
 かくして「ヒューマニズム」の倫理は、完全に実現可能な理想や思想のかたちで存在するのではなく、むしろヒト属としての私たちの身体感覚として、すなわち一種の共同性感覚ともいうべきものとして存在する。どんなシニシズム、スケプティシズムと言えども、この感覚としての存在を否定しきることはできない。

 しかしながら、個体生命尊重の倫理が、他の何をおいても無条件で受容できるかといえば、それにはさまざまな疑問符が付くだろう。福田赳夫が言ったように、本当に「一人の生命は地球よりも重い」と、どんな場合にも言い切れるだろうか。
 まず第一に、この倫理には、ただ生き永らえることが素晴らしいのではなく、いかに良く生きるかこそが問題なのだという認識が媒介されていない。これはソクラテス以来の最も重要な哲学問題だった。
 だからたとえば現代では、医学によるいたずらな延命措置に対して批判的な人が多く、安楽死の是非をめぐって倫理的な議論が盛んである。先進国の主流は安楽死肯定のほうに傾きつつあるようだが、それでもリヴィングウィルを自ら書くという人はまだまだ少数派である。これはおそらく、自分はいま生きているという自覚のうちに、将来にわたる継続への無意識的な期待が本質的な条件として入り込んでいるからであろう。自殺しようと思い決めた人ですら、強盗にいきなりナイフを突きつけられたら本能的に殺されることを回避しようとするだろう。どうすれば「よく生きる(死ぬ)」ことができるかを考えるためにも、一定の期間は意識を持って生きていなくてはならないのである。
 また、自分を超えた「何者か」のために命をささげることは、一般に崇高な生き方、すなわち「よく生きること」として称揚されることが多い。「祖国のため」「正義のため」「愛する者たちのため」エトセトラ……。これは、エゴイズムや強欲や生への醜い執着に対する対抗命題として便利だからである。
 しかしじつは私自身は、こういう抽象的な表現が好きではない。「何者か」に殉ずることがなぜ気高いことなのか、その合理的・普遍的・積極的な理由を見出し難く、それゆえに、この観念はしばしば美学的な惑溺を呼び起こすからである。犬死も時には美化され正当化される。それを避けるためには、少なくともどんな具体的状況のもとに、どういう「何者か」に対して命をささげることが尊いと言えるのかが、はっきりと規定されなくてはならない。だがこの問題も倫理学にとってたいへん重要なので、公共性の倫理について論じるときに、再び取り上げることにしよう。

 さて個体生命尊重の倫理が無条件に受容できない第二の理由は、これに最も端的に対立する思想、すなわち優生思想を完全に克服できるかどうかが疑わしいという点にある。 優生思想と聞けば、ただちにナチス・ドイツの所業が連想され、口にするさえ忌まわしいタブーのように考えられている。だがこれは、ある極端な歴史事象だけを取り上げて、それをただ忌まわしいタブーとして囲い込み、自分たちはそれとは無縁だと目を背けておけば済む問題だろうか。私たちは日々の生活において理性と感情との両方を駆使しつつ、じつは多かれ少なかれ「優生思想」を、それと自覚せずに実践しているのではないか。
 たとえば、妊娠期間中に、胎児の障害の有無を調べることができる出生前診断は今日当たり前のように行われているが、これは一種の優生思想とみることはできないだろうか。
 また、仕事や教育において、能力の劣った者は冷遇されたり排除されたりする。これは、劣弱なものはそれだけ社会で生きる資格が少ないと判断していることを意味するから、突き詰めればやはり優生思想であろう。
 ある雑多な集団が共通の災難に遭った時などに、そのなかで「立派な人物」や「優れた人物」や「リーダー格の人物」の生命が周囲から優先視され、特別に救助の手が差し伸べられる行為が容認されるとすれば、それは一種の優生思想である。
 プラトンの『クリトン』において、クリトンが獄中のソクラテスを密かに助け出すべく手はずを整えて、彼にしきりに脱出を勧めたのも、単なる友情から出た仕業ではあるまい。クリトンは「この偉大な人物を死なせてはならない」と固く決意したのであって、相手がただの囚人だったら平気で無視しただろう。
 さらに、さまざまな社会的差別、いじめや集団リンチなどを根絶することはほとんど不可能である。それは、人性のなかにもともと自分の存在を何らかの集団にアイデンティファイせずにはいられない心理が構造的に含まれているからである。ある人が特定の集団に帰属することは、すなわちそれ以外の個人や集団を自分とは違う種族としてカテゴライズすることを意味する。そうして、両集団が生活のなかで接触しつつ、かつその間に強弱や好悪を根拠づけるに足る明確な表徴があれば、それだけで差別やいじめの必要条件はそろったと言えるのである。これも明らかに優生思想に結びつくだろう。
 このように言ったからといって、私は、これらの「日々の実践」をすべてなくすべきだという理想を述べているのではない。これらのなかには、健全とすら言えるもの、仕方がないと承認するしかないもの、などが含まれている。要は程度問題なのである。じつは先に述べた、弱った老人よりも壮健な若者を、男よりも女子どもを、といった選別の意識も、考え方次第では一種の優生思想なのである。

 さらに、個体生命尊重の倫理が無条件に受容できない第三の理由は、この倫理には、「現実の生は辛さや苦しさや煩悩がつきものだ」という認識が媒介されていないという点である。
 誰しも人生の途上で、いったい自分は何のために生きているのだろうという問いに遭遇する。これは、思春期、青春期などに、さしたる現実的な苦痛も伴わずに純粋に哲学的な問いとして訪れてくることもあるが、より多くの場合には、いまの生活そのものの空虚感、周囲に受け入れられないことからくる絶望感、不幸な事態の連続、強制や過労、終わってしまった過去を振り返った時の悔恨、自分の能力に対する自信喪失などの、情緒的な負荷を伴っている。
 こういう情緒的な負荷を背負いながら生の意味や目的を問うている人にとって、ただの抽象的な個体生命尊重の倫理は、ほとんど無力であろう。

 さらに最後の理由として――これが最も重要なのだが――、一般に人は、個体としての時間的・空間的な限界から逃れられないので、誰しも自分に近しい人の命のほうが、遠い人のそれよりも大切に感じるという傾向を明確に示す。人類愛とか博愛などと理想を述べ立てても、そういう題目は、現実の生のなかでは容易に実現されない。
 もちろん、理想に向かって努力することは可能だし、現にその名に値するような業績を示した偉人も数多くいた。しかし同時に、人は性愛関係や仲間や同志を作り、これらに属さない人々をよそ者として位置づける。そうして条件次第では、自分の仲間以外の者たちに対して敵意をむき出しにし、互いに殺し合いの闘争にまで発展させることがある。多くの場合、闘争するに足る確固たる理由があるのではなく、まさに仲間と非仲間とを区別するからこそ闘争するのである。
 しかもこれもまた、人性として自然なことと考えなくてはならない。そのように人間の現実を見ないで、個体生命尊重の倫理だけで事足りると思いなすことは空疎である。
 空想的な理想を嫌った穏健な懐疑主義者のヒュームは、『人性論』のなかで、次のように述べている。

 まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係といったものとかかわりのない人類愛のような情念は人間の心にはない、ということである。たしかに、どんな人間でも、また実際、どんな感受力のある存在でも、その幸、不幸がわれ われの身近に置かれて、生き生きとした色合いで示されるときには、ある程度われわれ の心を動かすのは事実である。しかしながら、こうしたことはただ共感からのみ起こるのであり、人類へのそういう普遍的な愛情の証拠にはならないのである

 ヒュームもまた、「共感」の存在を認めていた。しかしそれは、「幸、不幸がわれわれの身近に置かれる」ことを条件としていた。ある種の共同体感覚ともいうべきものを私たち人類は確かに身体的にそなえてはいるが、それが現実化するのは、常に具体的な、限定された条件下においてなのである。
 以上のようにして、個体生命尊重の倫理には、本質的な限界があるということが明らかとなった。


*次回も個体生命倫理について論じます。