小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源52

2014年11月10日 16時18分06秒 | 政治
倫理の起源52




 さてそれでは、公共体としての国家の人倫性とは何か、それは他の人倫との間でいかなる困難な関係に置かれるかという問いに踏み込むことにしよう。
 いま述べたように、国家は、固有の歴史や伝統を基盤としながら、心情をぎりぎりのところまで共有しうる人々の参加による、虚構(幻想、ではなく)された共同性である。したがって、日常生活における親和感覚や実感や肌合いの共有に比べてその広がりの可能性は極めて大きく、その統合の水準は他の共同性に別して超越的であることを免れない。
 しかしそれがたいへん超越的である(人々を束ねる範囲が広く大きく、時間的にも個体生命の限界をゆうに超えている)からといって、そのこと自体が、他の関係における人倫性と比べて優位に立つことを意味するわけではない。言い換えれば、多くの人々が考えるように、国家は他の人倫精神に対して何よりも優先させるべき「最高の人倫精神の実現」なのではない。
 この共同性の本質は、歴史的に積み重ねられてきた言語や利益や宗教などの共有を根拠としつつ、しかしそれらの多様性を内部に含みながら、私的関係の分裂・対立を克服し、そのメンバーを束ねて意思統一を実現するところにある。したがって、規模としてはいかに他を超越していても、価値や正しさの点で、必ずしも他の人倫性よりも優っているわけではないのである。
 ただ、その意思統一のための決断や行為は、すべてのメンバーの生命や福利に影響を及ぼす。私たちのそれぞれの実存は、ある国家のなかに生まれ育ったことによってあらかじめその存在性格を大きく規定されている。しかしその規定は、それぞれの実存にとって、あくまで機能的な意味で重大な(重視すべき)意味を持つにすぎない。
 この機能的な意味で、というところに注意しておいてほしい。第一に、国家は個々の政府機関のような実体なのではなくある統合性をもつ力の作用(はたらき)である。したがって第二に、その作用(はたらき)が有効に機能するために、統合を維持するに足る象徴性を必要とする(たとえば皇室や憲法や国旗や国籍のような)。そうして第三に、メンバー全員の間に、その象徴性に対して、たとえ無意識的にではあれ、同意と承認を与える心のシステムが成立しているのでなくてはならない。
 これらの性格は、それ自体が順を追って分析できる「過程」を示しているのだから、国家的共同性というものがもともと個々の生活者の生の充足にとって、「機能」としての意味を持つことをあらわしている。それは、何か無条件に身をゆだねるべき「至高の価値」として存在しているわけではない。国民のだれかれが、その祖国に命を捧げるほどの熱い感情を抱くことは自由であるが、同時にまた、国家が自分たちの生存を脅かすような作用を及ぼしてくるとき、その機能をそのまま受け入れなくても済むような対策を考えることも自由なのである。
 私たちは自分の祖国をア・プリオリに愛するから国家の共同性を支えるのではない。ある国家のうちに生まれ育ったという宿命を背負い、またその地域で生活し続けるという現実を抱えているからこそ、その国家を支えたいという感情が育まれるのである。ただしそれには条件が必要である。その国家が私たちの生を充足しうるだけの人倫性を示す限りにおいて、私たちはその人倫性に対するおのずからな同化感情を抱くのである。

 
 ここで「愛国心」という、議論の多い用語について考察を加えておこう。
 この用語ほど評価の別れる概念も珍しい。いっぽうの人々はこの概念のたしかな保持こそが国の結束をもたらし、それが私たち国民すべての安寧を保証すると説く。彼らにとっては愛国心の欠如は 極端な場合にはそのまま道徳心の欠落、人間性の歪みをすら意味する。
 他方の人々は、この概念のうちに、悲惨な戦争をもたらす危険な心理的原因を見出す。彼らによれば、これあるがために国家と国家とは不必要な摩擦と争い合いを引き起こし、その結果として多くの国民を「無意味な犠牲」へと駆り立てるのである。自国を愛することはそのまま他国に対して排他的な態度をとることである。愛国心を超克して、自国も他国も平等な価値をもつとみなすこと、それこそが平和への道を約束する。
 このような対立的解釈は、おそらく二つの大戦を経験したどの先進国にも存在するだろうが、ことにわが国の戦後社会において著しい。この概念に対してそういう分裂した感情的な評価を抱くには、それなりの理由がある。
 日本はかつてアジアで唯一欧米並みの近代国家を成立させた。日本は欧米帝国主義・植民地主義をいち早く学んだ優等生だった。その学習過程があまりにも急速であったために、また人種的・文化的相違も絡んでいたために、内に国民感情の性急な昂揚を生み、外に欧米近代国家の警戒心を刺激することとなった。これがしたたかな国際社会に伍していくための外交力の未成熟(準備不足)を生み、結果的に国際的な孤立を招いてしまった。そのため欧米列強、ことに当時すでに世界の覇権を獲得しつつあったアメリカから完膚なきまでに叩かれた。
 さてこれだけひどい敗北を味わって国家的アイデンティティをほとんど否定されると、一般国民の心理は、ぜひとも愛国心を再建しなくてはならないという切迫した感情と、そもそも愛国心を抱くこと自体が間違いの元なのだという自虐的な感情とに分裂してしまう。このコンプレックス(複合感情、両価感情)が戦後日本国民の大方の深層心理だった。そうしてその分裂を政治的な知識人言論やジャーナリズムのレベルでわかりやすく顕在化させたのが、いわゆる左右対立である。
 だが私の考えを端的に言うと、個人が「愛国心」を抱くことの是非をめぐって議論するという言葉の構造、その問題の立て方そのものが、国家(この場合は近代国家)という共同性に向き合う態度として的を外しているのである。国家(この場合は近代国家)というものは、もともと「愛する」という感情の対象として似つかわしくない。「愛された」近代国家は、その成り立ちを自ら顧みて、懸想された自分をかぎりなく照れ臭く思うに違いない。
 逆に個人が愛の反転としての「憎」を近代国家に差し向けて、それを滅ぼすことが理想に近づくことなのだと感じる場合もある。しかしそういう心情本位の思想は、一定の法的な完成度を具えた近代国家にとってあらかじめ織り込み済みの思想なのであり、いわば「釈迦の掌に乗った悟空」なのである。法治国家は、国内の社会秩序を乱す行動には断固として対峙するが、反国家思想を抱く自由を保障しているからである。
 こうして近代国家は、愛憎というような私たちの生活心情(エロス的心情)をはるかに超越した地平に打ち立てられた虚構なのであって、それに対する愛憎は、それだけとしては意味をもたない一種の擬似感情にすぎないのである。