小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源53

2014年11月25日 14時55分29秒 | 政治
倫理の起源53




「愛国心」についての考察をもう少し続ける。
 素朴な祖国愛とか、愛郷心といったものはもちろんあり得る。しかしその場合に言われている「祖国」とか「郷」というのは、生まれ育った地域の自然と地続きになった風土であり環境である。それはこうした心情を個人に抱かせるに足るだけの具体的なイメージをはじめから具えている。そうしてそのイメージが個人の身体のなかに記憶として鮮やかに生きているのである。パトリオットとか、社稷(しゃしょく)といった概念が、この愛の対象としてふさわしいだろう。
 たとえば戦場で命をかける場面において、多くの兵士たちがふるさとの山や川をわれから思い出し、それによって死に直面している自分の心境を彩ることがある。そのとき彼の内面は、自分のこれからの行動の意味を感性的な次元での共同観念によって満たそうとするのである。
 だが残念ながら、これらの愛の対象としての共同観念は、近代国家の思想的骨格をなしているナショナリズムには、順接ではつながらない。それどころか、法的合理主義と政治的機能主義を統治のための看板に掲げる近代ナショナリズムは、民衆のパトリオティズム的心情やその象徴的な表現行動を裏切ることがあるし、事実、日本の近代史においてもしばしば裏切ってきた。神風連の乱、西南戦争、大本教弾圧、二・二六事件など。
 またもちろん日本はとても生活しやすいから好きだとか、私は日本の伝統・文化・慣習を愛するといった言い方は大いに成り立つ。私自身もそういう感覚を持っている。しかしこの場合も、近代国家としての日本に対する「愛国心」という概念にそのまま接続するわけではない。というのも、「日本国」という虚構された運動の全体は、私たちの生活感覚からは格段に抽象度の高いレベルに置かれており、それは日ごろ国家のことなどまるで意識していない膨大な人々をもそのうちに包摂しているからである。
 ある人が日本国民であることの要件は、本人がそのことを何らかの形で自覚しており、日本の法に服することを承認しており、かつ日本国籍を有するということだけであって、彼は日本人でありながら、日本の生活を忌避することもできるし、日本の伝統・文化・慣習を愛さないこともできる。つまり、いわゆる「愛国心」を持っていなくても彼はじゅうぶんに日本人なのである。逆に外国籍を持つ人であっても、日本の生活が好きであったり、日本の伝統・文化・慣習を愛する人はいくらでもいる。
 私がここで何を言いたいのかというと、自分の内面に聞いてみて、家族や恋人や友人やペットを愛するのと同じように、これほど複雑な政体と社会構成をもつ「国家(近代国家)」なる抽象態を本当に愛していると断言できる人などいないのではないかということである
 もちろん、普通の人に「あなたは愛国心を持っていますか」と聞けば、多くの人が「持っている」「まあ持っている」と答えるだろう。しかしそう答えるのは、問いの形式に拘束されている部分が大きい。問いの存在しないところでは、「この日本国」を愛するという感情を日常的・かつ自覚的に抱いている人は、残念ながらそう多くないはずだ。自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである。そこにさらに、戦後半世紀にわたる反日・反国家イデオロギーの注入が加わる。国外からの脅威が現実的なものとなり、しかもそれが一般国民の生活空間にじかな実感として伝わってこない限り、潜在的な「愛国心」は行動につながるものとしては顕在化しないだろう。
 かつて国家への「恋闕(れんけつ)」の情に己れを託して行動した思想家や文学者がいたが、それは多分に主観的な自己充足の回路に終わる観念であった。またそれは、近代国家が自身を直接的な「愛(エロス)」の対象として容易には受け入れがたい複雑で冷ややかな構造を持つからこそ、成就不可能な観念の恋として意味を持つという逆説の上に成立していたのである。近代国家はそうした情をまともに受け止めて吸収するだけの「心の用意」を具えていない。
 しかしだからといって、国の成り行きを大切に思う精神とか、国のために力の限りを尽くす精神といったものが存在しないわけではないし、それらが国家にとって、またその国家に実存を深く規定されている私たち一人一人にとって重要な意義をもたないと言っているのではない。ただ私は、こうした精神を「愛国心」という粗雑で曖昧な感情用語で言い括らないほうがいいと主張しているのである。これらの精神は、ただ感情のみによって基礎づけられるのではなく、あくまで理性的な意志の参加を俟って初めてその国家的人倫としての要件が満たされるべきものなのである。
 先に、国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つと述べた。誤解を招かないために一言しておくと、この場合の「心情」という言葉は、いわゆる「愛国心」のことではない。いま述べたように、「愛国心」のようなものを、多くの人々は日常生活のなかでいつも意識的に保持しているわけではない(国際スポーツ大会のような衛生無害な場合を除く)。それは、国家が危機に直面した時、すなわちこのままではその国の住民自身の平時の生活が脅かされるという自覚が高まった時に初めて目覚めさせられ発動する。
 これに対して国家の仕組み(国体そのもの)を不断に支えるものとしての共通心情とは、私たちは同じ何国人であるから他国人よりもずっと深くわかり合えるという単なる「了解の感覚」である。これは格別の昂揚感情として示されるのではなく、日々の活動、交流、言語行為、経済行為、他国人との交渉などにおいて不断に、ごく普通に作用することによって、冷静なナショナリズムの基盤をなしているのである。
 さてそこで、国家の危機をより強く意識する人々(わが国では保守派と呼ばれる)は、愛国心を持つことの大切さを強調し、教育によるその涵養の意義を訴える。極端な場合には、強制的な注入の必要を説く。この傾向には、大きく言って二つの要因が考えられる。
 一つは先にも述べたように、わが国の場合、手ひどい敗戦の結果として国家否定的な左翼イデオロギーが言論界、ジャーナリズム界を席巻したため、それへの対抗として国家意識の再建が強く叫ばれたこと。もう一つは、戦後、経済が繁栄し平和が維持されたために、国民の間に国家意識が薄れて私生活中心主義が支配するようになったこと。この二つの要因が、保守派をしてしきりに、愛国心の必要を説かしめているのである。
 だがじつは、愛国心を強要したり、その必要を法に謳おうとしたり、道徳教育をもって愛国心を注入しようとすることは、近代国家をきちんと成り立たせることにとってほとんど無効であり、国家(近代国家)という共同性における人倫精神のはき違えなのである。というのは、近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
 このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる
 先に「職業」の項で、職業倫理をきちんと果たしている人は、政治家、マスコミ人、知識人、華々しい有名人などよりも、名もない市井の地道な職業人、たとえば鉄道員、郵便配達人、バスの運転手、大工や板前などの職人、看護師、自衛官、消防士、等々に多く、それは誰に対して何をどうするのかが具体的に限定されていて、役割のはっきりした職能であるからであろうという意味のことを書いた。
 この事実は、いわゆる「愛国心」と称せられる感情や意志が実際に強く現実の行動として現れるのが、多くの場合、高級官僚や統帥本部などよりも、前線で戦う兵士のような現場においてであるという現象に応用することができる。彼らは命令に従って死を賭して任務に従うが、それを「愛国心」とか「報国心」とか名付けるのは、本人たちであるよりも、背後から観察し、感銘を受ける他者なのである。
 兵士の内面はもっと複雑であり、そこでは、「生きたい」「愛する人の元に帰りたい」という思いと、目下の任務にあくまでも忠実たろうとする職業倫理との葛藤がすでに経験されている。しかし自分の置かれた現実状況をよく認識して職業倫理を貫かざるを得ないと観念した時、死を賭する覚悟が粛然と訪れてくるのである。それを単純に「愛国心」と呼ぶことはできない。
 一般に国民生活における欲望や関心は極めて複雑多様である。その錯綜した状態をまとめ上げ、必要に応じて一つの結束をもたらすために必要なのは、ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである
「愛国心」の必要を訴える感情的保守派は、しばしば身近な者たちや郷里への愛からそのまま地続きで、国家のようなより超越的なレベルの共同性への愛につながっていくことが可能であるかのような論理を用いる。しかし残念ながらこれは欺瞞的なお題目というほかない。というのも、じっさいにそうしたつながりを保障する具体的なステップがそろっており、小から大に至る経路が明らかにされていないかぎり、そうした主張は、単なる党派的な幻想による感情の強要に終わるほかないからである。
 国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つ。この機能的かつ合理的な統合性は、「愛国心」のような感情的なものに依存することによって保証されるのではない(それはしばしば実存や個体生命と矛盾するために道を誤らせることがある)。身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」によって保証されるのである。その工夫のあり方のうちにこそ、国家の人倫性があらわれる。いささかレトリカルに言えば、国民が国家を愛することが要求されるのではなく、国民を愛しうるような国家を存立させることが要求されるのである。