昨日(2016年6月15日)、都議会での舛添知事の最後の言明をテレビで観たばかりです。いまさらこういうタイトルの記事を書いても「遅きに失す」かもしれませんが、やはりこの際自分の考えを表明しておこうと思います。あの決着場面を見るずっと前から、私はこの問題について周囲に同じようなことを言っていたので、けっして「炎上」を恐れて表明を控えていたわけではありません。単に他のことにかまけ、タイミングを逸したにすぎないのです。もっとも私などが書いても「炎上」などには至らないでしょうが。
はっきり言って私は、辞任という決着に至るまで延々と続いた舛添いじめの「逆らい得ない」空気の流れを終始不愉快に感じていました。このいやな空気の流れはいったい何を意味しているのか。私の不愉快感覚は何に由来しているのか。
誤解のないように断っておきますが、私は個人的に舛添要一という人が好きではありませんし、今回指摘された知事としての振る舞いをいいとも思っていません。この人はもともと自己顕示欲が異様に強く、元国際政治学者の肩書よろしく、海外向けには不必要としか思えない派手な行動が目立ち、権力欲もすこぶる旺盛です。また「都市外交」と称して中央政治の頭越しに朴槿恵大統領と会い、都立高校跡地を韓国学校にすると口約束した件も、日韓の現状を考えるかぎり、どう見ても失政というべきでしょう。
しかしあらゆる大マスコミがこの間、あたかも日本国の一大問題であるかのように連日このニュースで紙面や画面を埋め尽くし、舛添問題以外に国家としての重要問題がないかのような印象を与え続けたのはいかがなものでしょうか。私は、この現象を民主政が衆愚政治化しつつある典型と見なします。そして大局的に見た場合、そこに日本の民主政が全体主義へと転落してゆくきわめて危険な兆候を見出さざるを得ません。
告発された舛添氏の「罪状」の主たるものは、要するに公金流用という公私混同問題です。その内容を見ると、海外出張でのファーストクラス使用や一流ホテル宿泊など、通算8回(9回?)で総額3億円(2億円?)の出張費、美術品購入額900万円、湯河原の別荘近くの回転寿司屋や自宅近くの飲食店などでの食事代30万円以上、会議の名目で家族旅行総額37万円、湯河原別荘への公用車使用など、ということになります。
初めの海外出張費については、たしかに高すぎるし、都政上果たして必要かどうかに疑問が残ります。しかし石原慎太郎元都知事もこれに近い金額で同じようなことをやっていたのに、長年の「オーラ」のおかげか、ほとんど問題にされたことがありません。しかも彼の場合、ろくに都庁に登庁せず、必要な執務をしなかったそうです。サラブレッドは得ですね。
これに対して舛添氏の場合、あまり裕福とはいえない生家の前に、川を隔てて八幡製鉄所の重役の家がでんと構えていて、少年時代にそれを睨みながら、「よーし、今に見ていろ」と思ったそうです。こういう激しい上昇志向欲と成功へのギラギラした野望があのエネルギッシュな活動と深く結びついているわけですが、そうした「成り上がり者」性を、民衆は鋭敏に嗅ぎ分けて好んで叩きたがるものです。その雰囲気が、活躍期の舛添氏には確かににじみ出ていましたね。自分とたいして変わらない出自なのに成り上がりやがってけしからんというわけでしょう。人は手の届かない高みにあるものにはあこがれ、逆にちょっと自分より優位にあるものを引きずりおろそうとするのです。これは一種の差別感情と言ってもいい。人間の醜い一面ですね。よってたかって私生活のあることないことまでも噂し、書きたて、本人をじわじわと追い込んでいきます。
美術品購入に関しては、都政運営上必要な部分と、単なる趣味としての私的流用でしかない部分とに分かれるでしょうが、明確な線を引くことは困難です。それ以外の行跡は、金額もきわめて低く、まことにチンケな問題だというほかありません。昔の政治家はこんなこと平気でやっていました。脛に疵を持たない政治家などいるわけがなく、叩けばみなほこりが出るのはこの世界の常識です(だからいいと言っているわけではありません)。
また、意味が違うとはいえ、どの企業経営者や事業主でも、税金逃れのためにいろんなことをやっています。大規模なレベルで言えば、メガバンクやグローバル企業の巨額の法人税逃れ、タックスヘイヴンへの資金流入が平然と行われていますね。こちらのほうがよっぽど問題です。日本人はほとんどそのことを忘れてしまっています。
そうした大きな問題を大マスコミは真面目に取り上げもせず、その代わり、聖人君子ぶりを気取ってひとりの公人を徹底的にスケープゴートに仕立てるための世論操作に奔走しました。いつものやり口といえばやり口ですが、「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」(ヨハネ伝8章7節)というイエスの言葉でも少しは噛みしめたらどうでしょうか。
この世論操作に見事に呼応して踊らされたのが愚民化した大衆で、その群衆心理の出どころは言うまでもなく下品なルサンチマンそのものです。ただでさえデフレ不況で欲求不満がたまっているので、公務員が安定した高給取りにみえる。そこへもってきてアクが強く反感を買いやすいキャラが、ザル法と言われる政治資金規正法をいいことに、つい調子に乗って公私混同を犯した。こんないいガス抜きショーはないですね。しつこく、しつこく「人民裁判」が続きました。これは血祭りという見世物以外の何ものでもありません。
今回の追及で、完全に抜け落ちているのが、舛添氏の知事としての行政手腕や執務実態、実績などについての評価です。この点についてマスコミはほとんど問題にせず、ただ大したことのない使い込みを非難し続けただけでした。これはいかにも片手落ちです。私は舛添氏の行政手腕や実績がどんなものか知りませんが、それをも取り上げて判断材料にするのでなければ、本当にひとりの政治家を公正に判断したことにはなりません。だれもそういう所に目が及ばず、道徳的・人格的な非難ばかり浴びせる。いかにも日本人的です。
さらに、こうした追及をしてきた人々は、彼が辞任した場合、だれが後任として適切なのかについての展望をまったく欠落させています。長期戦略が何もなく、ただ目前の「敵」を引きずりおろしさえすれば、「あとはどうにかきゃあなろたい」とばかり、ひたすら感情的に騒ぎ立てるだけなのですね。これもたいへん日本的です。この前の戦争の失敗の底に潜む心性と共通しています。
さてその後任候補ですが、下馬評でいろいろな名前が取りざたされています。しかしさまざまなメディアが行なったアンケートで、必ず上位にランクされる人に橋下徹元大阪市長がいます。本人はいまのところ出馬を否定しているようですが、この人は「2万%ない」などとウソばかりついてきた前歴があるので、現時点での言辞は全然当てになりません。橋下氏が仮に出馬した場合のことを考えると、それこそは日本が全体主義への道をひた走ることになる、と私は恐れるのです。すでに都民の中には、「やっぱりあの人しかいないんじゃないの」などという声がいくつも聞かれます。
たかが都知事というなかれ。彼が都知事になれば、次は総理大臣を狙うに決まっています。安全保障で頭をいっぱいにしている安倍首相と妙に相性がいいのも不気味です。また、東京都民は大阪市民と違うというなかれ。彼は一種の天才詐欺師ですから、大阪市民には大坂モード、東京都民には東京モードと使い分けるなどお茶の子さいさいです。現にいまテレビのバラエティー番組で、しきりに好感度を高めていますね。
彼は「大阪都構想」なるものをぶち上げた時、議会が否決したにもかかわらず、住民投票にかけるというルール違反を平然とやってのけました。そうして、危ういところでこの構想は実現しかけたのです。それをかろうじて防いだのは、藤井聡京都大学院教授を中心とした学識者同盟の必死の努力があったからです。
ちなみに「大阪都構想」とは、次のようなインチキだらけの構想です。
①大阪市と大阪府が合併しても、国会で法律を通さなければ、「都」にはならないのに、東京と張り合いたい大阪市民の夢をくすぐった。
②二重行政解消という触れ込みで実現するのは、わずか二億円の節約にすぎない(そんな金額よりも、合併手続きのほうがよほどお金がかかります)のに、いかにも市の発展に寄与するような幻想を振りまいた。
③大阪府の財政は危機状態で、借金ができず、法的に「禁治産者」のような位置にあるので、合併すると大阪市から二千億円以上の金が府の借金返済に使われてしまう実態をひた隠しにしていた。
④大阪市は市としての権限を失い、東京都の行政区のようにほとんど何の権力もない区に分割されてしまうだけなのに、そのことをまったく伝えなかった。
まだまだあったようですが、とにかくこの構想は、大阪市民を騙して市の地盤沈下を一層促進する以外の何ものでもありません。住民投票で敗れた橋下氏は、記者の前に爽やかな顔で出てきて、政治から手を引くと嘯き、その実、大阪維新の会の顧問役に就きました。自らは黒幕にとどまり、市長任期切れを機に同じ大阪維新の会から吉村洋文氏を擁立して、この選挙には勝利したのです。大阪市民は、また騙されました。
二〇一二年に橋下人気で華々しく立ち上がった日本維新の会は、もともと大阪維新の会をその前身としています。ところでこの年の総選挙の際、日本維新の会がどんな公約を掲げていたか憶えておいででしょうか。いちいち論評すると長くなりますので、手短に行きます。
①首相公選制――代議政治の意義をわきまえないポピュリズムの典型です。直接民主制はイメージや空気で選んでしまう国民の特性を利用したもので、全体主義者にとって一番の早道です。ちなみにアメリカの大統領選挙は、複雑な仕組みによって間接民主制を担保しています。
②参議院の廃止――当時のねじれ状態における決まらない政治へのいらだちから出た提案でしょうが、すぐに決まってしまう政治はもっと危険です。
③衆議院議員定数の半減と議員歳費の三割カット――めちゃくちゃです。日本の議員数の人口比は世界で最も少ない部類に属します。日本人の好きな倹約の美徳を利用して、公務員の身を切らせることで国民のルサンチマンを和らげようというつもりでしょうが、一億三千万の人口を抱える大国の政治をわずか二百四十人の国会議員で取り仕切ることができるでしょうか。つまりは独裁政治への道を開いておこうという魂胆なのです。
④消費税の地方税化と地方交付税の廃止、道州制――地域の自主自立という美名のもとに考えられた政策ですが、これをやると、もともと地域格差のある地方と地方とで競争しなくてはならず、優勝劣敗が露骨にまかり通ってさらに格差が拡大し、地方の過疎化と東京一極集中がいっそうすすみます。税収の公平な配分の観点からも均衡ある経済発展の観点からも防災の観点からも、けっしてとってはならない政策です。
以上でお分かりのように、橋下氏という人は、大衆の心理を読むのにじつに長けた人で、その「才能」をフルに活用して最高権力を奪取する機会を虎視眈々と狙っているのです。そう、ドイツに登場した「あの人」にとてもよく似ていますね。ちがいは、あの人のように経済復活のための腕力が不足していること、日本にユダヤ人憎悪のような根深い歴史的事情が存在しないこと、くらいでしょうか。
でも、もしこれからの日本がデフレ脱却できず、国民の不満がいよいよ高まって行った場合、その時こそが、この人の出番です。政治とは、ある意味では、人民の無知をとことん利用して、いかに自分の思い通りに国を動かすかという操作術のことだからです。悪い芽は早く摘まなくてはなりません。橋下氏がもし都知事選に立候補したら、けっして彼に投票しないようにしましょう。彼よりはいくらかだらしない人のほうがまだマシです。
今回の舛添騒動では、まさに大マスコミが、何の未来展望もないままにつまらない煽動を繰り返し、曲がりなりにも保たれていた既成の秩序を破壊しました。そうして権力の空白を作り出して人々を不安に陥れ、全体主義に向かう道の露払いを見事に果たしてくれたのです。
舛添さんについては、「朝まで生テレビ」に出ていた頃から好感を持っていませんでしたが、それとこれとは別で、一連の芸能人の不倫騒動同様、今回の辞任劇も完全なマス・ヒステリーの所産でしたね。みんな日々の生活でフラストレーションがたまっているんでしょう。マスコミ報道のでたらめさも相変わらずでした。
橋下徹さんの引退も、当然ポーズに過ぎないでしょうね。今回の都知事選はともかく、近い将来必ず政治家として復活するでしょうが、心配なのは、朝日新聞を始めとする左翼リベラルたちが、「自民党より橋下の方がマシ」という論理で、彼に味方することもありうるのではないかということです。何しろ左翼思想と新自由主義は、反国家というスタンスでは共通していますので。
朝日、日経などがそういう方向に動くことはおっしゃる通り論理的必然のように思えます。ことに朝日の戦中から戦後への現象的な「大転換」は、ポピュリズムとしての大衆迎合という点で一貫しているので、きわめて危険です。
9時前後から2時前後の民放の横並びワイドショーに出てくる局(フリー)アナ&天下りタレント&解説者&ジャーナリスト達の、事前に作成されたフリップに従って互いの意見を肯定しているだけの番組(新聞もなのかもしれませんが)は、
もし異論を唱え出したら出演切り捨て改革されてしまうアウシュビッツ・ナチスの再来なのではないかと思います。洗脳に近いのです。
以前ワイドショーは自制とかをしていた筈なのですが、今では忘れ去られてしまい無しのツブテです。しかもまだ橋下を重宝してる。
この辺の番組制作している会社組織業界こそ、放送規制強化(垂れ流しになる民間営利地上波は近代では癌です)して再編淘汰してリストラして、これこそアベドリルで構造改革(意味は甘利にも不明確な単語ですけど皮肉としての使用)して潰すべきです。
地上波は以前から超スーパーウルトラ過剰供給(全ての番組を指すつもりではありません)であり、需要と言うか無理矢理頭に刷り込むモノでしかないので普通は完全に思考停止になります。
70年代には中学の先生にテレビを見たら馬鹿になると言われたことがありましたが、あの頃から営利企業によるまともな報道の限界を過ぎてきていたのでしょう。
速くスクランブル放送化(しても自分には選別能力も失われましたけど)しないと戦前のコミンテルン(朝日新聞?)のスパイ同然です。
(一貧民のル・散恥男を自覚してるつもりですが)長々と失礼しますた。
毎日、毎日映像と音声を垂れ流し続けるというのは、本当に恐ろしいですね。サブリミナル・レベルで大多数が信じてしまうのですから。「あの人」も、この効果を実によく知っていました。
しかしこれを厳格に規制することは自由主義の原則に反するので、たいへん難しいですし、またいいことでもないと思います。私たち一人一人が、情報の価値を測定する力を養い、同時に自ら発信する技術を習得するしかないのでしょう。