小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

自殺幇助はどこまで許されるか(その2)

2018年05月24日 19時32分48秒 | 思想


 さて法と道徳とはもちろん同じではありません。
違法性を問われなくても、道徳的には許されないことはたくさんあります。法はそれを管理・運用する機関が取り上げた場合のみ有効性を発揮するので、法を取り締まる機関が見逃せば罪に問われることはありません。
道徳の方が生活の全局面にその力を及ぼすので、法よりもずっと広い範囲をフォローします。しかしその分だけ、何が道徳的で何が道徳に悖るのか、その境界があいまいです。それは、法が行為だけを問題にするのに対して、道徳が意思や感情などの内面を問題にすることにも関係があります。
 また反対に、道徳上ほとんど問題がないと思われる場合でも、違法性が問われる場合もあります。過失にかかわる罪や、法に対する無知、また正しいと信じて行った行為が現行法では違法だという場合などがこれに当たるでしょう。
 しかし法と道徳とは、全く無縁というわけではなく、相互に影響を及ぼし合う関係にあります。なぜこの法があるのかという根拠は、他人を侵害すべからずという一般道徳観念に求められるでしょうし、一共同体のなかである道徳が慣習として維持されているその力は、法の順守や法による懲罰の不断の積み重ねの歴史によってこそ支えられるでしょう。

 自殺幇助は、思わずという場合もあるでしょうが、多くは、右に述べた「正しいと信じて行った行為」に相当します。
 つまり、それが許されるかどうかは、もともと法がフォローできる範囲を超えた道徳上の問題であると考えるべきです。なぜなら、幇助を正しいと信じられるかどうかは、ただまったく個別の状況次第だからです。
 ここに二つの極を考えることができます。
 一つは、縁のない人間が自殺サイトなどで自殺願望を持つ人を招き寄せて、ヘンな信念や猟奇趣味で「殺してあげる」ような場合(そんな事件がありましたね)。これは明らかな犯罪であり論外というべきでしょう。
 もう一方の極に、森鴎外の『高瀬舟』があります。
 京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に、弟を殺した喜助という男が乗せられていました。護送役の同心・羽田庄兵衛は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしているのを不審に思い、訳を尋ねます。
 親を失った兄弟は仲よく助け合って暮らしていました。弟が病で働けなくなり、兄の喜助のためを思って自害をはかりますが、死にきれずに苦しんでいます。喜助は医者を呼ぼうとしますが、弟が死なせてくれと頼むので、思わず刺さった刀を抜いてやると、そこに婆さんがあらわれて殺害現場として目撃されてしまいます。いわば冤罪で流刑に処せられるのですが、喜助は申し開きもせず、罪をそのまま引き受けたのです。
 この作品には、互いを心から思いやる兄弟愛が深く絡んでいます。喜助が晴れやかな顔をしているのは、弟が自分のことを思って自害をはかったことが明瞭だからです。その心意に対する謝恩の気持ちのようなものが彼の心を浄化して、素直に刑に従わせているのです。犠牲となった弟は、彼にとっていまは仏さまに似た位置にいます。
 この場合には、喜助のいる場所は一種の宗教的な境地であって、弟を救おうと思えば救えたはずだなどと言い立てることは、余計なお世話です。喜助は法のみならず、道徳をも超えた場所にいるのです。
 自殺幇助とひとくくりに言われる行為は、以上の両極の間に、無限のヴァリエーションをもって現れるに違いありません。そのヴァリエーションを規定する条件には、次のようなものが考えられます。

①当人と幇助者との関係の濃さ
②当人の年齢
③当人が自殺したいと思うに至った事情、心境
④その事情や心境を幇助者がどこまで理解し、同情し得ているか
⑤幇助者の生活についてのこれからの見通し
⑥自殺方法についての合意の有無

 このように考えてくると、自殺幇助が許されるか否かは一般的には決められず、人々がはまり込んだ個別の状況と、当人たちがそれをどう受け取るかにかかっていると言わざるを得ません。他人がそれを判断しなくてはならないときには、それぞれのケースの具体相をできるだけ細かく知る必要があります。


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