小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源56

2014年12月23日 18時02分54秒 | 映画
倫理の起源56




 もうひとつ例を挙げておこう。
 山田太一脚本、篠田正浩監督の『少年時代』という映画がある。
 時は大東亜戦争末期、メインテーマは東京からの疎開児童と田舎の少年との交友関係だが、その主題とは別に、ある少年の姉と青年との恋愛のエピソードが出てくる。
 男たちはみな戦争にとられてゆくが、その運命を自覚している二人はひそかに逢瀬を重ねている。そういうことはこの緊急時に許されないという空気が大人たちの間を支配している。やがて青年にも赤紙が来て、応召しなくてはならない。プラットホームで日の丸と軍歌で見送りする村人たち。汽車のデッキで、複雑な表情を浮かべて直立して敬礼する青年。そこに突然、「行っちゃいやだあ!」と叫びながら姉娘が飛び出して、青年に縋ろうとする。青年は困惑するが、周りの人たちは姉娘を青年から引き離す。ヒステリー状態に陥った姉娘は、戸板に載せられて家まで送り返される。父親が激しく彼女を叱責して押さえこむが、彼女のヒステリー状態は治まらない。
 姉娘の弟・ふとしはあまり頭はよくないが、父親がヒステリーを起こした姉娘を押さえこむ光景をじっと見ていて、そこに込められた、どうしようもなく引き裂かれた事態をよく理解している。
 ほどなくして終戦となり、姉娘が狂喜の声を上げながら弟に近寄り、「帰ってくるだよ、セイジさんが帰ってくるだよ!」と告げる。ふとし君は思わずにっこり笑って「姉ちゃん、よかったな!」と応ずる。その大写しされた笑顔がじつに可愛らしく美しい。
 この「よかったな!」という気持ちは、じつは父親にしても同じなのである。戦時下という状況の中で、以前から父親は、この娘の恋愛に対して家長として禁圧的な態度をとっている。しかし、この父親がただ一方的に共同体の要請を履行しているだけなのかと言えば、必ずしもそうではない。宣長の言うとおり、「父のさまは 誠に男らしくきつとして、さすがにとりみださぬところはいみじけれど、本情にはあらざる也」なのであって、父親には父親なりの葛藤があるのだと思う。戦争が終わったのちに、この姉娘と青年がめでたく結婚すれば、父親もまた心から祝福するに違いない。

 人々の実存に侵入し、そこに亀裂を入れる理不尽な物事に対して、私たちはとりあえずはそれを受け入れるほかない。たとえそれが死ぬ運命に確実に導かれるのだとしても。しかし、その事態を、ただ受容して美談や美学という精神衛生学に昇華してすましてはならない。なぜなら、小林秀雄が『歴史と文学』その他で力説しているように、哀しみはずっと私たちの中に処理不能な感情として残り続け、この哀しみこそが、国家や社会や歴史へのまなざしの在り方を不可避的に培っていくからである。それが生活者の抵抗のあり方なのである
 近年日本のいわゆる「保守派」の一部は、永らく左翼リベラル派のイデオロギー風潮の「圧政」下にあったために、ややもすれば、国家の要求が、場合によってはいかに人々の実存と生活を引き裂くことがあり得るかという困難な問題を忘れがちで、観念的に考えられた公共的な倫理をひたすら至上のものとみなすことが多い。
 しかし、これは左右イデオロギーのどちらが正しいかという水平的な思想選択の問題ではなく、もともと国家と実存、社会的共同性とエロス的共同性との根源的な矛盾の問題なのである。この矛盾は、単に特定の社会生活の現象面においてあらわれるのではなく、まともな理性と感情を具えたひとりの社会的人格のなかにすでに深く埋め込まれている。そうしてそれは多くの場合、男性的人倫精神と女性的人倫精神との葛藤として象徴的に顕現するのである。
「実存」とは、言い換えれば、身近な関係のみをよりどころとしつつ、普通に、平穏に暮らしている人々の生活実態のことである。では、そうした平穏さを引き裂き、戦争を引き起こす「国家」なるものこそ悪である、と左翼リベラリストのように言えばよいのか。残念ながら、ことはそう単純ではない。
 なぜなら、平穏な秩序の下で暮らしている私たちはふだんあまり意識していないが、そのような平穏さを保証してくれるものもまた、「国家」だからである。国家の存在イコール悪と考える思想は、私たちの日常生活を保証する秩序の維持が、国家という最高統治形態によってこそなされているのだという事実を忘れているのである。国家がまともに機能しなくなった時、私たちの生活がどれほど脅かされるか、それはそうなってみなくてはなかなか実感できないかもしれない。しかし実感はできなくても想像は出来る。たとえば、現在の中東の一部は、国家秩序が実質的に解体状態にあり、三つ巴、四つ巴の紛争が続いているが、この地域で暮らす人々の実態を考えてみればよいだろう。



 女性の生き方に「愛」のエゴイズムのみを見て、そこに人倫精神を認めようとしない男性には、想像力の欠落があると述べたが、この男性にありがちな欠点を克服し、身近な女子どもの生に命をかけて寄り添おうとした男を描いた作品ももちろんある。
 たとえば、橋本忍脚本・小林正樹監督・仲代達也主演の映画『切腹』がそれである。
 関ヶ原の合戦からほどなくして徳川家は口実を設けて外様大名のいくつかを取り潰す。「天下泰平」の世に武士は要らない。江戸には職を失って食い詰めた浪人たちがあふれ、なかには有力な家の門前や庭先を借りて切腹すると称して、仕官させてもらったり、金銭を当て込んだりする連中が頻出するようになる。
 主人公・津雲半四郎も取り潰しにあった大名家の家臣の一人だが、清廉な浪人暮らしをしている。彼は主君の後を追って自害した同僚から息子・求女(もとめ・石濱朗)の行く末を託されている。時が経って一人娘・美保と求女は祝言を挙げ、一粒種の金吾が生まれる。しかし幸せな日々は長く続かず、美保は過労のため労咳で倒れ、金吾は高熱を出して瀕死の状態に陥る。医者に診せる金もない求女はついに思い余って井伊家上屋敷に切腹を申し出る。
 かねて浪人のたかりを苦々しく思っていた家老・斎藤勘解由(かげゆ・三国連太郎))は剣豪の家臣の進言を入れて、申し出どおり切腹の場をしつらえる。思惑が外れた求女は、一両日待ってくれれば逃げも隠れもせず必ず戻ってくると切に訴えるが、まったく聞き入れてもらえず、竹光で凄惨な最期を遂げる。
 金吾も美保も失った半四郎は、数カ月後井伊家を訪れ、自分も切腹を申し出て介添え人を指定し、それを待つ間に事の仔細を静かに語りだす。その目的は、武士の体裁のみを重んじて民の生活の苦しさなど一顧だにしない武家社会の理不尽を暴くことにあった。
 この映画は、決闘シーンと殺陣シーンとが見事ではあるが、それ以上に、半四郎と勘解由との丁々発止の議論対決が見どころであり、思想的にも重要な意味を持っている。
 勘解由は武家の秩序を守る重職という立場上、浪人のたかりをみだりに許すわけにはいかない。求女に申し出どおり切腹をさせたのにはそれなりに筋が通っている。自ら申し出たのではないかというのが、彼の最後の言い分だが、公義に照らす限り、彼のとった処置とその言い分は正しいのである。そこでは公共性の人倫は貫かれている。半四郎の言葉による鋭い攻撃に対する勘解由の迎撃を、単に弱者に対する権力者の弾圧と考えてはならない。最後に近い場面、半四郎と家臣たちとの殺陣が行なわれている最中に、その激しさとは対照的にひとり部屋にこもって黙然と悩み内省し続ける場面も描かれている。
 これに対して半四郎は、あくまで生活者の人倫性、もっと言えばエロス関係の人倫性に固執する。求女が一両日待ってほしいと必死で訴えた時に、なぜせめてその理由を聞いてやろうとしなかったのかというのが、彼の最後の言い分である。権力の理不尽に対する彼の怒りは極限まで凝縮して、面子を優先させる武家社会の掟の全否定にまで達するが、彼はけっして武士道を捨てたわけではない。むしろ武士道の堕落を糾弾し、そうしてそのあるべき具体的な使い道を身をもって示すのである。その使い道とは、女子どもを命をかけて守るということである。いわゆる武士道が特攻隊的な散華の美学に酔いがちなのに対して、半四郎の武士道は、個別の男女や家族によって生み出される日常生活の幸せのためという人生肯定的で明確な理念に貫かれている。
 山本定朝の『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉はあまりにも有名だが、この言葉は多分に独り歩きしているきらいがある。定朝は一方で、日常生活における関係への配慮をこと細かく説いてもいるのだ。その配慮の積み重ねの果てに「死」がある。半四郎の武士道は、それにかなうものだと言えよう。
 こうして、ここにも公共性とエロス関係との、原理を異にする二つの人倫性のせめぎあいが描き出されているのである。


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