小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

ワールドカップやぶにらみ

2014年06月19日 20時51分11秒 | 社会評論
ワールドカップやぶにらみ




 ワールドカップたけなわです。日本は初戦敗北、第二戦引き分けと苦戦していますが、これ以降、悔いのない闘いをしてほしいと思います。
 ところで、今回のブラジル大会では、会期までに会場や選手村の準備が整わなかったとか、治安が不安定なので行かないほうがいいとか、反FIFAのデモが盛り上がって警察が鎮圧に躍起になっているとか、試合そのものの外側の事情がしきりに問題にされていますね。各国の選手団もこういう事情を知らないはずはなく、表には出さないものの、見えないストレスを相当ためこんでいると推測されます。また開催に反対するデモ参加者たちは、社会的インフラや医療や教育を充実させることを優先させるべきなのに、国が大量の税金を大会のためにつぎ込んでいることに対して、一様に不満を訴えています。
 試合の中身も気がかりですが、それとは別に、これはいったい何を意味しているのかということをきちんと考えておく必要があるでしょう。大会の見かけの華やかさに幻惑されてその問題が不問に付されるようなことがあってはなりません。
 ざっくり言ってこの事情は、スポーツの世界大会を開催するほどの余裕と実力のない国が、一種の「見え」を張って巨費を投じているところから起きてきたものとみなして間違いではないでしょう。
 じつはこのことは、四年前の南アフリカ大会でも当てはまることでした。次の新聞記事(一部)をお読みください。この記事は、産経新聞の「環球異見」という欄に掲載されたものです。この欄は、時の話題に応じて世界各国の有力紙の社説を要約して報告する欄で、偏りのないきわめて公平な姿勢を貫いています。ふだんは、ニューヨークタイムズやワシントンポスト、フィナンシャルタイムズや人民日報などが多いのですが、今回はワールドカップにちなんで、「プレトリア・ニュース」という南アフリカの新聞記事が採りあげられています。文中、「主張」とあるのは、プレトリア・ニュース社の主張という意味です。

 主張では、南アでのW杯開催が国民の福祉改善に役立っていない実態を指摘し、「社会的な改革が必要で、かつ、予算も限られた国家は、見えのためにW杯や五輪などの大プロジェクトに巨費を投じるべきではない」と訴えた。
 世界の注目を浴びた前回大会では、W杯開催が経済を底上げし、南アの将来にプラスの影響をもたらすとの見方が大勢を占めていた。
 しかし、主張は「チケットの天文学的値段は、大多数の国民を競技場から排除した。国民の団結につながったのかは大いに疑問がある」と強調し、「受益者は建設会社とセメントメーカーなどの関連産業、そして清涼飲料とハンバーガー製造会社くらい。約束されていた外国投資や雇用の増大にはつながらなかった。代わりに、物価だけが上昇した」と切り捨て、大会開催は失敗だったと結論づけた
。(6月11日付)

 このプレトリア・ニュースの指摘が事実とすれば、南アの実態をごまかさずに直視した、国内におけるなかなか辛辣な批評だと言えるでしょう。各国のスポーツジャーナリズムがサッカーの世界大会で浮き立っているまさにこの時期に、あえて冷水を浴びせるようなこういう主張を堂々と載せるその論調に、ある種痛快なものを感じるのは私だけでしょうか。
 思えば南アのW杯だけではなく、2008年の北京五輪は環境や開会式口パクなどいろいろな問題が指摘されていたし、2012年のロンドン五輪も経済効果はなかったと言われています。また今年のソチ冬季五輪は、反政府勢力のテロや暴動に対する厳戒態勢のうちに行われて、かなりの無理を感じさせました。さらに2018年に開催予定の平昌(ピョンチャン)冬季五輪も、韓国経済の現状を考えると、本当にできるのかね、という危惧をぬぐえません。
 これらを考えると、昨今やたら頻繁に行われるようになった世界スポーツ大会というのは、「スポーツは国境を超える」の美名と派手な演出のもと、国内外の深刻な政治問題、経済問題を隠蔽する機能を果たしているだけではないかという意地悪な見方をせざるを得ません。
 さて、上に挙げた各国のうち、イギリスを除くすべての国が、いわゆる「新興国」に属するという事実を見逃すわけにはいきません。ブラジル、ロシア、中国の三つは、リーマンショックまではいずれもBRICs諸国などと呼ばれて大いにもてはやされたものです。最後のsの字を南ア(South Africa)とする見方もあります。
 なお中国はGDP世界第2位を誇っていますが、中国の統計がまったくあてにならないことは周知の事実ですし、不動産バブルもはじけて成長率は一気に鈍化しつつあります。また韓国は一応先進国ということになっていますが、深刻なアジア通貨危機に見舞われ、国内的な底力がないため、いまや経済的な主権を完全にグローバル資本に握られていますから、見かけだけの先進国と呼んでもいいでしょう。
 したがって、ここ近年、世界的なスポーツ大会の開催国は、ほとんどがその余裕と実力を持たないのに、国威発揚と自国宣伝のためにあせって名乗り出て、結果としてかなりの無理を強いられることになったと言っても過言ではありません。泣きを見るのは、当の開催国の国民です。

 ところで重要なのは、単にそうした現象を確認するだけに終わらせるのではなく、なぜ近年の大会開催国が、揃いも揃ってこういう危なっかしい国ばかりになってしまうのかという理由を考えることです。
 私はこの問題について、次の三つの点を重視します。

 ①アメリカの覇権後退によって国際政治の力学が多極化したこと
 ②国連の理念に象徴されるような空想的な平等主義がまかり通っていること
 ③資本の過度な流動性によってあたかもある国が富んでいるかのような幻想が生みだされること


 ①について。
 現在の国際情勢をざっと見渡すと、日々の報道が明らかにしている通り、北アフリカ諸国、シリア、ウクライナ、イラクなどは内戦状態が続いており、エジプトやトルコも紛争が収束される気配が見えません。しかもこれらに対してかつての覇権国家アメリカは、口先だけでいろいろ言うものの、やる気のなさ見え見えです。中国は内陸では新疆ウイグル自治区などへの圧迫を押し進め、外に向かっては露骨な侵略的行為を繰り返しており、この強引なやり方に対して関係諸国は一様に反感を募らせています。メキシコは慢性的な財政危機状態、アルゼンチンは再び財政破綻の危機を迎えています。
 いま世界は、国家間紛争だけではなく、国内的にも政治経済の矛盾がふき出して、統一がままならないところだらけと言えますね。オバマ大統領は、「アメリカは世界の警察官ではない」と明言しましたし、お家の事情で手いっぱいです。モンロー主義に引きこもりつつあると言えるでしょう。だれも国際秩序の再確立に関して、アメリカに何かを期待することはできません。

 ②について。
 国際政治が、いまそういう「自然状態」に回帰しつつある状態であるにもかかわらず、この事実を隠蔽するかのように、また、安易に戦争や革命に訴えるわけにいかない日ごろのうっぷんのガス抜きの機能を果たすかのように、国際スポーツ大会の体裁は、参加国数が増え続け、そうして見かけの華やかさばかりが目立つようになりました。いわば「世界のカーニバル化」であり、リオ(ブラジル!)のカーニバルがそうであるように、「祭りのあと」のツケを支払わなければならないのは、普通の国民ということになるでしょう。ことにそのツケは見えっ張りの「新興国」の国民に一番多く回ってくることが予想されます。
 ここには、超大国から極小国まで、190以上を数える一国一国をまったく対等に遇するという国際連合(UNITED NATIONS)の理念が影響しています。もちろん国連には第二次大戦の戦勝国が意思決定の主力を握っているという組織構造がありますが、しかしその建前は、みんな平等に世界平和を実現する試みに参加しましょうということです。でも極小国や途上国には、はっきり言って、そんなこと考えてる余裕なんてないはずです。自国をどう防衛し維持発展させていくかだけが目下の関心ですから。
 オリンピックの開会式では、選手団の数こそ異なれ、各国の国旗がへんぽんと翻りますね。私はへそ曲がりですから、あれを見ていると、いつも欺瞞的だなあと感じてしまいます。日ごろの利害関係、政治的文化的摩擦、宗教紛争、大国の少数民族への圧迫などをしばらくは忘れ、地球市民が一堂に会して世界平和の夢に酔おうよということなのでしょうが、忘れろったって忘れるわけにいかないですね。今日もウクライナやイラクでは、死闘が繰り広げられているし、タイは深刻な対立を抱えているし、中国はヴェトナムやフィリピンや我が国に対して侵犯を繰り返しているのですから。
 超大国と極小国とを同じ一国とみなそうという「平等主義」は、一種の言葉のマジックですね。言語記号の上で同資格の「くに」として扱われていれば、なんだかすべての国が同一の実力や権能を持っているかのような幻想に誘われます。このマジックによって、紛争当事国の現実が隠蔽されるだけではなく、新興国、途上国、小国に、自分たちの一人前さを何が何でも世界に向かってプレゼンしなくてはならないという背伸びした強迫観念が植え付けられます。「身の程を知る、分をわきまえる、自分の足元を見る」という謙虚な精神が消滅するのです。みんなが夜郎自大ぶりを競うことになります。これを「見え張りナショナリズム」と呼びましょう。
 次はどの国に回そうかと考えるIOCやFIFAのような国際スポーツ機関もこの平等主義の制約から抜けられなくなっていますね。もちろん多方面にわたる審査はしていますが、ビジネス絡みの裏工作から無縁ではありませんし、人間のやることですから、順繰りのたらい回しという不文律から自由になることも難しいでしょう。想像するに、「アフリカで初めてやったから、今度はサッカーの本場ブラジルね、中小国でもバカにしないで大切にしましょうね。次は初めてだからロシア行きましょう」てな感じですね。

 最後に③について。
 そもそもBRICsという用語の由来は何でしょうか。次の解説をご覧ください。

 2003年秋にアメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社が、投資家向けリポートの中で用いて以来、マスコミなどで取り上げられるようになった。このリポートでは、今のまま経済が発展した場合、2039年にはBRICs4カ国のGDP(国内総生産)の合計が、米日独仏英伊6カ国のGDP合計を抜き、2050年にはGDPの国別順位が、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順になると予想している。 (ナビゲート ビジネス基本用語集 http://kotobank.jp/word/BRICsより)

 ずいぶんいい加減な予測を立てるもんですね。そんな先のことが分かるはずがない。でも「今のままで経済が発展した場合」という仮定がミソで、ちゃんと責任逃れの手は打ってある。
 ちなみに最新のデータ(2013年)では、BRICs4か国合計で15.4兆ドル(南アを含めると15.7兆ドル)、上記先進6か国合計で32.7兆ドルです。10年たった今でも、半分にも達していません。しかも中国の統計がまったくあてにならないことは先に述べました。付け加えれば、他の三国の統計もあまりあてにならないでしょう。
 しかしこの解説で、最も重要なポイントは、この用語と数字をアメリカの超大手証券会社が投資家向けリポートの中で用いたという点です。こういう予測を立てる目的は何か。慧眼(けいがん)な読者はお分かりですね。これは要するに、次の投資先(技術とか社会資本形成とか生産のための投資ではなく、もっぱら金融資本投資です)としてのねらい目はどこかという、投資家にとっての単なる金儲けのための予測です。白羽の矢を当てられた国々が実体経済を充実させて国富が豊かに蓄積され、国民の福祉に寄与するだろうという話とはまったく関係がないのです。
 ところが「権威筋」からこういう話が出ると、それが独り歩きして、何となくこれらの国々の経済が独自に発展するんだというイメージを持たされてしまうのですね。ある国の金回りがちょっとよさそうだと、その国が実力を蓄えてきたように輝いて見えます。でも事実は必ずしもそうではありません。一国を多くのお金が出たり入ったりする現象には、為替の動き、貿易や外交の関係、各国の経済政策、その時々の金融の動向、外資依存度など、さまざまな要因が絡んでいるので、一つの原因に帰することは極めて困難です。
 ゴールドマンサックスの予測が幻想であったことは、リーマンショック以降すでに明らかとなっていますが、それにしても、いったん植えつけられた幻想というのは、タイムラグがあって、なかなか人々の頭の中から抜けません。幻想が実態を覆い隠します。ブラジルの実態について言えば、先に述べたように、相変わらず生活水準が低く、インフラや医療や教育も整っていません。それがなんと2年後の夏季オリンピックもブラジルのリオで行われるのですね。今回のW杯で噴出した問題は、2年後にもそのまま受け継がれることはほぼ確実でしょう。
 現在グローバリズムが世界を駆け巡り、資本の移動の自由が極限まで進んでいます。その主役は言うまでもなく、一部の金融投資家たち(特にウォール街)です。この人(機関)たちはコンピュータに組み込まれた自動プログラムによって、瞬時に巨額の取引をしますから、何かの材料によって、ある国が「有望」と判断されれば、そこに一気に金が流れ込みますが、逆に「危ない」と判断されれば、潮が引くように一気に引き上げられてしまう可能性があります。
 いえ、ことはブラジルだけではありません。グローバル資本が幅を利かせている現在の国際社会では、国内産業が整っていない国はどこも危ないのです。逆に言えば、国政の関心を本気で国内産業の維持発展(内需の拡大、国内投資と雇用の促進)に向けるかどうかが国運を左右するということです。
 南米の熱き血よ。W杯や五輪に燃える気持ちはよくわかるけれど、見え張りナショナリズムは少し控えて、冷静に自分の足元を見つめることをお勧めします。失礼ながら6年後に五輪開催が決まっている私たちも他山の石とさせていただきます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿