5月17日(木)
拙著『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(PHP新書)
が発売になります。
日本の独立のために何をなすべきか。攘夷思想とも欧米崇拝とも一線を画した福沢の「しなやかで強靭な日本精神」に肉迫する刮目の書。
定価864円+税
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また、拙著を詳しくお読みいただき、深く感謝いたします。
ご質問の件ですが、例の(不十分な)言葉をキーワードとして、いつごろから福沢が平等主義者であるという誤解が生じたのか、残念ながら私もつまびらかにいたしません。ただおっしゃるように、早い時期から「見出し」だけが独り歩きして自由民権運動に影響を与えた可能性は十分ありうると思います。ことに初期の民権運動は農民一揆と深く結びついていましたからね。
福沢の文章は、『瘦せ我慢の説』もそうですが、最初の一句にたいへんインパクトがあり、それだけに誤解の余地が生じることも多かったようです。
拙著にも書きましたが、『学問のすゝめ』の冒頭一句は、人間の「天賦の平等」を謳ったものではなく、後で種明かしがされているように、日本を西洋並みの文明国にするために、学問の必要を「方便」として説いたもので、その呼びかけは、これまでのしがらみを排して彼の言う「学問」を本当にする気のある自由な気概と志を持った者たちに対してなされたものであると考えられます。
いずれにしても、特に戦後の「悪平等主義」の風潮の中で、「平等主義者・福沢」のイメージがますます定着してしまったことは確かなところでしょう。困ったことですね。
また、宗教への対応の仕方と金への対応の仕方が似ているというご指摘は、その通りと思います。その類似点は、結局、彼の功利主義的な精神の徹底性に通ずるものですね。
これは『帝室論』にもうかがうことができます。福沢は、個人的に、帝室に対して心底から尊崇の念を抱いていたかは疑わしいと私は思っています。つまり彼は、後の美濃部達吉の「天皇機関説」とよく似ていて、帝室の価値を国論統一のために必要不可欠な「機能」と考えていたというのが私の理解です。
ご質問に明確なお答えを提出できず、申し訳ありません。
『福沢諭吉 しなやかな日本精神』拝読いたしました。本文22~23頁の『学問のすすめ』のほとんどの人が見逃しているため発生している誤解についてご教示ください。
この誤解は『学問のすすめ』発行当初からあるものなのでしょうか?それとも、近年生まれたものなのでしょうか?
中学生用歴史教科書『新編新しい社会 歴史』(平成29.2.10発行)
のP165では以下のようにあります。
「【[新しい思想】文明開化の中で、欧米の近代化の背景にある自由や平等などの思想も次々と紹介されました。人間の平等主義を分かりやすい表現で説いた福沢諭吉の「学問のすすめ」や、中江兆民が紹介したルソーの思想は、青年に大きな影響をあたえ、やがて自由民権運動へとつながっていきました。
P165コラム
7福沢諭吉(1834~1901)「学問のすすめ」の中の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉は、社会に強い影響をあたえました」
『学問のすすめ』冒頭の言葉の誤解が近年生まれたものであるなら、教科書の記述は誤りになりますが、発行当初から誤解されていたとしたら教科書記述は、誤解から当時の青年たちが発奮して自由民権運動へ…ということになります。
現代でも新聞の文章を最後まで読まずに見出しだけで判断して勘違いするような人はたくさんいます。『学問のすすめ』も当初から誤解されていたのでしょうか?あるいは、『学問のすすめ』が新聞広告等で宣伝される際に、本の冒頭部分だけクローズアップされ紹介されて…このような誤解が当初から生まれていたということなのでしょうか?
感想としては、P209の宗教とP279の金に対する福沢諭吉の受け止めかたは似ていると思いました。文明が輝いて見えた当時は、共に前時代的なものであるかのように見えたのかもしれませんが、文明による胃もたれが気になる現代では金属も宗教も古い新しいではなく人間の本質的な部分が求める、なんだかんだ言って捨て去ることのできないものなのではないか、と思いました。
ご質問にお答えします。
(1)これは、特にだれかれを想定しているということはありませんが、朝日新聞の「アエラ」などに、福沢は軍国主義者だったというような決めつけ記事を見かけたことがあります。また、進歩主義リベラルというのは、日本では戦後になってから生じた思想現象ですから、そのポジションから福沢を切り取ることは、後付けのバイアスがかかることをまぬかれないと思います。丸山にもややその傾向が見受けられます。ここの拙文はそうした後付け的な解釈からなるべく自由な立場で、時代のなかの福沢をもう一度きちんと見直そうとするための、一種のレトリックであるとご理解ください。
(2)福沢のなかには、長い間の封建制身分社会が、多くの日本人の中に卑屈な「感情」を植え付けたために、そこから脱却するのでなければ、欧米並みの文明社会は望めないという思いがありましたから、そういう背景を想定して、「いわれなき尊卑感情」と書きました。あれは「福翁自伝」でしたか、馬に乗ってきた百姓(?)が、武士である福沢に出会ったときに慌てて馬を降りて、へいこらした時に、そんなことをしないで堂々と馬に乗れと言ったという有名なエピソードがありますね。これが事実とすれば、福沢が「自主自立」の精神を一般庶民のなかにも育てたいと思っていたことは確実で、「学問のすゝめ」にもその思いが反映していると思います。福沢がここで意識しているのは「感情」であって、職業の貴賤という社会構造的な事実ではないと考えます。
(3)これは、主としてイギリスやアメリカをイメージしています。たしかに、必ずしも「伝統的な」と決めつけることはできないかもしれませんが、孤立に追い込まれた結果、大東亜戦争で大失敗を喫したこと、戦後アメリカに押しまくられたままになっていることなどに見られる外交下手を考えると、こうした近代日本政治史が、幕藩体制の中核が揺らいだ時に、藩どうしが結束できずに空気で動いてしまう欠点が露出したことと結びつくように思われます。ちなみに「……感じるのは、筆者だけでしょうか」という問いかけの形になっている文体の含みを読み取っていただければ幸いです。
(4)はい。その理解で結構です。松方財政政策の影響が深刻なデフレとして顕著になるのは明治18年くらいですが、その当時の福沢の「時事新報」における経済への言及については、めぼしいものとして「貧富論第一」がありますね。しかしこれはあまり論及に値するとは考えませんでした。そのためか、うっかり頭から飛んでしまったのだと思いますが、いずれにしても、「明治24年まで経済論らしきものは執筆していない」という言い方は不正確のそしりをまぬかれませんね。再版の機会でもあれば、訂正しましょう。ちなみに「貧富論第二」は明治24年です。
なお、藤原昭夫氏の著作については、不勉強にて、今回念頭にありませんでした。今後の参考とさせていただきます。
ただ、一般的には福沢の経済論が、その名声に比してさほど話題になっていないことはたしかに思われます。
(5)お挙げになっている儒者や国学者のなかでは、荻生徂徠と石田梅岩(彼はやっぱり儒者に入るでしょう)についてはきちんと読んでおりますし、彼らを取り上げて論じたこともあります(『表現者』73,74号)。徂徠はたしかに「単なる節倹奨励主義」ではありませんね。彼の現実主義的な幕政改革論は、いま読んでもとても参考になります。梅岩は、商人思想家として、手堅い商売と商人倫理の確立のために、かなり節倹を奨励していると私は理解しております。放埓を戒めたり、ある人物(あれはかなりの堅物ですね)の生き方を設定して、学ぶべきモデルとして提出している点などから見て。
なお、ここで私が「儒教道徳に裏付けられた『節倹奨励主義』」としてイメージしているのは、これら独特の思想的な境地を切り開いた人々よりも、むしろ福沢の同時代に支配的だったと思われる「儒教道徳」という一般的なエートスについてです。まだ資本主義の原理が明らかでない時期ですから、こうした道徳(一種の精神論)が力を持っていたのは、ある意味で当然のことと思われます。また、江戸時代の三大改革は、みな倹約を奨励していますが、その面ではことごとく失敗しています。にもかかわらず、幕末においては、まだそういうことを反省するような気風の転換に至っていなかったというのが、実情ではないでしょうか。これもまた当然のことと思います。
(6)残念ながら、藤原氏の指摘に対していまここで議論する資格がありませんが、福沢が「行盃人」のたとえを持ちだしていることは確かですね。このたとえの適不適についても議論の余地がありそうですが、それはともかく、拙著の引用箇所では、福沢ははっきりと貨幣を「預かり手形」と規定し、それが譲渡性を持つことによって通貨となると説いています。「預かり手形」とは、三橋氏などの説く「借用証書」という規定と変わりないのではありませんか。支払者が小切手を振り出すのと同じとも言えます。もちろんこれが国民の信用によって一国の通貨となった時(つまり日銀が支払者として「小切手」を市中銀行に対して発行するようになったとき)、流通手段としての機能を持つことは当然ですが、私はそれはあくまで貨幣の機能であって、本質ではないと考えます。現にいまのデフレ期のように、いくら日銀当座預金が膨れ上がっても、市中に流れなければ、流通手段としての機能はおぼつかなくなりますが、しかし、日銀が銀行に対して振り出した「約束手形=借用証書」としての本質は維持されています。
以上、お答えになりましたでしょうか。
まだこれ以外にも疑問点、批判点など多々あるやもしれませんが、申し訳ありません。現在、他の仕事にかまけていて、これ以上、お答えするだけの心の余裕がありません。なにとぞご容赦ください。
(1)21頁
《福沢諭吉を西欧型のリベラルな進歩主義の代表と見なすとらえ方も、国粋主義的な保守思想の代表と見なすとらえ方も、いずれも自分の都合のよいところだけを切り取った我田引水に他ならないのです。》
これらのとらえ方って、それぞれどなたのことなのでしょうか? 丸山真男氏と西部邁氏のことかなと、私の頭には浮かびましたが…。
また、私の意見ですが、福沢諭吉をリベラルな進歩主義の代表と見なすことも、(「国粋主義的な」という言葉を抜かせば)保守思想の代表と見なすことも可能だと思われます。なぜ、そのような見方が我田引水なのか、具体的に教えていただけないでしょうか?
(2)23頁
《さて、その数行後に、「されども今、広くこの人間世界を見渡すに」とあって、いかに現実の世が貧富、賢愚、身分、権力においてはなはだしい格差に満ち満ちているかというくだりがあります。『学問のすゝめ』はここを出発点として、この格差にまつわるいわれなき尊卑感情を少しでもなくし、多くの人が自主独立の気概をもって人生を歩めるようにするには、「学問」がどうしても必要だ、というように展開されていくのです。》
「…と云えり」とあるのを見逃しがちだというのはその通りだと思いますが、《いわれなき尊卑感情を少しでもなくし》という見解は、どこの記述を基にしているのか分かりませんでした。
『学問のすゝめ』には、《そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という》とか、《医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし》といった見解があります。また、《ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり》とか、《士農工商おのおのその分を尽くし》とか、《学問をするには分限を知ること肝要なり》といった言葉があります。
ですから、《いわれなき尊卑感情を少しでもなくし》ということではなく、「職業に尊卑はあり、そこでは学問が重要」ということを主張しているのだと思うのですが、いかがでしょうか?
(3)90頁
《しかし公武合体派の背後には、十分に開明的で優秀な家臣や思想家が存在していたのですから、弱体化しつつある幕府に代わって主導権を握ることも不可能ではなかったはずです。しょせんは、派として結束できるだけの意思統一が育っていなかったのでしょう。こういうところにも、常に周りをうかがいながら空気に迎合してしまう日本人の、主体性のなさと伝統的な政治下手が表れていると感じるのは、筆者だけでしょうか。》
ここの《常に周りをうかがいながら空気に迎合してしまう日本人の、主体性のなさと伝統的な政治下手》ということの意味が分かりませんでした。当時の日本人への評価のようですので、相対的にマシな国民が例えばどこで、そこのどういった国民性と比較して劣っていたと見なしているのでしょうか?
明治維新の評価については、トルコのケマル・パシャなどとの対比がけっこう重要だと個人的に思っていたりしますが…。
(4)248~249頁
《福沢が、明治十七年までに経済について論じたものには、『民間経済録』(明治十年)、『通貨論[第一]』(明治十一年)、『民間経済録二編』(明治十三年)、『通貨論[第二]』(明治十五年)、『貧富論[第一]』(明治十七年)などがあります。これ以降、明治二十四年に至るまで、特に経済論らしきものを執筆していません。》
本書では、松方デフレ期における福沢諭吉の経済思想には、考慮が払われていないという理解でよろしいでしょうか? 具体的に言うと、『時事新報』に連載した社説(の中の経済思想)は考慮されていないのでしょうか?
また、282頁では《これまで福沢については、政治論、学問論が中心で、経済論はあまり注目されてきませんでした》とありますが、参考文献に藤原昭夫氏の『福沢諭吉の日本経済論』(日本経済評論社)が挙げられていないのは何か理由があるのでしょうか? この著作は、福沢諭吉の経済思想を考える上で必須の文献だと私には思えるので…。
(5)249頁
《総じて福沢の経済思想は、旧社会の儒教道徳に裏付けられた「節倹奨励主義」を打ち破って、「金は天下の回り物」という原則を貫いた斬新なものです。》
失礼ながら、これは単に江戸期儒者の経済思想をきちんと読んでいないだけだと思われます。具体的には、熊沢蕃山『集義和書』、荻生徂徠『政談』、山田方谷『理財論』など。また、儒者ではないですが、石田梅岩『都鄙問答』、佐藤信淵『経済要略』、本居宣長『秘本玉くしげ』なども、単なる「節倹奨励主義」ではないという観点から重要だと思われます。
(6)269頁
《福沢はまず、通貨の本質について、それは単なる品物の「預り手形」(約束の証書)と同じであると言い切ります。これは最近、経済思想家の三橋貴明氏が強調している、「貨幣は借用証書あるいは債務と債権の記録」という本質規定とまったく同じです。また、その「預り手形」として金銀を用いようが、紙を用いようが、その機能において何ら変わるところがないとも言い切ります。こちらも、最近、同じく経済思想家の中野剛志氏が、貴金属に価値の本源があると錯覚してきた長きにわたる慣習(金属主義)が無意味であって、貨幣はただ価値を明示する印にすぎない(表券主義)と指摘した、その議論とぴったり一致しています。》
福沢の『通貨論』の記述から判断するなら、金属主義を否定し、表券主義を指摘したと見ることは可能だと思います。しかし、《三橋貴明氏が強調している、「貨幣は借用証書あるいは債務と債権の記録」という本質規定》に福沢が達していたという見解は、かなり微妙なところだと思われます。
三橋貴明氏の元ネタは、フェリックス・マーティン氏の『21世紀の貨幣論』でしょう。この著作のポイントは、マネーの本質を《交換の手段》ではなく、《通貨の根底にある信用と清算のメカニズム》としてとらえたことです。
藤原昭夫氏が指摘しているように、《『通貨論』において、福沢は貨幣の本質を、もっぱら「行盃人」のごとく商品交換を媒介して歩く流通手段たる点に求めた》ように思えます。そのため、《債権と債務の記録》というレベルに達しているとは見なせないと思われますが、いかがでしょうか?