天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

 思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)その6 その①

2016-11-17 16:32:02 | 日記



このたび、友人のご厚意で、小学校の卒業アルバムを見る機会をいただきました(自分のものは亡失)。
これを機会に、当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。

私たちは、昭和42年度のY県K市立H小学校という田舎の小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月にH小学校を去ったこととなります。
まず、当時の時代状況を考える必要があるかもしれません。こどもが感じる程度でしたから、その認識など大したことはないかもしれません。しかし、昭和37年(1962年)皆が入学したころは、まだまだ多くの家庭は貧しかったと思います。まだ、テレビの普及もままならず、自家用車もっている人は少なかったはずです。しかし、決して裕福でもなかった我が家にも、小学校高学年までにはカラーテレビが入り、自家用車も入り、クーラーは入らなかったにせよ、実感としての貧しさはだんだんに薄れていき、右肩上がりの時代に入って行ったのでしょう。
中井久夫という臨床精神科医の本(「「思春期について考える」ことについて」(ちくま学術文庫))を読んでいると、「学童期のこどもは徹底的にリアリストである、大人が顔を赤らめるほど、世俗的な利害や価値を信奉し(ということであれば自己利害のみと、冷徹な計算で行動し、場合によっては権謀術数も辞さない)」、と触れられていましたが、良く納得できました。表向きは小心、純情で温和そうに思えるかもしれないが、こどもながらそれだけじゃやっていけない(学校で生きのびていけない)から、嘘もつくし、卑怯な真似もする、まだ十分に人格も形成されない時期はそのようなものでしょう。その後、中学校時代とは、心身共に表現の乏しい時期(灰色のような、凡庸で、沈滞した、周囲との折り合いも悪い状況)が続く、とも言っています。自分のことながら、確かに、灰色の時代ではあったと今は思えます。しかし、世相を考えれば、同世代と話すと、いかに万国博覧会(1970年、大阪吹田市千里丘陵において開催)の印象が大きいかが実感を持ちます。私たちより少し上の世代である山下達郎が歌う「アトムの子」ではないですが、科学技術の恩恵で、2000年はじめくらいは普通の庶民が宇宙旅行をできるかもしれないくらいは信頼できる、などと漠然と考えていました。社会的な階層を超え、平等をもたすものは、科学技術の進展の恩恵くらいのもの、と当時皮肉に考えていたわけではありませんが。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、職員室に呼ばれたこと、その時の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。かの棟の二階には、当時は学校として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。後年、中学校でその図書室の貧しさに失望しましたが、図書室が開いていないときは、やむを得ず、廊下側のガラス戸を無理やり開いて、高い書架を乗り越え、忍び込み、自由気ままに利用させていただきました。当時を思い出せば、ゴンチチの「放課後の教室」のメロディがいつも流れてくるような気がします。窓を開けるわけにもいかず、閉めきった部屋で、黄色く変色した偕成社などの黒表紙の本の紙のにおいや、書架から剥離した乾いたニスの独特なにおいが今も立ち込めているように思われます。当時、莫大な数の物語を読んだと思いますが、今、少しも覚えていません。おお、前思春期よ、わが図書室よ、わがアジール(避難場所)よ、その校舎の写真の右上には、気取った(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス90人くらいであり、単純に考えて全校550名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢ですね。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりします。人数配分を見ると当時もまた、激務だったのですね。
私事を申し上げれば、当時は、先生の人事異動による入れ替わりも少なく、品さがれることながら、「覚えていろよ、くそばばあ」という先生も写っていますが、それはもう、鬼籍に入られた方(あるいはお浄土へ旅立たれたかもしれず)であり、個々の皆様においても、恩讐の彼方ということになりましょう。私以外の生徒には別の感想があるかもしれません。しかし、あの方には小学校の教師は向いていませんでした。
当時、ほぼ2年間単位の持ち上がり(教師・生徒とも同じ単位で学年が上がっていくこと)であり、生徒としても合わない先生になれば地獄の苦しみであったかもしれないが、それよりも厳しい状況は、当時、生徒たちの個々の家庭の中でも不断にあったかもしれないことであり、こどもにも悩みの種はいくらもあるのです。
私たちのクラスは、学年2組であり、男性のT田先生と、女性で学年主任のT村先生と二人でしたが、ひいき目で言いますが、お二人とも、毅然と、りりしく立たれています。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生も多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時はそういっていた。)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、年齢がかい離すると、おー、偉い、偉いと、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
余計なことですが、早熟な子の内にはそのうちそのまま目立たぬままになってしまう子もいるし、思春期のくすみを経て生まれ変わるような子もあれば、その後も見た目では目立たぬ中に埋没していくようなこどもたちもいるのですね。天の配剤というか、良し悪しも別にして、誰にとっても人性とはままならぬものです。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、やはりより懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。本音で遊び、戦い、嫉妬し、いじめ、いじめられたような記憶があります。その後の時間と自分自身による記憶の改ざんを経ても、明らかに、こいつにはいじめられたな、と思えるクラスメートもいます。今思えば、彼も、明らかにネグレクトの状態であり、どうも、同様な状況であった、私の存在が気に障ったのだと思われます。中学校に入ったころは、その対応が明らかに変わって友好的になりました。こどもの知恵ではあるでしょうが、こちらも、やむを得ず、それなりに応酬していましたので、それだけのことですが、今になって彼らのかかえた問題が視野に入るのはありがたいことです。当時の友人のうち、金持ちで家に新しい雑誌や、おもちゃがある家にはみんな参集し、場合によっては、それらを借りたままにしようということもやっています。あいつを仲間外しにしようとしたことも、その反対もあります、合従連衡というのですか、仲間内での駆け引きはいくらもあることです。当時皆貧しかったせいか、おごる、おごれよという仁義も、至極普通のことであり、それらを踏まえると、私自身、良い子の範ちゅうでは決してなかったことですね。中井久夫氏がいう、小学生は「徹底したリアリスト」というのがよくわかります。
私は、小学校低学年の時、注意力散漫ということで、皆の席の最前列の前に、さらに一人別に席を与えられて座っていました。今思えば、注意力散漫というか、「多動性の障害」ではなかったかと疑います。
それが長年の疑問であり、晩年の、それなりに老いた母のそばで、ボケ防止のためとも思い、何度となく昔語りをさせ残った記憶を総ざらいさせていましたが、さすがに私の「多動性の障害」については聞けませんでした。その後、母にとって家が落ち着いた際の、私に対する反動のような過干渉を思えば、それどころではなかったのであろうと思われます。ただ、幼児期に、育児怠業だったのか、かつて、亡父母がひそかにそのような話をしているときに立ち聞きしたことがあり、今も疑問が生じることではあります。
実際のところは、誰もが、そのような話はいくつもかかえているのはごく普通のことかもしれません。
しかしながら、私が、教室の後ろの席に座っていれば、何らかの意味で、学級運営の支障となったこと、あるいは個別の指導の必要なこどもは教師の監視が行き届くところに席を設けるでしょうから、その意味であったかも知れません。これも、先にお会いした当時の恩師(?) に聞きそびれました。もしその時、勇気を出して聞いてみても、答えてもらえなかったかも、あるいは忘れられていたかもしれないところですが。
今思えば、小学校の中学年(3年、4年)の頃は、私はほとんど宿題をやっていませんでした。担任の「くそばばあ」が、大嫌いだったこともありますが、公然とひいきをし、手間のかかる子を毛嫌いしていた教師に、よく教室退去を命じられ、外の砂場に座っていました。それに居直るほど確信犯ではないですが、前夜のうちにどうしても宿題をやる気になれなかったところです。耳をつかまれ無理やり教室を引っ張り出され、小心者で皆の前で恥をかくのはとても嫌だったのですが、結局毎晩家では何もせず済ませ、それがなぜだか、今もわからないのですね。

私が、今も忘れられない夢は、月曜日の朝一人で目覚め、寝過ごし、必死に学校まで走り続けましたが、学校では全校朝礼の真っ最中で、全学年が整列する中、さすがに入って行けず、校舎の隅に隠れてやり過ごした記憶で、その時図書室で借りた「シャーロットのおくりもの」(後年シャーロットというクモの物語であることを教えていただきました。)という本を握り締めていたことをよく覚えています。その後、この夢を何度もみて、こども心に悪夢とはこんなことを言うのかと思われました。
思えば、ろくな小学生時代を過ごしたわけではないのですが、卒業写真では、平然と、澄ました顔で写真に写っているのは奇妙なものですね。

いしいひさいち(「ののちゃん」の著者)に触発され、過去を振り返ること その1

2016-11-01 22:40:50 | 日記
「いしいひさいち」を最初に見たのは、ご同様にポスト団塊世代の私とすれば、「バイトくん」(1977年刊行)という4コマ漫画です。その漫画は、「日刊アルバイトニュース」に連載され、発行していたプレイガイドジャーナルという関西圏の出版社から刊行され、今も忘れないのですが、当時、単行本が関西圏でなくては買えず、すでに帰郷していた私は、新婚旅行の際に京都に立ち寄り、さっそく二冊買い求め、飛行機の中でも笑いっぱなしで、エコノミークラス座席でも、「なんじゃ、この男は」とひんしゅくを買ったであろうと思われます。それに関して、他人の目は気にしない妻には少しは感謝しなくてはなりません。実際のところ、当時の妻が、「海外旅行に行かないのなら結婚しない」、というので、やむを得ず、カナダに行くことにしたのですが、十数時間にわたる機中移動のうんざりする時間の中で、何度読んでも笑える「バイトくん」は大変救いになりました。面白く、またやがて悲しきという、貧乏な大学生たちのその日任せの日常生活ですが、「安下宿共斗会議」という政治党派も存在し、当時の、政治の時代の末期のどこか、暗い側面もやはり持っています(こんなものを雰囲気で語るべきものではないですが)。この漫画には、徒党性の快感というものは確かにありますが。
 バイトくんは、貧乏な文系学生で、「いしいひさいち」の分身としては多分関西大学の雑学部(社会学部)に在学しており、仲野荘という木造二階建ての老朽アパートに、同様に地方から就学した同様な境遇の学生たちと群居しています。トイレは共同、風呂なし、共同の流し(多分洗面台)はあるけど、皆、電熱器を使っているようだし、いわゆる「学生アパート」よりは、「間借り」に近いのでしょう。
 さて、実は、この「学生アパート」(当時)と、「下宿」の間には千里の径庭があり、私は京都に在住しておりましたが、「学生アパート」はおおむね学生のみが居住し、状態がいい物件であれば非木造で場合によっては管理人などもおり、トイレは各部屋個別附置で、恵まれていればユニットバスがついています。当時は、個々にガスなどの附置などはないにせよ、一応都市ガスなど、煮炊きする場所はあります。また、契約上、敷金、保証金、そして当時関西限定であった礼金が必ず付きます。
ところで、「下宿」の実態といえば、間借りなんですね。私は、川端今出川通上る京福電鉄、ターミナル出町柳駅(わがアイドルD大学英文科出身の「種ともこ」さんの「出町柳」という歌があります。)から電車で30分(ところどころ路面電車となりますが)ゆるゆる進む7駅か8駅先の左京区奥地の僻すう地に、京福電鉄(のちに事業売却)の八瀬遊園地そばの三宅八幡というところに住んでいました。八瀬というのは、あの「八瀬童子」の住居地であり、彼らには天皇の棺を担ぐ役割があり、まあ、この付近の人たちは、鄙(ひな)そのものであるような、京都の外周に住む人たちでした。
私たちは、家主が住む母屋の二階に住んでおり、そこは本間の四畳半が、四間ついております。一度だけ、母屋の一階に入れていただいたことがありましたが、土間も、叩きも広く、まだタイルで葺かれた大きなかまどもあり、また外部は、しっくい塗りで、とても立派な豪農というべき家で、黒光りする式台や、天井のはりも立派なものでした。根っからのお百姓さんが、空いた広い部屋を、遊ばすのもなんだし当面貸すという話だったんでしょうね。家主さんからは、よくある、京都人の「陰険さ」、とか「いけず」とか、あまり感じられたことはありません。文字通り、鄙びた(ひなびた)温和なところだったかもしれません。
私の階下に住む、長男の勤め人(30代始めだったと思う。)が、朝、顏が会うと、「Tさん、おはよーさん、学校もう慣れたか」とか、あいさつしていただきました。生粋の京都弁は微妙にイントネーションがあり、その口真似が、「男もすなる京都弁」として同郷の友人に大変受けましたが、その親切さは、当時の私たちにも十分に伝わるようでした。夜遅く、友人が来て、音楽をかけて、一度怒鳴られたこともありましたが、騒がしい学生たちですが、おおむね折り合い良くやっておりました。部屋は、本間の4畳半ですが、前述したように堅牢であり、京間とやらに比べると広めで、ガラス窓を開けると高野川(のちに出町柳で賀茂川と合流)のせせらぎの音が聞こえ、静かな良い部屋でした。また、三宅八幡という駅は、終点、八瀬遊園のすぐそばで、八瀬遊園から折り返し運転する電車の音がよくわかり、もう着くなと、乗車するのにとても便利でした。上りが発車して、10分程度すれば、乗るべき下りがやってくるわけですから、便利なものです。当時、京都の下宿事情はひっ迫しており、駅からまだまだ遠い下宿はいくらもありました。
しかし、洗濯機は、一槽のみの洗濯機で、すすぎ後、絞るのは、ハンドル式(若い奴にはわからないだろうな)であり、学生に解放された備え付けの物干しに干すわけです。また、私の入学年次(1974年)前に、第一次オイルショックが起き、原油が暴騰し、それまでの下宿人は、大家の外風呂(農家ですから、風呂も便所も別棟なんですね。)に入れてもらえたわけですが、私の入学前年から、それが困難となり、その費用の上昇より、むしろ家主さんが煩わしかったのでしょう、下宿生は電車で銭湯に通うこととなりました。当初契約の際、「重要事項」として説明を受けたわけでもなく、最初は特に気にはしてなかったのですが、後々で、ボディブローのように効いてくる問題でした。したがって、冬は週一回、夏はさすがに週二回くらいは、当該京福電鉄で、二駅先の「修学院」(あの離宮のある修学院です。)まで通いました。駅から、5分は歩かないと銭湯にはたどりつきませんが、銭湯から帰る時間を間違えると、吹きさらしの修学院駅で、電車を待ちつつ(鞍馬線もあるので待つのは文字とおり一筋縄ではいかない。)冬の間は、比叡おろしで髪の毛が凍る体験もありました。当時、皆、学生は、髪を肩まで伸ばし(単に無精のため)、銭湯側もたまったものではなく、後に洗髪料金などの追加徴収などもあり、納得したところですが、なかなか他所ではできない体験でした。また、近所に大学の先輩の下宿があり、そこは駅から少し離れており、オイルショック後も、下宿人を風呂に入れてくれたとのことで、下宿の運営も、家主と下宿人の阿吽(あうん)の呼吸というものがあったのかもしれません。
わが下宿の極め付きは、いわゆる「ぼっとん式の」トイレでした。田舎育ちの私も、さすがにびっくりしました。下宿人用のトイレは、当然外便所で、簡易木造、小便槽と、一段上がった大便槽とに分かれ、20ワットくらいの暗い電燈に照らされています。小便槽は朝顔便器で受忍の範囲ですが、大便槽は、一枚板が長方形にくりぬかれ、前に隠し板が立ちあがっています。一枚板の下は奈落ですが、人によっては悪夢になるかもしれません。家主としての「お父さん」は、根っからのお百姓で、守衛業務の合間に、定期的にひしゃくとたごで、たぶん、有機肥料とするため肥えツボに運んでいました。その後、みなさんが愛好する京野菜になったと思います。私たちは基本的に自炊を禁じられていましたので、野菜をいただいたことはなかったけれども。
お父さんも時々、苦痛なのか、汲み取りを怠る時期があって、下宿人仲間でもう(尻に)つきそうですね、と立ち話をした覚えがあります。
色々、便利なこともあって、結局、4年間、居続けましたが、「バイトくん」に類比しても、少なくとも、「東淀川区下新庄」の方が、「文化的な」トイレであったと思われます。 
やっぱり、「学生アパート」(当時)と、「間借り」とはちょっと違うんですね。
間借りですから、家主も、下宿人も、やむを得ず、お互い、「思いやりと察し」の文化で振舞いますね。私の部屋は、ふすまながら、南京錠がかかりましたが、ちょっと離れたところにいた、先輩の下宿は、完全に、鍵のかからないガラスの引き戸だけでした。そこはもと、納戸というのが明らかで、広い窓から、西日が終日さすような三畳間です。埴谷雄高の屋根裏部屋ではありませんが、なかなか過酷な環境です。引きこもってしまえば、「観念こそが現実である」ような年代と思索には、むしろ良い環境かもしれませんが。
ここで、友人の昔語りを聞けば、「学生時代(大学時代)には、絶対戻りたくない」という、ことを強固に言い募る人がいますが、自分自身を振り返って、その気持ちがわからないではありません。若かったかもしれないが、貧困で、悩み多き時期に回帰するのは、はっきり言ってつらいところです。
仲野荘の彼らにも、まとめて訪れてくるような大学生活や、アルバイト生活、また政治の季節に関わる倦怠や、諦観、ゆるやかな絶望が確かにあります、確かに、それは「名もなく、貧しく、美しくない」私たちにとっては「現実」であったわけですが。

思い出すことなど(今回は自然愛好から農業に及ぶ考察) その5

2016-10-18 21:20:25 | 日記
私が地元山口県(以下「Y県」と称します。)が主催する稀少動物種保護員活動に応募・参加して、かれこれ5、6年が経過しました。
 応募した当時、子育ても一段落して、遊ぶ相手が、いや遊んでいただく相手がいなくなり、無聊(ぶりょう)をかこつ日常となり、将来の転進への布石(?) のため、当該活動に参加させてもらうことにした。本音でいえば、老いても衰えぬ外界への「好奇心」とでもいうべきものでありますが。
 現在まで、任意の機関であるこの稀少動物種保護員の研修・実習を通じ、Y県の自然、地勢や、歴史を含め、なかなか大変興味深く得難い経験をさせていただいたところです。
そして、気づかせてもらったのは、植物についても、動物についても数多く市井の研究者が存在し、それぞれに、その取り組みの切り口があり、私自身この年になっても知らないことはいくらもあったということです。

殊に岩国地区の研修でお知り合いとなった、動物に寄生する冬虫夏草(とうちゅうかそう・フユムシナツクサ:蛾などの仲間の幼虫に寄生するキノコの一種)の研究者の、数多いその標本を見せていただき、まるで子供時代に戻ったような驚きと喜びを味わったところである。目立たぬが、そこいらに結構頻繁に発生し、現在では、島根県で、蛾の幼生を使い養殖しているとのことです。良質なタンパク質ではあろうと思われるが、味や、どのような効能、薬効があるかは不明なところです。そのコレクションは、小動物、蜂やクモなど大きいものも小さいものもありますが、被寄生体の分に応じた大きさであり、彼らの文字通り身中での戦いを思いなかなか興味深いところです。話される方は、フツーの主婦らしい方でしたが、同時にかつては理科少女であったろう彼女の人性をも思いやるところです。
かつて愛読した忍者漫画「サスケ」(白土三平著)で、遭難し衰弱した天涯孤独のこども(少年忍者)が冬虫夏草の寄生菌糸により、最後は巨大な人間冬虫夏草に変身するという哀切な話があり、これも深読みすれば異種変貌譚いうか、過酷な生を生きる人間の不思議な変身願望に行きつくようにも思われるところです。
このたび、直接に、目で見る作為なき自然の凄みと不思議に思わず納得したことです。

 また、天然記念物オオサンンショウウオの保護団体との研修で、清流錦川水系宇佐川で、オオサンショウウオの泳ぐ姿を見ました。こわごわと、垂直降下で、砂防ダムの15mなんなんとするコンクリート壁を降り、地元の高校生ボランティアたちと一緒に、堰堤下の深みに生息するところを現認したところです。そのまさに魁偉な姿と、赤っぽい花崗岩の斑入り模様に同致したその気味悪い肌合いと、上半身がほぼ口といわれる、口から生まれたようなその姿に感服しました。彼らは、結構数多く生息しており、アユとか渓流魚を食む(文字通りひとのみです。)鋭い歯を持つとのことですが、あの、「忍者武芸帳」(白土三平著)に出てきた特異な体質の忍者ハンザキ(オオサンショウオの異名;体が半分に裂かれても再生するほど生命力が強い、ということで命名、基幹部分は別にして実際体組織は再生するそうです。)が登場し、彼は水中で長時間にわたり自在に活動するというのがありました。ただし、敵の、甲賀忍者の九の一(女忍者)の毒流しによって、ハンザキを含め特異で強力な影丸忍者群はあっけなく全滅してしまうわけです。
オオサンショウウオは食用になるのか、というやり取りで、上半身の口及び内臓は取り除き、下半身は美味であり、地元で食す人(天然記念物を食えばどんな罪状になるのかね。)もいるような話です。ただ、近年、生息数の割に餌(主にアユ等の生魚)が減りつつあるようで、きわめて鈍重そうでおとなしげに見える彼らも、縄張りをめぐっては激しく戦うとのことです。また、錦川流域は時期となれば、わずらわしいほどのアユ釣りの竿が林立します。その天然アユにも、全国的な規模で、その姿、形、味を審査するコンクールがあるらしく、宇佐川のアユはそのブナなどが繁茂する山深く、また、清く豊かな流れのせいなのか、常にトップであるそうです。
広い清流に存する天然の穴の中や岩棚にひそみ、餌を待ち、ひたすら待っている彼らの存在は私たちに自然の奥深さとなにがしかの畏怖を伝えてくれるところです。昼間は、広島県出身のあの文豪井伏鱒二の小説(「山椒魚」)にあるように、自分の棲み家の中で、じっとして、温和(?) に暮らしているようです。しかしながら、自分の縄張り内に他個体が侵入すると、身命を賭けた戦いとなるそうです。部分的に、身体の一部も再生するらしいし、ハンザキといかずとも、生命力の強い特異な動物となります。講師が、言っていましたが、その体から、当然ぬめぬめとしていますが、食肉動物(?) に忌避を与える科学物質をしみださせるらしく、当該オオサンショウウオをかかえたあと、車に一緒に同乗していた犬が突如嘔吐しだし、大変往生した、という話をしていました。

 他にも、Y県S市、中須北地区において、常時、水を張った休耕田で開催された、水辺の動物観察会に参加し、Y県のカエル博士たちや、昆虫・小動物大好き少年たちに出会い、Y県のカエル博士たちや、ツチガエル(俗称「いぼ蛙」、素手で触るのは私もさすがに嫌です。いぼができる、という少年期の申し送りがあります。)を平然と握る蛙好き少年たちと一緒に、ついには素足で、今となれば気味悪く独特に臭う枯れ芦や様々な植物の泥濘の中を、ずぶずぶと沈み込む泥田を足を取られつつも愉快に駆け巡りました。最初は長靴で入っていましたが、動きの不自由さに耐えきれず、彼らに習い、素足で入り込み、そうなればもう何の支障もなく、こどもたちに対しても、お前、俺の口調になってしまい(対人的な感覚に問題があるのだろうか)、時間が立つのを忘れるようです。女の子でも、平気で蛙を握りこむ子もおり、好きというのは理屈ではないのですね。
同時に中須北地区で、身近で楽しい自然を子供たちに伝えたいという地区の受け入れ団体の有志の方々の気持ちにも深く賛同しました。

 当該地区は、全国レベルで「美の里コンクール」で選ばれた地区ですが、農村育ちの私とすれば、田植え時期も、収穫前期も、あるいは収穫後も、手入れの行き届いた(マルクスのひそみに倣っていうならば、いわゆる人間化された自然としての)田畑の景色を見ることはとても幸せなことです。ああ、健全なナショナリズム(地域を媒介にした愛郷・愛国心)よ、と私は思います。そして、この営みがどれほど継続するのかは、またどれだけの国民がそれに対して安定した気持ちと共にあること、またその風景に慰藉を受け、継承することができるかどうかは、今も今後も大きな政治の課題であると思います。 老いたもの、弱いものが、周辺の辺鄙(へんぴ)で不便であるが、静かで穏やかに過ごせる場所に自立して住めること(国土が荒廃しないこと)は我が国にとって極めて重要だと思われるからです。間違っても、グローバリズムや、農業協同組合の解体、日本の農業の死滅あるいは、冷酷な多国の農業資本ビジネスに加担するべきでないのです。
 このような、人間との相互の関連の中で営まれる自然への働きかけとその結果を含め、山も海も高原もある、それぞれの変化にとんだY県の良さを改めて想います。

 閑話休題
 安倍首相、あなたの防衛政策は、日本国の大多数の国民について必要であると思われ、若き日にとうに転向し、どこかの新聞のようにバカ左翼でないので、私はきちんと評価します。
 しかし、党内圧力のせいか、党内事情のせいか、グローバリズムにおける米欧金融資本の苛烈な策動と国内の同調勢力のせいなのか、制定された農協改革法や、TPP条約に前向きであるあなたの、心のルーツは油谷(山口県長門市)地区の棚田であるというではありませんか、地区住民がキチンと手間と労を惜しまず手入れされた棚田は、海の照り返しもあり息をのむほどの美しさです。当該中須北地区の棚田も山里の自然を背景に四季折々誠に美しいものです。私の知る限り、あなたと私の故郷このY県には、それぞれに異なったまだまだ荒廃しない美しい棚田はまだ残っています。安倍首相、あなたが当初標榜した、「美しい国」他国とは違う「みずほの国の」資本主義は、どうなったのですかね。農協を解体し、農業者の自主努力を解体し、本来の立ち行くはずの農業を解体し、やはり国土の荒廃は、人心の荒廃と私には思えます。耕作放棄地の荒れようを嘆くと同時に、今後自国民の消費するコメを自国民がまかなえないような状況は、やっぱりきわめて政治的(政治で解決できる)な問題だと思えませんか。
 安心・安全で美味しいコメの生産に要する手間ひま(皆、高齢の農業者は耕作放棄は先祖に済まないと老骨に鞭打ち懸命に生産しているのです。低額の国民年金だけではだれも生きていけません。)を考えれば、ある程度の金額になるのは当然です。先に、一部中共(コミューン・チャイナ)の富裕者層は、日本米を買いあさったではないですか。

 事情により本格的に自炊を始めた私は、この夏、地区農協主催の野菜市で、花き類を含め、新鮮で、おいしくまた安価な野菜、果物類を購入することで多大な恩恵を受けました(農協出展手数料が17%で、組合員生産者にとってとても有利だそうです。協同組合だからできるんですね。)。
 今夏の異常気象の影響でマーケットの野菜は暴騰しましたが、余分な支出をしなくて済んだのも、これも近隣の組合員農業者大衆と、私が、準組合員になった農業協同組合のおかげです(もちろん一般市民も市場で買い物ができます。販売開始時間の繁忙はすさまじいものです。)。今後、TPP条約が発効すれば、こんなのどかな光景は夢のまた夢でしょう。米国寡占農業資本による、市場支配の将来を思えば、暗澹たる思いがします。
 改めて「打倒TPP、打倒新自由主義」、と宣言したい。


 再度、閑話休題
 それ以降も、様々な行事で、「好きなものは好き」と目を輝かす真摯な「理科少年」たちにもたびたび出会うところです。自分のことはともかくも、私も「科学に対し少年たちが興味をなくせば、日本国の将来はない」と思う一人です。そのために、今後、私のできうる努力を粛々と行う決意です。

 また、自分を振り返ってつくづく思いますが、「好奇心」というものは、そのうち納まるとかいうことはないものですね。「死にいたる病」というべきか、「あしたに道を聞けば、夕べに死すとも可なり」というべきなのか、当面、まだまだおさまりがつかないところですが、決して放棄はいたしません。

思い出すことなど(同窓会に出席しての所感、併せ「夕日を追いかけて」について) その4

2016-10-12 21:07:27 | 日記
 先の体育の日に、中学校卒業の同窓会がありました。
 多分、今回で参加が二回目であろうかと思いますが、世間一般の常識(でいいですが)から比べ、少ない(根拠はありませんが)ようにも思いますが、よくわかりません。
 当初、私は、就学のためY県を離れて時、「もう帰ってこない」と誓ったはずであり、その後、就職に失敗して帰郷して以来、できるだけ、地元の友人とは付き合わないようにしていました。このあたりの感覚は、財津和夫の、「夕日を追いかけて」の、一節であれば、「・・・切り捨てたはずの故郷だから・・・」という感覚に似ています。殊に高校時代は、若くして死んだやつもいるし、あまりいい思い出もないので(つい思い起こせば「赤面逆上狼狽」(せきめんぎゃくじょうろうばい)におちいってしまう。)、かつて高校の同窓会に出たこともないわけです。
 私の立場で言えば、「恥をさらして都落ち」ではないですが、卒業後、都会(京都)で就職できず、おめおめと、Y県に帰郷し、現在に至りますが、当時あたかも将来を見越したかのように、「自らをどのように(日常に)埋葬するか」(これで俺の人生は終わった。)などと青臭く考えていました。その後、数十年間の人性において、人並みに苦労はしたはずですが、振り返れば、当時から、とんでもない甘い男でした。一般的に、若者=馬鹿者、なんですね。
 ところで、私の出身中学校は、一クラス40人の7クラス、当時学年300人弱くらいの学校で、昭和45年卒業となります。今回は、学年合同で、女性が40人弱、男が50人弱の参加であり、その後の46年にわたる歳月を考えれば、むしろ多めの人数の出席であったのかもしれません。
 前回は20年前にクラス単位で実施されたと思いますが、このたび偏屈な私が出席したことでもあり、比較的参加者が多かったことにより、何故なのか考察してみました。①男どもは定年退職後初めての同窓会であったこと、②連休の中日であったこと、③女性たちにとっても大きな区切りであり、ただし、遠来の人たちはいなかったこと、などがあげられるところです。
 ①については、自分でとても思い当たるところがあり、20年前と比較していえば、誰が今何をしている、何の役職(社会的地位)についている、などというのは、多くの男にとって煩わしかったところでしょう、よっぽど仲の良かった友人同士は別にして、男は、個々に、押しなべてその限られた社会的関係の中で生きるのです。このたび、皆、一様に退職し、ひとまずニュートラルで対等の立場となったわけです。また、私は、多分今世でもうお会いすることはない、今生の別れとご厚誼にお礼を申し上げたい、と思っていました。あらかじめの自己葬儀へのあいさつです。実際のところ、遠くは関東圏からわざわざ来訪者があり、彼らは一泊するようです。代表者のあいさつの中で、明白ではありませんが、そのような意味の決意の表明が数多くありました。男どもは、一般的に、自分を含め、長年の労苦で、自己の人格を陶冶(とうや)し、思慮深く、思いやり深くなった筈ではありましょうが。時間の経過はありがたいところでもあります。女性たちは、多くが、その夫などがすでに定年を迎えていることであろうし、自己の現在と今後の生活も十分に再構築して、とても落ち着いているように見えました。もし批評を加えるとすれば、どこかの家庭のように、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に、夫を酷しているかどうかはあずかり知らぬところですが(失礼)。
 自己のキャリアについて、多く述べたのは女性でしたが、これも世の趨勢(すうせい)でありましょう。男は基本的に失言を避けます。また、クラスの女性でブログをやっている人もおり、話が盛り上がり、小幸福というべきものでした。

 ところで、このたび、同窓会に出たのは、同時に、わが生涯の「清算」の意味もあり、過去、大学時代、「思想的対立」(?)で、袂を分かった友人と再会を果たすためであり、その後の行方を知らぬ彼と再会を果たしたことです。彼は、浪人して名古屋のミッション系の学校に入りましたが、当時、ジョルジュ・バタイユを巡り大議論の末、決裂し、その後、なし崩し的に会わなくなった古い友人です。彼も、このたび参加しており、ほぼ40年後「恩讐の彼方」に、再会できたのは、うれしいところでした。今となれば、お互いに、ジョルジュ某などという人は、忘却の彼方でありますが・・・。

 再度認識しましたが、当時のマドンナ、あるいは学級委員は今もマドンナであるし、今も学級委員なんですね。
 どうも皆の頭の中に深く刻印されているようです。そのまま、過去に戻ったような感覚に陥ります。
 無謀な男たちが、出来上がってしまい当時のマドンナにカミングアウトし、自爆していました(男ってバカですね。)。彼女は、当時は、また今も実際いい子なんですが、「一年生の時、隣に座っていたよね」と、私も話しかけてみて、見事に忘れられていました(自爆参加)。

 私たちの世代は、広義にポスト団塊の世代で、その若き日といえば、まだ経済的にも右肩上がりの時代でした。先の財津和夫(1948年生まれ)の「夕日を追いかけて」(1978年発売)を聞いていると(私もちろん歌います。周囲はあまり喜びませんが)、彼の時代感覚がよくわかります。彼にとって小、中、高校時代を含めての故郷ですが、出身地、博多に対する愛憎の気持ちがよく伝わってきます。当時、「故郷を出て、世界に雄飛する」くらいの夢は、まだ、いなかの高校生は十分に信じていたんですね。

「夕日を追いかけて」(財津和夫作詞・作曲)

 しばらくぶりの故郷は 大きな街に 姿を変えていた
 からだをゆすって走ってた 路面電車はもういない
 
 悲しみこらえ佇んで 好きだった人 永く見送った
 後姿に似合ってた あの海辺の道 今は車の道

 でも海はまだ生きていた いつも勇気をくれた海だった
 空の星は今も昔のまま 指先に触れるほど近くに

 いつからだろう父は小言の たった一つもやめてしまったのは
 いつからだろう母が唇に さす紅をやめてしまったのは

 永生きしてねの一言さえも 照れくさくて言えず明日は出ていく日
 もどっちゃだめと自分に言った 切り捨てたはずの故郷だから
   ( 中  略 )
 いつだって真剣に 僕は生きてきた筈だけど
 でもいつもそこには 孤独だけが残されていた

 沈む夕日は止められないけど それでも僕は追いかけていく
 沈む夕日を追いかけて 死ぬまで僕は追いかけていく  *
   ( *のリフレインが続きます。 )

 とても良い歌ですが、「こんなのは時代遅れ」と言い切る勇気が私にはありません。
 幼年期以来自己の生活で経た自然と、生育した家族や地域などの社会的関係の総体が、私たちの「現在」を強く拘束することは今も変わってないと思われるからです。そして、故郷を離れ、見知らぬ土地を目指すことも、多かれ少なかれ男(女) どもにとって「自然」と思われるのです。
 1978年あたりは、チューリップの全盛期であろうかという時に、作られた歌ですが、自分たちの<表現>を、東京で追及するため、彼女と別れ、親を棄て、東京に移り住み、現実と渡り合い、残ったのは表現者としての<孤独>だけであった、という厳しい独白です。「沈む夕日」が何の暗喩(あんゆ)かは分かりにくいところですが、ひたすら、表現者は至上の価値に向けて歩まなくてはならないという運命というものなのかもしれません。

 比較すると、その後都会でしのいで生きていたのか、あるいは田舎で辛抱して生きてきたのか、まったく等価であると、私は今になれば言い切れますが、運否天賦(うんぷてんぷ)というか、人性は不公平で不平等であることも間違いないことですから、立場立場での、それぞれの苦闘を思いやるところです。

 この歌は、卒業時に、サークルの先輩に、カセットテープで編集した流行歌のBGMシリーズとして餞別のようにもらい、擦り切れるまで聴き込んだ曲だったのですが、どうしても曲名がわからず、ネットの普及で、歌詞を検索し、ようやくその題名を知りました。
 かの先輩の当時のご厚意をこのたび深く謝するところです。
 そしてこのたび、わが同窓たちにも、「君たちはよく戦った」、と祝辞と、謝辞(?) をささげたい思いです。

思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために) その3

2016-05-25 20:05:42 | 日記
引き続き、わが、父方の祖父母について申し述べたいと思います。
私の曽祖父は、行政単位が「村」という時代に、家のそばを流れる河から堰を設け取水し水車などを利用し、当時製麺業などの商売をやっており、当時は内福であったらしく、田舎のノーブレス・オブリージュではないですが、村の世話役をやっておりました。
以前に祖父の除籍を見たとき祖父の兄弟に早世した子が大変多く、当時の保健衛生を考えればさほど珍しいことではなかったかもしれませんが、そのせいかどうか、曽祖父は村営の尋常小学校の育成・運営に務め、学校林(学校の維持、運営経費をねん出するために、植林し、林業の利益を還元する資産、私の通った高校にもまだ、当時ありました。)の造営に力を注いでいたそうです。その過程で、地区民の共同での山仕事の中で、植林をするための山焼きで火を放った際に、不注意でふもと側から誤って放たれた火に巻き込まれ、曽祖父を含め3人くらい焼死したといいます。のちに、叔父の一人に聞いたところ、遺体に焼け残っていたのは金時計だけだった、との話でした。その後も聞き語りになりますが、その死にざまが極端だったせいか、曾祖母は、物心とも、檀家(今も変わっていませんが)信仰に入れ込んだそうです。私にもその気持ちが理解できないこともないのですが。
そのてん末を、祖父から直接聞いたことはないのですが、祖父が生業に教育職を選んだことになにがしかの影響があったのかも知れません。
前述したとおり、祖父の兄弟には夭折が多かったため、それが余計に村営の小学校の運営に対し曽祖父が入れ込んだ訳かもしれませんが、生後祖父はとても大事に育てられたようです。結局祖父には兄弟がおらず、そのかわりに、後日、自分のこどもが男5人、女2人の計7人の多人数の兄弟であったのはご同慶の至りです。
私の祖母も、当時の大家族から嫁入りしたようです。当時の祖父の所帯は小規模の自作農であったので、一応水稲栽培(稲作)、畑作はありましたが、薄給のもとで、大家族を抱え、やりくりは大変であったろうと思います。繁忙の祖父に替わって、牛を使って田んぼの代かき(しろかき:耕作泥土の掘り起し)までもしていたとも聞きました。男女の分業が明確だった当時では、叔父の話によればこれは快挙だったらしいところです。
当時の営農家は、頑迷で扱いにくい牛や馬を使役することができるかどうかが、大きなポイントだったんですね。また、祖母は祖母で、肝心な時に働かない祖父に不平がなかったわけではないのですが、明治生まれの妻であり、面と向かって、それは言えなかったのでしょう。
祖母は、立ち居振る舞いも優しく、性格的にも受け身でひたすら優しい人でしたが、私としては兄弟二人の末子としては最後の育児のように面倒をみてもらったような覚えがあります。母方の祖母は、理に勝った人でしたが、祖父同士と同様にまったく肌合いの違う人で、そののち、それぞれ娘たち(双方の叔母たち)にも同じような性格や雰囲気が伝わるのは興味深いものですね。やっぱり、奇妙なほどタイプが違います。祖母は、「青い、渋い、固い」タイプの、融通の利かない傾向の祖父に比べ、近所でも、人気者だったようですが、行き会う人に、また話の相手に、安心感を与える人でした。祖母に、私たちのこども(ひ孫)に会わすことができたのは幸せでしたが、祖父母とあまりに長い時間(通算して26年間くらい)一緒に暮らしていたので、「こ
うしてあげればよかった」とか、「もっと優しくしてあげればよかった」と、悔いを残すのも、いわゆる「世間」の家族と同様のことでしょう。
しかしながら、80歳代後半で祖母を先に亡くし、90歳代前半まで存命した祖父は、その後、大変落ち込んでしまい、「(みんな亡くなって)友達もいなくなった」と言いつつも、私に対してどこかで目にした自分の知らない新しい言葉の意味をたずねてみたりとか、ときどき生き死にがわからない囲碁を始めたりと(対局した私もくたびれました。)、新たな取り組みで、自分を鼓舞しよう、鼓舞しようとしているのが見えるにつけ、同じ男として、気の毒なところでした。「(祖母が死んで)さみしい」とは、私には、決して言いませんでしたが、人性とは辛いものですね。
叔父、叔母にとっても、殊に遠くで暮らす叔父たちにとっては、母親は別格だったらしく、急逝したため連絡が遅れ、祖母の死に目に会えなかったことをなじるような話もしており、男にとっては、厳父よりは、先に早世した優しかった母親がより大事であったと思われ、ました。仕方がないにせよ、これもさみしいものですね。
いずれにせよ、私にとって、祖父母の死というのは、在りし日を含め、私にとって大変鮮明に思い浮かびますが、まだ、父母については、まだそれだけ距離がおけないせいなのか、それだけくっきりした印象が浮かびません。
父は、祖父にいろいろな事情で頭が上がらなかったせいか、「曽祖父(父にとっては祖父)は本当に優しかった」としみじみと述懐したこともありましたが、それは、どちらかといえば祖父母に親近感が強い、私たち「夫婦」としては、人情の機微というか、感情の不可解さというか、説明に窮するところです。まあ、本当のところは、妻にはよくわからないでしょうが・・・。