このたび、友人のご厚意で、小学校の卒業アルバムを見る機会をいただきました(自分のものは亡失)。
これを機会に、当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。
私たちは、昭和42年度のY県K市立H小学校という田舎の小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月にH小学校を去ったこととなります。
まず、当時の時代状況を考える必要があるかもしれません。こどもが感じる程度でしたから、その認識など大したことはないかもしれません。しかし、昭和37年(1962年)皆が入学したころは、まだまだ多くの家庭は貧しかったと思います。まだ、テレビの普及もままならず、自家用車もっている人は少なかったはずです。しかし、決して裕福でもなかった我が家にも、小学校高学年までにはカラーテレビが入り、自家用車も入り、クーラーは入らなかったにせよ、実感としての貧しさはだんだんに薄れていき、右肩上がりの時代に入って行ったのでしょう。
中井久夫という臨床精神科医の本(「「思春期について考える」ことについて」(ちくま学術文庫))を読んでいると、「学童期のこどもは徹底的にリアリストである、大人が顔を赤らめるほど、世俗的な利害や価値を信奉し(ということであれば自己利害のみと、冷徹な計算で行動し、場合によっては権謀術数も辞さない)」、と触れられていましたが、良く納得できました。表向きは小心、純情で温和そうに思えるかもしれないが、こどもながらそれだけじゃやっていけない(学校で生きのびていけない)から、嘘もつくし、卑怯な真似もする、まだ十分に人格も形成されない時期はそのようなものでしょう。その後、中学校時代とは、心身共に表現の乏しい時期(灰色のような、凡庸で、沈滞した、周囲との折り合いも悪い状況)が続く、とも言っています。自分のことながら、確かに、灰色の時代ではあったと今は思えます。しかし、世相を考えれば、同世代と話すと、いかに万国博覧会(1970年、大阪吹田市千里丘陵において開催)の印象が大きいかが実感を持ちます。私たちより少し上の世代である山下達郎が歌う「アトムの子」ではないですが、科学技術の恩恵で、2000年はじめくらいは普通の庶民が宇宙旅行をできるかもしれないくらいは信頼できる、などと漠然と考えていました。社会的な階層を超え、平等をもたすものは、科学技術の進展の恩恵くらいのもの、と当時皮肉に考えていたわけではありませんが。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、職員室に呼ばれたこと、その時の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。かの棟の二階には、当時は学校として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。後年、中学校でその図書室の貧しさに失望しましたが、図書室が開いていないときは、やむを得ず、廊下側のガラス戸を無理やり開いて、高い書架を乗り越え、忍び込み、自由気ままに利用させていただきました。当時を思い出せば、ゴンチチの「放課後の教室」のメロディがいつも流れてくるような気がします。窓を開けるわけにもいかず、閉めきった部屋で、黄色く変色した偕成社などの黒表紙の本の紙のにおいや、書架から剥離した乾いたニスの独特なにおいが今も立ち込めているように思われます。当時、莫大な数の物語を読んだと思いますが、今、少しも覚えていません。おお、前思春期よ、わが図書室よ、わがアジール(避難場所)よ、その校舎の写真の右上には、気取った(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス90人くらいであり、単純に考えて全校550名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢ですね。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりします。人数配分を見ると当時もまた、激務だったのですね。
私事を申し上げれば、当時は、先生の人事異動による入れ替わりも少なく、品さがれることながら、「覚えていろよ、くそばばあ」という先生も写っていますが、それはもう、鬼籍に入られた方(あるいはお浄土へ旅立たれたかもしれず)であり、個々の皆様においても、恩讐の彼方ということになりましょう。私以外の生徒には別の感想があるかもしれません。しかし、あの方には小学校の教師は向いていませんでした。
当時、ほぼ2年間単位の持ち上がり(教師・生徒とも同じ単位で学年が上がっていくこと)であり、生徒としても合わない先生になれば地獄の苦しみであったかもしれないが、それよりも厳しい状況は、当時、生徒たちの個々の家庭の中でも不断にあったかもしれないことであり、こどもにも悩みの種はいくらもあるのです。
私たちのクラスは、学年2組であり、男性のT田先生と、女性で学年主任のT村先生と二人でしたが、ひいき目で言いますが、お二人とも、毅然と、りりしく立たれています。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生も多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時はそういっていた。)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、年齢がかい離すると、おー、偉い、偉いと、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
余計なことですが、早熟な子の内にはそのうちそのまま目立たぬままになってしまう子もいるし、思春期のくすみを経て生まれ変わるような子もあれば、その後も見た目では目立たぬ中に埋没していくようなこどもたちもいるのですね。天の配剤というか、良し悪しも別にして、誰にとっても人性とはままならぬものです。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、やはりより懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。本音で遊び、戦い、嫉妬し、いじめ、いじめられたような記憶があります。その後の時間と自分自身による記憶の改ざんを経ても、明らかに、こいつにはいじめられたな、と思えるクラスメートもいます。今思えば、彼も、明らかにネグレクトの状態であり、どうも、同様な状況であった、私の存在が気に障ったのだと思われます。中学校に入ったころは、その対応が明らかに変わって友好的になりました。こどもの知恵ではあるでしょうが、こちらも、やむを得ず、それなりに応酬していましたので、それだけのことですが、今になって彼らのかかえた問題が視野に入るのはありがたいことです。当時の友人のうち、金持ちで家に新しい雑誌や、おもちゃがある家にはみんな参集し、場合によっては、それらを借りたままにしようということもやっています。あいつを仲間外しにしようとしたことも、その反対もあります、合従連衡というのですか、仲間内での駆け引きはいくらもあることです。当時皆貧しかったせいか、おごる、おごれよという仁義も、至極普通のことであり、それらを踏まえると、私自身、良い子の範ちゅうでは決してなかったことですね。中井久夫氏がいう、小学生は「徹底したリアリスト」というのがよくわかります。
私は、小学校低学年の時、注意力散漫ということで、皆の席の最前列の前に、さらに一人別に席を与えられて座っていました。今思えば、注意力散漫というか、「多動性の障害」ではなかったかと疑います。
それが長年の疑問であり、晩年の、それなりに老いた母のそばで、ボケ防止のためとも思い、何度となく昔語りをさせ残った記憶を総ざらいさせていましたが、さすがに私の「多動性の障害」については聞けませんでした。その後、母にとって家が落ち着いた際の、私に対する反動のような過干渉を思えば、それどころではなかったのであろうと思われます。ただ、幼児期に、育児怠業だったのか、かつて、亡父母がひそかにそのような話をしているときに立ち聞きしたことがあり、今も疑問が生じることではあります。
実際のところは、誰もが、そのような話はいくつもかかえているのはごく普通のことかもしれません。
しかしながら、私が、教室の後ろの席に座っていれば、何らかの意味で、学級運営の支障となったこと、あるいは個別の指導の必要なこどもは教師の監視が行き届くところに席を設けるでしょうから、その意味であったかも知れません。これも、先にお会いした当時の恩師(?) に聞きそびれました。もしその時、勇気を出して聞いてみても、答えてもらえなかったかも、あるいは忘れられていたかもしれないところですが。
今思えば、小学校の中学年(3年、4年)の頃は、私はほとんど宿題をやっていませんでした。担任の「くそばばあ」が、大嫌いだったこともありますが、公然とひいきをし、手間のかかる子を毛嫌いしていた教師に、よく教室退去を命じられ、外の砂場に座っていました。それに居直るほど確信犯ではないですが、前夜のうちにどうしても宿題をやる気になれなかったところです。耳をつかまれ無理やり教室を引っ張り出され、小心者で皆の前で恥をかくのはとても嫌だったのですが、結局毎晩家では何もせず済ませ、それがなぜだか、今もわからないのですね。
私が、今も忘れられない夢は、月曜日の朝一人で目覚め、寝過ごし、必死に学校まで走り続けましたが、学校では全校朝礼の真っ最中で、全学年が整列する中、さすがに入って行けず、校舎の隅に隠れてやり過ごした記憶で、その時図書室で借りた「シャーロットのおくりもの」(後年シャーロットというクモの物語であることを教えていただきました。)という本を握り締めていたことをよく覚えています。その後、この夢を何度もみて、こども心に悪夢とはこんなことを言うのかと思われました。
思えば、ろくな小学生時代を過ごしたわけではないのですが、卒業写真では、平然と、澄ました顔で写真に写っているのは奇妙なものですね。