再度申し上げますが、わが祖父は、二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、それぞれ、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
父方の祖父母は、私が結婚して家を出ていくまで、20数年にわたり長らく同居していましたが、もともと父の兄弟は、指を折って数えなくてはなりませんが、男5人、女2人の7人兄弟であり、したがって、大家族でした。また曽祖父はある事情で壮絶な最期を遂げており、若くして家督を継いだ祖父は、退職するまで学校の教師を勤めました。
戦前(もちろん太平洋戦争のことですが)は、一般的に教師は清貧の代表者であったとも聞いており、長男から数え、二男、三男を養子に出し、退職後は、生業の農業に務め、戦後も貧しい生活を続けておりました。長男であったうちの父は腰が定まらず、祖父に選んでもらった職業を放擲し、あちこちを転々として働いており、私の幼児期にほとんど父の記憶がありません。その後、前非を悔いて(?)、地元の中小企業に就業しましたが、私の幼年期の記憶は、祖父母に負っているものがきわめて大きいところです。
また、後日、うちの母親が、父の晩年にきわめて冷淡であったように思えたことも、なんとなく、理解できるところです。ただし、私自身とすれば、成人に至るまで、父親をあまり好きでなかったのはよく覚えています。そのような内訌のもとが、我が家が破たんせずに済んだのは、当時の時代のせいなのか、祖父母の恩恵のせいであるのか、よくわからないところです。しかし、手前勝手ながら、私も、その後家庭を持ち、父親としてすべきはずのことができない(「責任が取れない、必要な時にいうべきことが言えない」)と妻になじられたとき、私の成育史(?) になにがしかの原因があるようにも思われるところです。
それはさておき、かつて祖父は、鉄拳制裁も辞さない父親であり、戦中の軍国教育にも積極的に加担していた、というのはのちに聞いた父親の述懐でした。
当時、私たち兄弟に対し、不在の父に代わり、からめ手から教育を行ったのが、祖父の役割だったでしょうが、成人に至るまでほぼ孫の私を全面受容してもらった優しい祖母に比べても、鉄拳制裁とは程遠く、ひたすら褒めて育てられたように思います。祖父は「青い山脈」という流行歌を好んでおり、戦中での自分の行為に伴う煩悶、後悔は言わないまでも、「日本は文化じゃけん」という「青い山脈」の校長先生の決め台詞に同感であったのかもしれません。ゆえに祖父から、戦争の話はほとんど聞いていません。これは祖父にとって多分に意識的なものであったと思えます。
話せば、たとえば吉田松陰、児玉源太郎とかの話とかしたのかもしれません。よく、覚えているのは、祖父が「人の世話をするよう、人の世話にならぬよう」という、後藤新平の言葉を引用していたことです。祖父が、「後藤新平じゃぞ」と、教えてくれたかは記憶にないので、後年調べました。
祖父にとって座右の銘かもしれませんが、実のところ、明治人かつ元教育者として、「人の世話をするよう」に、行動指針を直ちに実行する人でしたが、「人の世話」などと出歩くことも多く、嫁などからは、必ずしも歓迎されませんでした。
明治青年として身の処理の潔さ、それなりの開明性、間違ったことは正す勇気、この辺りは、まったく手前味噌ながら、まさしく祖父に教わったように思います。今でも、思い起こすたびに、懐かしい思いがします。
(続いて、以下は、「協同組合」について、所感を申し述べます。)
今回は、祖父たちが作った「協同組合」について、祖父の記憶とともに申し述べたいと思います。先に、わが「社研」では、三橋貴明氏の「亡国の農協改革」を皆で読みました。
その中で、若い参加者には、「協同組合」の実態(現実の姿)が理解しにくいらしいことがよくわかりました。おそらく、資本主義の歴史の中で、他国の例もあるにせよ、著者の描く、なぜ協同組合が必要となったのか、いかに資金力がなく社会的な権力に無縁な自営業を営む大衆にとって、当該組合が味方になれたのか、についての理解がなかなかできにくいのだと思われました。また、日本においても、著者が「(1948年)当時全国で1万6千弱もの農協の設立がされた」と指摘されたように、昭和20年、30年代において、いかに多くの組合が作られ、整理・統合・消滅して行ったのか、理解したいと思いました。
私より少し年長の元大農家の方が述懐しておりましたが、米・味噌・醤油などは自家製造できるけど、外から物を買う現金がなかった、との話であり、当時の農村の事情が推し量れるところです。
当時、農業者に資金を貸すような金融機関はあるはずはなく、私に記憶があるのは、頼母子講(無尽)(たのもしこう、 金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行したという制度だそうです。安全な庶民金融がない時代の産物なんですね。)(わが県にも「無尽」から創立されたという、第二地銀もあります。)というものなどはあるにせよ、新たな事業を興そうとする際に、まとまった資金を調達するすべもないまま、新進の気象に富む祖父は、当時、組合員の出資金に基づく、畜産協同組合を作ったようです。当時の地区農協の勧奨があったかどうかは、残念ながら祖父に聞いてはいません。
近所の農業者と語りあい、最初に固定経費のかかる乳牛の協同飼育の畜舎を作り、当該搾乳施設などを協
同管理として設置し、出荷や、飼料購入、肥育に至るまで、組合の施行でやろうとしました。
しかし、その後当該収益が思うように上がらず、母方の祖父と異なり、経済・実務的な能力に欠けていた祖父は、当該追加運営経費について自分の農業所得と恩給(年金)以外、資金の当てもなく、しばらくして立ちいかなくなったようです。結果として、規制のかからない田んぼを宅地として求めた母方の叔父に売り、帳尻を合わしたようです。それがまさに、嫁(母) の愚痴の対象になったわけですが。
しかしながら、富の蓄積がない当時の農村で、貧しいながら、個々が出資金を出し、組合員が経済的に利得を得、協働の結果、出資に応じ当該利益を受け取り、自己及び家族の生活の向上に資する、自主自立の制度というのは、今思っても、当時の農業者にとっては、夢のような話であったでしょう。また、これは、進駐軍の後押しによる戦後政府が画した自作農創設政策(農地解放)により、自営農民が創出されたことなどによる意識の発揚、戦後の混乱期に労働力はたくさんあったとしても、農村に賃労働などの仕事も少なかったなども前提の話ですが。
私は、現在、都銀とも、山口県を基盤とするY地銀ともお付き合いはありませんが、当時から銀行が限られたもの特権的なもののための存在であったことはよく理解できます。
現在でも、当地では、多くの住民が、自己の便益のためには多少遠くても農協や郵便局を利用します。
殊に高齢者など、感覚的(生活感性的)に、銀行を信用していないんですね。ご承知のとおり、銀行も、一部高額所得者を除き、高齢者とのお付き合いはしてくれませんが。
今後も、限界集落など、明らかに、高齢的、経済的弱者しかいない地区において、近傍の農協、郵便局に是非頑張ってもらいたいと思います。金融資本、特定産業の保護と効率追求のみ求め、国民のライフラインとしての日本農業の将来と、日本独自の誇るべき組織農協を、平然と無慈悲な外国資本に差し出し、自己利害のみ図り、弱者の存在を認めず、国民国家の国民の利害に配慮しない、わが日本政府の政策と、その推進者新自由主義者に、強く反対します。
ついでながら、私も、「亡国の農協改革」著者、三橋貴明氏の主張に与みして、安倍首相の出身地(長門市油谷町)の美しい棚田を当該著書の印税(プラス我々のカンパで)買占め、自然に悪影響を及ぼすかも知れない合理性のない太陽光発電のパネル設置をするなり、グロテスクな風力発電のプロペラ装置を設置(下関地区に洋上設置の反対運動があります。あの実態は、「無考え宮崎駿」氏のアニメのフォルムですね。)するなりして、当初日本独自の営農の素晴らしさ気質の良さを賛美していた、彼の政策の一貫性のなさを糾弾したいと思います。
今後も、私は、明治人わが祖父の遺訓に習い、どのようにして「人のお世話をするように」かにつき模索・熟慮しつつ、日本の多くの国民大衆の利害に寄与する、現存する農業協同組合の支援に努めてまいります(私、現在のところ営農は好みませんが、現在、今後も、日本国にとって必要であろうと思われる、農協の準組合員、共済会員、預金者を兼ねております。また、営業のお兄ちゃんに、発破をかけています。)。
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大変申し訳ありません。
笠智衆が、「日本は文化じゃけん」というのは、「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)の内容でした。
お詫びします。
祖父は、この歌を非常に好み、おかげで、学齢期の前に覚えてしまいました。
褒められるため、何度も歌った記憶がありますが、(当然、歌え、といわれば今でも歌いますが)、祖父母が惹かれた、明るさ、楽しさは、私にも共有されます。
父方の祖父母は、私が結婚して家を出ていくまで、20数年にわたり長らく同居していましたが、もともと父の兄弟は、指を折って数えなくてはなりませんが、男5人、女2人の7人兄弟であり、したがって、大家族でした。また曽祖父はある事情で壮絶な最期を遂げており、若くして家督を継いだ祖父は、退職するまで学校の教師を勤めました。
戦前(もちろん太平洋戦争のことですが)は、一般的に教師は清貧の代表者であったとも聞いており、長男から数え、二男、三男を養子に出し、退職後は、生業の農業に務め、戦後も貧しい生活を続けておりました。長男であったうちの父は腰が定まらず、祖父に選んでもらった職業を放擲し、あちこちを転々として働いており、私の幼児期にほとんど父の記憶がありません。その後、前非を悔いて(?)、地元の中小企業に就業しましたが、私の幼年期の記憶は、祖父母に負っているものがきわめて大きいところです。
また、後日、うちの母親が、父の晩年にきわめて冷淡であったように思えたことも、なんとなく、理解できるところです。ただし、私自身とすれば、成人に至るまで、父親をあまり好きでなかったのはよく覚えています。そのような内訌のもとが、我が家が破たんせずに済んだのは、当時の時代のせいなのか、祖父母の恩恵のせいであるのか、よくわからないところです。しかし、手前勝手ながら、私も、その後家庭を持ち、父親としてすべきはずのことができない(「責任が取れない、必要な時にいうべきことが言えない」)と妻になじられたとき、私の成育史(?) になにがしかの原因があるようにも思われるところです。
それはさておき、かつて祖父は、鉄拳制裁も辞さない父親であり、戦中の軍国教育にも積極的に加担していた、というのはのちに聞いた父親の述懐でした。
当時、私たち兄弟に対し、不在の父に代わり、からめ手から教育を行ったのが、祖父の役割だったでしょうが、成人に至るまでほぼ孫の私を全面受容してもらった優しい祖母に比べても、鉄拳制裁とは程遠く、ひたすら褒めて育てられたように思います。祖父は「青い山脈」という流行歌を好んでおり、戦中での自分の行為に伴う煩悶、後悔は言わないまでも、「日本は文化じゃけん」という「青い山脈」の校長先生の決め台詞に同感であったのかもしれません。ゆえに祖父から、戦争の話はほとんど聞いていません。これは祖父にとって多分に意識的なものであったと思えます。
話せば、たとえば吉田松陰、児玉源太郎とかの話とかしたのかもしれません。よく、覚えているのは、祖父が「人の世話をするよう、人の世話にならぬよう」という、後藤新平の言葉を引用していたことです。祖父が、「後藤新平じゃぞ」と、教えてくれたかは記憶にないので、後年調べました。
祖父にとって座右の銘かもしれませんが、実のところ、明治人かつ元教育者として、「人の世話をするよう」に、行動指針を直ちに実行する人でしたが、「人の世話」などと出歩くことも多く、嫁などからは、必ずしも歓迎されませんでした。
明治青年として身の処理の潔さ、それなりの開明性、間違ったことは正す勇気、この辺りは、まったく手前味噌ながら、まさしく祖父に教わったように思います。今でも、思い起こすたびに、懐かしい思いがします。
(続いて、以下は、「協同組合」について、所感を申し述べます。)
今回は、祖父たちが作った「協同組合」について、祖父の記憶とともに申し述べたいと思います。先に、わが「社研」では、三橋貴明氏の「亡国の農協改革」を皆で読みました。
その中で、若い参加者には、「協同組合」の実態(現実の姿)が理解しにくいらしいことがよくわかりました。おそらく、資本主義の歴史の中で、他国の例もあるにせよ、著者の描く、なぜ協同組合が必要となったのか、いかに資金力がなく社会的な権力に無縁な自営業を営む大衆にとって、当該組合が味方になれたのか、についての理解がなかなかできにくいのだと思われました。また、日本においても、著者が「(1948年)当時全国で1万6千弱もの農協の設立がされた」と指摘されたように、昭和20年、30年代において、いかに多くの組合が作られ、整理・統合・消滅して行ったのか、理解したいと思いました。
私より少し年長の元大農家の方が述懐しておりましたが、米・味噌・醤油などは自家製造できるけど、外から物を買う現金がなかった、との話であり、当時の農村の事情が推し量れるところです。
当時、農業者に資金を貸すような金融機関はあるはずはなく、私に記憶があるのは、頼母子講(無尽)(たのもしこう、 金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行したという制度だそうです。安全な庶民金融がない時代の産物なんですね。)(わが県にも「無尽」から創立されたという、第二地銀もあります。)というものなどはあるにせよ、新たな事業を興そうとする際に、まとまった資金を調達するすべもないまま、新進の気象に富む祖父は、当時、組合員の出資金に基づく、畜産協同組合を作ったようです。当時の地区農協の勧奨があったかどうかは、残念ながら祖父に聞いてはいません。
近所の農業者と語りあい、最初に固定経費のかかる乳牛の協同飼育の畜舎を作り、当該搾乳施設などを協
同管理として設置し、出荷や、飼料購入、肥育に至るまで、組合の施行でやろうとしました。
しかし、その後当該収益が思うように上がらず、母方の祖父と異なり、経済・実務的な能力に欠けていた祖父は、当該追加運営経費について自分の農業所得と恩給(年金)以外、資金の当てもなく、しばらくして立ちいかなくなったようです。結果として、規制のかからない田んぼを宅地として求めた母方の叔父に売り、帳尻を合わしたようです。それがまさに、嫁(母) の愚痴の対象になったわけですが。
しかしながら、富の蓄積がない当時の農村で、貧しいながら、個々が出資金を出し、組合員が経済的に利得を得、協働の結果、出資に応じ当該利益を受け取り、自己及び家族の生活の向上に資する、自主自立の制度というのは、今思っても、当時の農業者にとっては、夢のような話であったでしょう。また、これは、進駐軍の後押しによる戦後政府が画した自作農創設政策(農地解放)により、自営農民が創出されたことなどによる意識の発揚、戦後の混乱期に労働力はたくさんあったとしても、農村に賃労働などの仕事も少なかったなども前提の話ですが。
私は、現在、都銀とも、山口県を基盤とするY地銀ともお付き合いはありませんが、当時から銀行が限られたもの特権的なもののための存在であったことはよく理解できます。
現在でも、当地では、多くの住民が、自己の便益のためには多少遠くても農協や郵便局を利用します。
殊に高齢者など、感覚的(生活感性的)に、銀行を信用していないんですね。ご承知のとおり、銀行も、一部高額所得者を除き、高齢者とのお付き合いはしてくれませんが。
今後も、限界集落など、明らかに、高齢的、経済的弱者しかいない地区において、近傍の農協、郵便局に是非頑張ってもらいたいと思います。金融資本、特定産業の保護と効率追求のみ求め、国民のライフラインとしての日本農業の将来と、日本独自の誇るべき組織農協を、平然と無慈悲な外国資本に差し出し、自己利害のみ図り、弱者の存在を認めず、国民国家の国民の利害に配慮しない、わが日本政府の政策と、その推進者新自由主義者に、強く反対します。
ついでながら、私も、「亡国の農協改革」著者、三橋貴明氏の主張に与みして、安倍首相の出身地(長門市油谷町)の美しい棚田を当該著書の印税(プラス我々のカンパで)買占め、自然に悪影響を及ぼすかも知れない合理性のない太陽光発電のパネル設置をするなり、グロテスクな風力発電のプロペラ装置を設置(下関地区に洋上設置の反対運動があります。あの実態は、「無考え宮崎駿」氏のアニメのフォルムですね。)するなりして、当初日本独自の営農の素晴らしさ気質の良さを賛美していた、彼の政策の一貫性のなさを糾弾したいと思います。
今後も、私は、明治人わが祖父の遺訓に習い、どのようにして「人のお世話をするように」かにつき模索・熟慮しつつ、日本の多くの国民大衆の利害に寄与する、現存する農業協同組合の支援に努めてまいります(私、現在のところ営農は好みませんが、現在、今後も、日本国にとって必要であろうと思われる、農協の準組合員、共済会員、預金者を兼ねております。また、営業のお兄ちゃんに、発破をかけています。)。
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大変申し訳ありません。
笠智衆が、「日本は文化じゃけん」というのは、「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)の内容でした。
お詫びします。
祖父は、この歌を非常に好み、おかげで、学齢期の前に覚えてしまいました。
褒められるため、何度も歌った記憶がありますが、(当然、歌え、といわれば今でも歌いますが)、祖父母が惹かれた、明るさ、楽しさは、私にも共有されます。