天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために、また農協に及ぶ考察) その2

2016-05-17 21:03:17 | 日記
再度申し上げますが、わが祖父は、二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、それぞれ、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
 父方の祖父母は、私が結婚して家を出ていくまで、20数年にわたり長らく同居していましたが、もともと父の兄弟は、指を折って数えなくてはなりませんが、男5人、女2人の7人兄弟であり、したがって、大家族でした。また曽祖父はある事情で壮絶な最期を遂げており、若くして家督を継いだ祖父は、退職するまで学校の教師を勤めました。
 戦前(もちろん太平洋戦争のことですが)は、一般的に教師は清貧の代表者であったとも聞いており、長男から数え、二男、三男を養子に出し、退職後は、生業の農業に務め、戦後も貧しい生活を続けておりました。長男であったうちの父は腰が定まらず、祖父に選んでもらった職業を放擲し、あちこちを転々として働いており、私の幼児期にほとんど父の記憶がありません。その後、前非を悔いて(?)、地元の中小企業に就業しましたが、私の幼年期の記憶は、祖父母に負っているものがきわめて大きいところです。
また、後日、うちの母親が、父の晩年にきわめて冷淡であったように思えたことも、なんとなく、理解できるところです。ただし、私自身とすれば、成人に至るまで、父親をあまり好きでなかったのはよく覚えています。そのような内訌のもとが、我が家が破たんせずに済んだのは、当時の時代のせいなのか、祖父母の恩恵のせいであるのか、よくわからないところです。しかし、手前勝手ながら、私も、その後家庭を持ち、父親としてすべきはずのことができない(「責任が取れない、必要な時にいうべきことが言えない」)と妻になじられたとき、私の成育史(?) になにがしかの原因があるようにも思われるところです。
 それはさておき、かつて祖父は、鉄拳制裁も辞さない父親であり、戦中の軍国教育にも積極的に加担していた、というのはのちに聞いた父親の述懐でした。
 当時、私たち兄弟に対し、不在の父に代わり、からめ手から教育を行ったのが、祖父の役割だったでしょうが、成人に至るまでほぼ孫の私を全面受容してもらった優しい祖母に比べても、鉄拳制裁とは程遠く、ひたすら褒めて育てられたように思います。祖父は「青い山脈」という流行歌を好んでおり、戦中での自分の行為に伴う煩悶、後悔は言わないまでも、「日本は文化じゃけん」という「青い山脈」の校長先生の決め台詞に同感であったのかもしれません。ゆえに祖父から、戦争の話はほとんど聞いていません。これは祖父にとって多分に意識的なものであったと思えます。
 話せば、たとえば吉田松陰、児玉源太郎とかの話とかしたのかもしれません。よく、覚えているのは、祖父が「人の世話をするよう、人の世話にならぬよう」という、後藤新平の言葉を引用していたことです。祖父が、「後藤新平じゃぞ」と、教えてくれたかは記憶にないので、後年調べました。
 祖父にとって座右の銘かもしれませんが、実のところ、明治人かつ元教育者として、「人の世話をするよう」に、行動指針を直ちに実行する人でしたが、「人の世話」などと出歩くことも多く、嫁などからは、必ずしも歓迎されませんでした。
 明治青年として身の処理の潔さ、それなりの開明性、間違ったことは正す勇気、この辺りは、まったく手前味噌ながら、まさしく祖父に教わったように思います。今でも、思い起こすたびに、懐かしい思いがします。
  (続いて、以下は、「協同組合」について、所感を申し述べます。)
 今回は、祖父たちが作った「協同組合」について、祖父の記憶とともに申し述べたいと思います。先に、わが「社研」では、三橋貴明氏の「亡国の農協改革」を皆で読みました。
 その中で、若い参加者には、「協同組合」の実態(現実の姿)が理解しにくいらしいことがよくわかりました。おそらく、資本主義の歴史の中で、他国の例もあるにせよ、著者の描く、なぜ協同組合が必要となったのか、いかに資金力がなく社会的な権力に無縁な自営業を営む大衆にとって、当該組合が味方になれたのか、についての理解がなかなかできにくいのだと思われました。また、日本においても、著者が「(1948年)当時全国で1万6千弱もの農協の設立がされた」と指摘されたように、昭和20年、30年代において、いかに多くの組合が作られ、整理・統合・消滅して行ったのか、理解したいと思いました。
私より少し年長の元大農家の方が述懐しておりましたが、米・味噌・醤油などは自家製造できるけど、外から物を買う現金がなかった、との話であり、当時の農村の事情が推し量れるところです。
 当時、農業者に資金を貸すような金融機関はあるはずはなく、私に記憶があるのは、頼母子講(無尽)(たのもしこう、 金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行したという制度だそうです。安全な庶民金融がない時代の産物なんですね。)(わが県にも「無尽」から創立されたという、第二地銀もあります。)というものなどはあるにせよ、新たな事業を興そうとする際に、まとまった資金を調達するすべもないまま、新進の気象に富む祖父は、当時、組合員の出資金に基づく、畜産協同組合を作ったようです。当時の地区農協の勧奨があったかどうかは、残念ながら祖父に聞いてはいません。
 近所の農業者と語りあい、最初に固定経費のかかる乳牛の協同飼育の畜舎を作り、当該搾乳施設などを協
同管理として設置し、出荷や、飼料購入、肥育に至るまで、組合の施行でやろうとしました。
 しかし、その後当該収益が思うように上がらず、母方の祖父と異なり、経済・実務的な能力に欠けていた祖父は、当該追加運営経費について自分の農業所得と恩給(年金)以外、資金の当てもなく、しばらくして立ちいかなくなったようです。結果として、規制のかからない田んぼを宅地として求めた母方の叔父に売り、帳尻を合わしたようです。それがまさに、嫁(母) の愚痴の対象になったわけですが。
 しかしながら、富の蓄積がない当時の農村で、貧しいながら、個々が出資金を出し、組合員が経済的に利得を得、協働の結果、出資に応じ当該利益を受け取り、自己及び家族の生活の向上に資する、自主自立の制度というのは、今思っても、当時の農業者にとっては、夢のような話であったでしょう。また、これは、進駐軍の後押しによる戦後政府が画した自作農創設政策(農地解放)により、自営農民が創出されたことなどによる意識の発揚、戦後の混乱期に労働力はたくさんあったとしても、農村に賃労働などの仕事も少なかったなども前提の話ですが。
 私は、現在、都銀とも、山口県を基盤とするY地銀ともお付き合いはありませんが、当時から銀行が限られたもの特権的なもののための存在であったことはよく理解できます。
 現在でも、当地では、多くの住民が、自己の便益のためには多少遠くても農協や郵便局を利用します。
殊に高齢者など、感覚的(生活感性的)に、銀行を信用していないんですね。ご承知のとおり、銀行も、一部高額所得者を除き、高齢者とのお付き合いはしてくれませんが。
今後も、限界集落など、明らかに、高齢的、経済的弱者しかいない地区において、近傍の農協、郵便局に是非頑張ってもらいたいと思います。金融資本、特定産業の保護と効率追求のみ求め、国民のライフラインとしての日本農業の将来と、日本独自の誇るべき組織農協を、平然と無慈悲な外国資本に差し出し、自己利害のみ図り、弱者の存在を認めず、国民国家の国民の利害に配慮しない、わが日本政府の政策と、その推進者新自由主義者に、強く反対します。
ついでながら、私も、「亡国の農協改革」著者、三橋貴明氏の主張に与みして、安倍首相の出身地(長門市油谷町)の美しい棚田を当該著書の印税(プラス我々のカンパで)買占め、自然に悪影響を及ぼすかも知れない合理性のない太陽光発電のパネル設置をするなり、グロテスクな風力発電のプロペラ装置を設置(下関地区に洋上設置の反対運動があります。あの実態は、「無考え宮崎駿」氏のアニメのフォルムですね。)するなりして、当初日本独自の営農の素晴らしさ気質の良さを賛美していた、彼の政策の一貫性のなさを糾弾したいと思います。
今後も、私は、明治人わが祖父の遺訓に習い、どのようにして「人のお世話をするように」かにつき模索・熟慮しつつ、日本の多くの国民大衆の利害に寄与する、現存する農業協同組合の支援に努めてまいります(私、現在のところ営農は好みませんが、現在、今後も、日本国にとって必要であろうと思われる、農協の準組合員、共済会員、預金者を兼ねております。また、営業のお兄ちゃんに、発破をかけています。)。

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大変申し訳ありません。
 笠智衆が、「日本は文化じゃけん」というのは、「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)の内容でした。
 お詫びします。

 祖父は、この歌を非常に好み、おかげで、学齢期の前に覚えてしまいました。
 褒められるため、何度も歌った記憶がありますが、(当然、歌え、といわれば今でも歌いますが)、祖父母が惹かれた、明るさ、楽しさは、私にも共有されます。

 思い出すことなど(今は亡き明治生まれの祖父のために)その1

2016-05-16 19:36:28 | 日記
わが祖父は、父方、母方と二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
 母方の祖父は、へき地の決して豊かでない農家から、同じく山奥の村部の運送業者に婿養子に入り、家付きの娘のそばで、家業を継ぎながら養父母に孝養を尽くしたらしいことです。背が高く、頑丈で体が大きく、ほおぼねの張ったいかつい顔をしていました。
当時の私とすれば、母親の盆暮れの里帰りに連れられ、母親になだめすかされ、山あいの狭い砂利道を、一時間近く(最初は)ボンネットバスに揺られ、車酔いになりそうになりながら、通っていました。こどもの頃は、なぜ、こんなつらい無理をして、母の実家に帰郷しなければならないかといつも思っていましたが、今(私は還暦)になったらよくわかります。当時の社会常識では、兄弟姉妹という拡大家族としても、遠く離れても相互の安否を気遣い、思いやることを繰り返し、気に留めていることは、家族として必要なことだったのですね。おそらく、当時(昭和30年代)、多くの家族において、ごく普通のことであったように思いいたります。実家については、いとこ同士で、年齢、実力の順序で、仲よく、遊んでもらったり、遊んでやったりしていました。
私の母は、男3人、女5人の8人家族で、へき地の例にもれず、都会に働きに出たり、嫁入ったりの叔父・叔母が多かったのですが、いずれも仲が良く、ことに女姉妹は、いずれも頭がよく口が達者で、こども心に感嘆(?) していました。両親の方針なのか、当時では珍しく、彼女たちは、いずれも女学校(その後一部「新制高校」)へ進学させてもらっており、田舎であるので、学校寮に入寮か、学校近くに下宿をさせても
らうなど、子供たちに対し、当該教育費用は惜しまなかったようです。
前から思っていましたが、彼女たちの口達者は、当然厳しい社会生活を経るうちに醸成された訳でしょうが、賢い、やり手の家付き娘の祖母に由来するものではなかったか、と今になって思いいたります。母の姉妹は、右肩上がりの経済状態の時代でしたが、皆、気前よく、お年玉、こずかいをはずんでくれ、私はしばらくお金持ちとなり、ほくほくの思いで、近くの駄菓子屋で豪遊できました。当該実家の所在は、わが家より少し高地にあり、我が家近辺にはいないヒグラシが、夕暮れ時にカナカナとさみしげに鳴き、蝉取りが趣味の私としても、なかなかこどもの手にはかからなかったとはいえ、私の本来の地元とは違った自然がありました。
母の実家は、流通業者(?) として、副業に精米業などもやっておりました。納屋自体が、精米装置であるような建物で、機械装置の間を米がわたるそのすさまじい音にすくんだ思い出があります。山間の集落とすれば、小さいながら、青果業、酒屋、雑貨屋、薬屋、農協などの金融機関など、ひととおりそろっており、例の角形ガラスケース完備の駄菓子屋までありました(前述のように恩恵を被りました。)。
祖父の容貌は、いわゆる馬面で、色が黒く、丸顔・色白を願う姉妹たちの怨嗟の的でした(よくわかります)。寡黙で控えめな人で、家業から引退したあと、農業と、肉用牛の飼育に専念していました。毎晩の少量の晩酌を楽しみにしており、私が長ずるにつれ、猪口の酒をすすめつつ、遠慮がちに近況をたずねながら、その答えにうなずき満足しているようでした。
本人の言いようでは、牛の世話が道楽だ、と言っていましたが、農作業の合間に、常時、二、三頭は飼っており、くらい牛舎の中で、大きな牛がうごめき、こども心に怖いようでした。草食の動物であり、いずれもまつ毛が長く、目の大きい黒牛で、おそるおそる差し出した草をゆっくりと食む姿はかわいらしいようでした。祖父は、当時、その牛を出荷する時が、一番悲しい、と言っていました。牛どもの飼料のために、あぜや草刈り場の草刈りが不自由になるにつれ、いつの間にか牛の飼育もやめていってしまいました。
祖母は、なかなか孫に甘いだけの人ではありませんでしたが、祖父と一緒に、大家族を制御・運営しておりました。
盆・暮れの、兄弟の寄り合いで、達者な姉妹たちの口撃の十字砲火の喧騒の中で、酒を飲むだけしかないような男兄弟は圧倒され、それでも、それぞれの配偶者を含め(うちの父親は母の里帰りに同行することを明らかに嫌がっていましたが)当該宴会(茶会)は深夜まで続きましたが、もっとも鮮烈な記憶は、部屋の中央に掘りごたつ(やぐら炬燵(こたつ)といっていました。)を切り、実際にこたつの底辺に、炭を埋けたり、練炭(いわゆる配偶者「不完全燃焼殺人事件」に使われたアレです。)を燃やしたりの、直接暖房でありましたが、当該掘りこたつを中心に、放射線状に布団をしき、皆で寝ていました。木組みのやぐらこたつ自体と、もみ殻枕の独特のにおいと、重い、硬い布団のかびくさい臭いを、よく覚えています。
祖父母にも、時代やそれぞれの人性において疾風怒濤の時代はあったでしょうが、家業をまもり、家業をたたみ、商売人としても、また、親としても様々なこどもたちの相談にも乗り、少なくとも、商売人としては、有能な人たちであったと思われます。
我が家の母は、上から二番目の二女であり、兄弟をおもんばかり、やむを得ず、言われるままに兄弟の多い家の長男に嫁入った、と愚痴をいっていましたが、その後、家族内のヘゲモニーを握った後も、愚痴の種は尽きなかったようです。義理の母も含め、まだ働きに行く場所もなく(当時、働く女性は社会的に不遇であると同情されていた要素もあります。)、終日、姑や小姑と顏を付き合わせ、当時の農村にはいくらもあったような話であったようです。後年、わが母は、フルタイムの仕事を見つけ、末子であった私は、内孫として、家を守る祖父母との関係がますます濃くなっていきました。
母の実家と我が家との、家同士の行き来も密であり、叔母などの話によると、農繁期の相互の手伝いや、子守などに動員されたということです。が、我が家の祖父は、実務的な素養がない人で、母の実家から色々助言や協力もしてもらったようです。
先日、母方の早世した長男から、二番目の順序として、わが母が物故しましたが、遠くに住んでいる高齢の長女を含め、存命の母の兄弟が全員集合したのは壮観でした。死ぬまで口が達者で元気な人でしたから、むしろ明るい雰囲気の中で葬儀は行われたところです。いみじくも、私と同級生である当日の導師(僧侶)が、母方の親戚一同を見て「みんな、同じ顔だねー」と感に堪えたように言っておりました。
誰かの話ではないですが、兄弟姉妹の関係性は、空間的な拡大にも、我々いとこ同士を含めれば、時間的な拡大にも耐えるものですね、それが私たちの代で絶えそうなのは申し訳ないところですが、それなりに、私自身と、叔父、叔母との行き来は続いています。もし、統一した家業があれば、「部族的な拡大」(笑い)にも耐えうるようにも思われます。
いずれにせよ、大家族を運営し、世間とつきあい、家業に決着をつけたのは、明治人である、祖父母の大きな功績であるように思います。孫への配慮も忘れず、個人的に及び難いと今でも思えます。
こんな感興を、後日、思いがけず、私たちに地下水脈のように呼び起こすのが、父祖や年長者の偉さなんでしょうね。


遺 書(初回)

2016-03-25 22:15:39 | 日記
このたび、第一の人性(普通によく言われます。)を、終わるに当たり一言ご挨拶を申し上げます。
 さて、私は、昭和53年(1978年)4月1日現在の職場に奉職し、このたび、平成28年(2016年)3月末日を以て、同じ事業所を退職することとなりました。
 その途中で、「辞めてやろう」と思ったことは、何度もありましたが、当時の私から考えると信じられないことですが、そのまま馬齢を重ね、長きにわたり現在の職を続けてきたところです。
普通の生活者として、「善い」ことも「悪い」ことも人並みには経験しましたが、幸運にも、現在、格別の不幸感も、格別の幸福感も感じず、今ここにいられることは大変ありがたいことであろうと認識しています。また、持病もまだ取り立ててなく、当面健康であるのは何よりのことです。

 先頃、送別会の席で、送り出してくれる後輩に「Tさんは、仕事の中での「正義の実現」、とよく言っていた」と指摘され、「あー、これが私の宿あ(長い間治らない病気。持病。痼疾 (こしつ) 。宿疾。宿病。)であった」、とこのたび改めて思い至りました。

我々は、基本的に「強いられた社会生活」を送っています。いくら、好きだと思う仕事をしていても、仕事である以上、その局面で、妥協や、現実的な対応は、それこそ無限に生じるはずです。
しかし、たとえば、仕事上生じた選択が、二者択一と思えたとしても、その選択が、自己の倫理基準と社会的な変動の予測と時間の射程を測り、正しく、相手に又は多くの多数者に対し後日益することはありうる、そうは見えてもその選択は決して右か左かだけではなく、何らかの戦う手段はある、と、当時、私は彼らに話したように思います。
それには、自己の倫理基準を絶えず疑い、自分の思考を常に鍛える契機を持たなければ、退廃する(そこまで厳しい言葉は使わなかったが)、とも言ったように思い、その意味で「青い、渋い、固い」と言われてもいいじゃないか、とついでに言ったように思います。
今思えば、そいつ一人でも、その記憶に残っていればいいじゃないかと、思うところです。
また、今にして思えば、その後も進行した私の加齢とともに、彼らを含め、彼らの考えやその試みを待ち、また周囲の動きを待ち、そのうえで判断できるようになったのが幸いといえば幸いの話ですが。

 私にとっての正義とは、たとえていえば、いわば少年漫画の「正義」のようなものであり、漫画の作者の背後にそれがなければ、わざわざ漫画を読む「意味」がないようなものであろうかと思えます(人気の少年漫画には、現在でもやはりそれが厳然として残っていると思われます。)。

 やはり、「意味」や「義」のない仕事に、人間は耐えきれるものではないのでしょう、今もそう思います。さすがに、今回、彼にはそこまで言えませんでしたが、「自己利害以外の価値のために不可避的に戦うことは、やはり必要だよ」というところですかね。
 わが貧しき70年代体験と、その後の凡庸で(?)膨大な時間を経て、そう思っています。

 私には、幸い、再任用の道が開けています。
 当面、「まだ死ねねー」、しぶとくあがいてまいりたい(「義」のために)というのが、私の、かそけきのぞみです。

 幸いなことがもう一つ、我が家の、息子、娘とも、彼らなりの苦闘と努力のすえ、現在フルタイムの仕事に就いています。彼らの、成果(?)を、今、「よくやった」と言祝ぐとともに、社会的な側面で、自立し、戦っていることを、ここに誇りに思います。

 今月初旬、実母を亡くし(罰当たりなことに病床のそばでブログを書いていました。)、先の実父の看取りとともに大きな責務が終わり、それこそ、祖霊のもとに送ったわけですが、今、ある大きな開放の気持ちを感じています。
願わくば彼らが、彼らなりに、今後、「人間の掟」と、「神々の掟」を完遂できるよう、私としては、祈っています。

思い出すこと

2015-07-01 20:30:34 | 日記
 昔(最近いつも同じ出だしになってしまい我ながら恥ずかしいことです。)、学生時代(1974年から1978年まで)のころ、私は、京都の私大の、文学・社会科学系のサークルに入っていました。
 70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいはまだ残っており、サークルの先輩にも、高共闘(高校版全共闘)で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
 74年入学の私とすれば、それなりの「青春期」の鬱屈を抱え、まだ、政治の時代の余燼くらいは残っている大学で、政治目的(?)は別にして、学校の教養課程の郊外移転とかに絡み、ストライキとか、ロックアウトとかはまだ残っておりました。キャンパスでは、運悪く学生に捕まった学長の吊るし上げなどがありましたが、自分たちの社会通念をか、世論を恐れたか、大学当局はまだ、学生自治(?)に直接に手を出さず、徒党政治学生に遠慮し、徒党政治学生たちは、表向き学友会自治の学生会館に居ついていました。当該学生会館は、地階から5階まであらゆる壁とドアはお互いに貼り塗りつぶしあったビラで一杯で、階段や踊り場は、立て看板で足の踏み場もないようです。ビラとレジュメをきるためのガリ版のインクのにおいの中で(そのにおいを今も思い出してしまいます。)、一般学生としては、時間を持て余し、サークルの部室で、昨日読んだ本を今日話すような議論を毎日していました。
 また、当時、暇に任せ、一生分、近所の喫茶店に通ったような気がします。
第二次オイルショック(1973年)の影響で、物価(学生食堂で、今日からAランチ80円値上げとかありました。それでも150円くらいです。)、学費等が一気に引き上げられ、学費引きあげ反対デモもあり、一般学生を含めた、少なからぬ学生たちが参加したことも確かだったのですが。
 全共闘の後かどうか、現代詩がはやり、石原吉郎、荒地派、鮎川信夫、北村太郎、田村隆一、そして吉本隆明などが全盛で、ごく普通に、現代詩文庫の詩集が売れ、あのマイナー雑誌「現代詩手帳」が書店に山積みでした。「死霊」の埴谷雄高を含め、言葉によるロゴスの力とか、思想とかまだまだ重みがあり、若者、学生が突き動かされる状況もあったと思います。
 団塊世代の橋本治が、彼の世代では(東大全共闘の時代)「吉本隆明はチャンピオンだった」と言っていましたが、それ以降それなりの時間は経過していたにせよ、京都は田舎なのか、まだまだ、高共闘崩れ(?)を含め、根強い支持と、人気を集めていました。
 当時、サークルでは、景気づけに、例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、わが大学の出身でもあり、現代詩人でもあった清水昶さんを呼びました。本当は、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」、ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの見下しや圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度京大の西部講堂で講演会があり、当日、到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に反対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
 また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
ところで、清水昶さんは、軍人の家に生まれ、海外から引き揚げてきた人で、戦後の混乱と戦後民主主義の始まりを経てきた人でもあり、当時、詩人としても評論家としても人気があった人でした。学生の生意気な質問にも、本心は「ナイーブ(バカ)だなー」と思ったでしょうが、自然体で、真摯に答えてくれました。講演終了後の、歓迎会会場まで、京都御所そばの寺町通りを四条通りまで、一緒に歩いてもらいましたが、今、思い起こせば、昔ここはどうだった、ここは中原中也が住んでいたとか、この書店のおやじは昔武装共産党にいたとか、知らない話もあり、結局、当時の学生はどうだったとかの話に終始してしまい、今思い起こせば、大変快い時間であったことしか覚えていません。
その清水昶氏は、2011年に物故されました。

 私たちの前年の講演会で、夏目漱石の研究家として著名な、山口県の梅光女学院の佐藤泰正先生に、夏目漱石について講演してもらいました。「漱石と明治の精神」という演題だったと思いますが、その時、佐藤先生には、学究者としての品位とか、長い時間をかけ、取得した、教養の重み(?)というか精神性のようなものを感じさせてもらいました。
 かの、先生とはもう一度、山内県で開催された梅光女学院(一応チャペルがあった学校だったぞ)の出張市民講座で出会いました。「宮沢賢治」がテーマでしたが、当時とまったく変わらぬような様子で、遺書で親族に改宗を迫った宮沢賢治の法華信仰に触れた中で(実際改宗するんですね。)、私が、佐藤先生は何か信仰があるのですか、と聞いたときに、「私の代から、カソリックです」、との回答で、なんとなくその背景を納得したところです。
 当該梅光女学院は、高校を退職した詩人の北川透が教師になっていました(今はどうなったかわかりません。)。また、学長佐藤泰正さんの関係でしょうが、吉本隆明を招いた講演会があり、吉本は、遠藤周作をこきおろし、ナイーブな女子学生の憤激と悲しみを買ったらしい、です。大騒ぎだったろうが、出られるものならば私も出て、遠藤周作の通俗さについて、私見を一言申し述べたかった。

 その後、京都のかつてのキャンパスと、学生会館に行ってみましたが、校舎は相変わらずぼろで、学長たちが必死で作った当時最新鋭の図書館も少し陰りがみられ、学生会館に至っては、旧建物は完全に建て替わり、私の風体が悪いのか、前に立つだけで、警備員がよって来るような体たらくで、二度と来るかよ、と捨てゼリフを投げたいような実態でした。
 徒党を組んだ「サヨク暴力学生」は、当時はその程度のものだったが、キャンパスの警備を外注するような、大学とはいかがなものでしょうか、とも思われました。
 同時に、京都は、喫茶店も、ジャズ喫茶なども淘汰され淋しい限りです。ドアを開けると、紫煙の中から「きっ」と睨まれた、斜に構えた、あの汚い学生たちはどこへ行ったのだろう。

余はいかにしてブログを始めようと思いしか!!(読書ノートへの自註)

2015-06-09 21:43:49 | 日記
2011年の3.11以降、東日本で何が起こっているのか、よく理解できず、必死で、昔から読んでいた信頼できる著作者の声明又は社会的発言を探した覚えがあります。瀬尾育生さんも書いていましたが、当時西日本と東日本では極めて大きな落差があり、受け取る感覚がまったく違っていたように思います。
私は、被災後、困難な状況の中で、必死で家族を探す、たくさんの被災者たちの姿を、今も忘れられません。「死を想え」、というのはこんな時の言葉だったと思いました。
また、広島の原爆被害愛好(?)市民団体が、兵器と科学技術の差を超えて(本当に馬鹿らしいですね。)、(その際の、自然災害による原発事故を必死で収拾しようとする現場の同胞たちの努力を尻目に)福島の原発事故を、それ見たことかと、そしったことを、決して忘れません。
その時他国にいた、村上春樹も、他人事のように、同程度のことを、「誤った選択」と呼び、自己が文学者であることをないがしろにして、安い西欧人の視点からコメントしていました。これも、忘れません。
その後、東北復旧に是非必要な廃材処理を、わが地区の処理場に決して入れさせないと言い張る当該地元団体のおやじ(おばはん)の醜い顔も決して忘れません。これは、知的・想像力の退廃というよりは、感性の鈍磨という話でした。お前ら、小金をためて、卑しい人間になったなー、という感じです。

 当時の私の気持ちは、おこがましいことながら、戦中・敗戦時に、尊敬すべき著作家、例えば小林秀雄のコメントを必死で求めた、吉本隆明の焦燥感、切実感に近いものだったかも知れません。
 私は、もともと、文学・哲学等愛好する、典型的文系人間です。しかしながら、現在の、第二の敗戦時に、それだけで済むわけがないと思われます。ブログで与太を書き飛ばす前に、現在の未曽有の危機に自覚的であり、私を含め大多数の国民大衆はどのように対処すべきかについて私なりに戦略がないと、あまりにさみしいことであり、奇跡のような近代以降日本を作り上げてきた父祖にすまない、と感じます。
開闢以来、初めて大敗北(太平洋戦争)した、我が国が、3.11という1000年に一度程度の大災害に耐えられないはずはないが、しかし、今後、いつまた、自然大災害が発生するかも知れない、本当は、そんなすれすれの日常です。
幸い私たちは、「社会的な」存在です。他人の思惟や、考察、著書に賛同もできるし、恩恵も受けることができる存在です。当然、現在は国民国家の(当然の)庇護のもとで自分や家族、友人同胞と一緒に、よりよい生を生き延びていかなくてはなりません。
一昨年末から、読書会をはじめました。
どんな貧しい会合、考察だとしても、今後、考え、伝える努力は放棄すまいと思いました。
我々が選んだのは、まず救いとなるべく、哲学や思想・文学の著書です。
これらの本は、3.11後、私たちに絶対必要な本です。私は、小浜さんの代表作だと思っています。
今後も、経済を、科学技術を語る前にも、皆さん、是非読むべき本であると思われます。
(同時期刊行された親鸞論「歎異抄」も、3.11の次年に亡くなった吉本隆明へのオマージュとも読めます。思想は思想で乗り越えるしかないのですから。)
 私の、貧しいブログに来訪していただいた皆さん、私の謬見でも、それを契機として是非この読書ノートを読んでください。