天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)のお勧め(先の「国家」の逆襲(著者藤井厳喜)のブログ一部訂正)

2016-09-13 20:53:22 | 読書ノート(天道公平)
先に標記につき、意見を申し述べさせていただきましたが、末尾に述べさせていただいた、「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)について、前回、私は一面的な見解を記した、と思われましたので、このたびその部分を訂正させていただきます。

岡部さんの立ち位置とすれば、産経新聞のロンドン支局長として、イギリスにあり、このたびのEU離脱(Brexit)を契機に、UK(ユナイテッド・キングダム・オブ・グレートブリテン・アンド・ノースアイルランド)(正式名称、以下「英国」と呼びます。)と、EUとの国際関係、EU各国の思惑、大国、米、ロ、中の思惑、その働きかけについて、英国にいるジャーナリストとして観察と分析を行うところにあったようです。
このたび、読みとおさせていただきましたが、それこそ、先に、英国が、EU加入存続について、「国民直接投票」というあたかも地獄の釜のふたを開けるような賭けに出ました。その結果(EU離脱)を受け、スコットランド、北アイルランド(アイルランドも含めて)などにおいて、あたかもユナイテッドのくびきを外されたように、歴史的にも、経済的にも、連合以前の民族国家としての直接利害を求める連合以前の国民(?) の思惑により、英国傘下の各連合国家で一斉に分離、独立の意欲が再燃焼し始めたこと、ましてはロンドン市の独立 (?) すら論議され始めていることなど、私には大変興味深い話でした。
伝統ある議会制民主主義の「先進地」で、新しい英国首相は、少なくとも日本国の大多数の政治家に比し、明らかに優秀で手堅いように思われますが、EU世界でのグローバリズムの幻想(虚妄)のもとで、国民国家を軽視したことにより一挙に噴出した大問題に際しやはり無力であり、私たちが承知おいているだけでも、英国民が過去に流血と戦いによって選び取った筈の「国民国家」<連合>の歴史が求心力を失ってしまうかもしれないという現実を視て、このたび、改めて、グローバリズムという社会の混乱と伝統の破壊、紛争しかもたらさないようなイデオロギーの大罪を苦く深く感じるところです。
メイ新首相による、親中共の有力閣僚(オズボーン前財務相)の更迭、英国内部の各国の連合の強化努力など、英国の「国民国家」のたがをしめなおす努力も、なかなかうまくいかないようです。
国民への求心力の復活のために、日本国の「天皇制」のように、先頃からの夜郎自大な中共政府高官の国家の品格を汚すような外交行為に、苦言を呈されたという、英女王など毅然たる英国王室が今後登場し、国民統合の象徴として、よりよく機能するわけにはいかないのでしょうかね。
本書でも、アメリカでの、米国民の期待した民主党のオバマ首相の改革の失敗と分析、親中共が予測されるクリントン民主党大統領候補の動向など、きちんと観察してあります。
そのうえで、①英国のように日本国は階級社会ではない、②日本国での資本家、労働者の対立は激しいものではない、②福利厚生も高く、地域コミュニティも残っている、③欧米ほどの賃金格差もない、日本の情況の利点を指摘します(いずれにせよ、安倍政権の経済政策を私たちが常に監視しておかなければ、いずれ全部反目に振られるかもしれない、というわけですが。)。
日本国民は、「「移民問題」やグローバル化に伴う格差問題を真剣に議論する心構えが整っていない」という指摘や、「統合の理想主義よりも現実主義を優先させた英国の決断は少なからぬ教訓になる」という指摘も得心が行きます。また、ほかの方々の指摘もあったように、島国国家で、中国・ロシアなど大陸の少なからぬ大国の影響下にある地勢的な状況下で、親米路線もほころびつつある中で、(伝統ある国民国家として)、日本国の世界外交として新たな日英同盟(同時に英連邦の尊重)の締結も可能ではないか、という著者の問題意識と論理は納得できます。
しかしながら、私には今世紀の最大の迷妄と思われる、グローバリズムにより引き起こされた災厄と、EUの不安定化、各国民国家の大多数の国民たちのグローバリズムへの幻滅と怒り、それにも拘わらず、あくなき利害を求める国境を超えた金融資本などの害悪(不道徳性)への告発や指弾が、前に挙げた藤井厳喜氏の著書(「国家」の逆襲(著者藤井厳喜))に比べて、今一つ不徹底(彼はグローバリズムというイデオロギーは終焉した(歴史的に破たんした)と書いていましたが、私もそのとおりだと思いました。)なのは、不満なところでした。


「国家」の逆襲――グローバリズム終焉に向かう世界(著者藤井厳喜)(祥伝社新書)について

2016-09-05 20:25:16 | 読書ノート(天道公平)
先の堤美果さんを含めて、数多くの日本人が外国に行っているのに、外国の、政治・経済・社会状況について扱われ、私たちにとって、「納得できる」著書が、殊に、現在の世界状況に係る報告、分析、考察が、何故に少ないのかと、私には奇妙に思われるところです。そんなものは、各著者のホームページや、雑誌の寄稿で読めよ、と言われても、そんな余暇も、普通の生活者であれば作り出すのがなかなか困難なところです。したがって、自分で、目当てをつけた著者のフォローワーを試みるわけですが、時に、書店で、今まで知らなかった味深い新たな著書を発見することは、小幸福と言えるところです。
 この本は、平積みで、書店で発見したものです。
まず、最初に、この本はタイトルを変えるべきだと思いました。「「国家」の逆襲」ではなく、「「国家」の復権」が、彼の記載の事実に即していると思われました。
また、この本は、「グローバリズムの終焉」、とサブタイトルで書かれていますが、おしなべてこの認識から出発しており、出発した論旨が明快で、興味をひかれる論議となっています。以下のとおり記してみます。
ア イギリスのEU離脱(Brexit)を引き金に、今後の歴史の潮目が、グローバリズムから、新・ナショナリズムに回帰したと考えられること。それは、 同時に、各国の従前のエリート主導主義から、大衆主義(ポピュリズム:大衆主義そのものは本来中立のニュアンスがある。)に移項したことを意味したこと(イギリスの国民投票もその象徴かもしれません。)。
イ アメリカにおいて、大統領候補者選挙において噴出した、一般大衆(大多数国民)のトランプ候補とサンダ ース上院議員に対する大きな支持はアンチエスタブリッシュメント(反・支配階層)として、一握りの一部富 裕者、それに加担し協力する権力者の一連の策動に反発する大衆的な運動であったこと。
ウ EU加入国内でドイツの一人勝ちにより、加入国間の甚大な格差と不公平、その経済的内部矛盾が露呈し、しかしドイツは各国の財政政策発動を頑として許さず、割を食ったドイツ国内を含め各国の下層階層(大多数の大衆)が各国々において階層間の混乱や、イギリスに続くEU脱退の動きの支持と、各民族国家内でも過去の国内での独立運動が顕在化してきたこと(イギリス国内など)。また、一人勝ちのはずのドイツも、メガバンクドイツ銀行の、不良債権問題など経営は決して盤石でなく、その欠陥のために今後の世界経済における不安定要素が非常に大きいこと。
エ ドイツの行き過ぎた移民受け入れ政策の強制のもとで、当該難民の無秩序な流入が、治安のみならず、経済・政治、社会的混乱を引き起こし、各国の国民国家の存立を揺るがすほどの大問題となり、各国の国境強化と、ドイツ自体、経済難民の流入受入れ政策を見直さざるを得なくなったこと。
オ ア、ウ及びエの経緯で、EU参加各国とその国民の幻滅が明らかになり、EU共同体幻想が崩壊し、それに伴い、その反動として、世界的規模で、経済 的、政治的、軍事的不安定と緊張が今後ますます加速する思われること。
カ 中共の経済的破綻が、世界秩序を不安定化している。中共政府は、内部矛盾の転嫁のため覇権・軍国主義に走り、南シナ海と東シナ海の秩序を不安定化 し、中共が勢力拡大を目指す周辺の関係各国間の軍事的衝突の危機と、経済破たんにより、もし中共に内部崩壊が生じれば、軍事的衝突と同時に膨大な経済難民が発生し、今後周辺諸国に押し寄せることも予測されること(日本に限定すれば中共に遺棄された反日教育を受けた中国人が日本に押し寄せるのです。)。

 以上、私の論点の取り上げ方が甘いかもしれませんが、著者の危機意識は、グローバリズムというイデオロギーが、いかに世界規模で先進国も後進国をも巻き込み、大きな災厄を引き起こしているかを、例を挙げ具体的に証明しています。このたび、よく、腑に落ちました。
これらの動きは、私たちの、学生時代に流行った、「世界プロ独」(各国で政治革命を成就したプロレタリアートたちが過渡的に世界規模で独裁体制を作る)の理念によく似通っています。「民族国家を揚棄する」というその理念が、現実的であったとすれば、私たちにどれだけ混乱と災厄をもたらしたであろうかをこのたびよく認識をすべきであろうし、それが、また、現在、高度に発達した資本主義が、国境を超え、拡大増殖した苛烈な金融資本に担われて、全世界規模で国家を超え実現されつつある、というのが歴史の皮肉ですが。まさしく、マルクスが予言した、高度に発達した資本主義国家で、階級間の矛盾、富者と貧者との対立の先鋭化に耐えかねて引き起こされるという、「革命」の時代となっているのですね。
それに「希望」を持てない私は、すでに<転向>していました。よくわかりました。
少なくとも、私には、現在の不安定化した世界状況の動きの中では、拠り立つものとして、まず確固とした「国民国家」が必要であることは確かなことです。

 アの中の、新ナショナリズムは、著者の指摘によれば、英語のナショナリズムの意味とはバイアスのかかったもの(極右的?)になるというので、もし、政治的・社会的に急激な変化をこのまず、大多数の大衆の困窮を認めない立場ということであれば、愛国者、保守主義者、伝統主義者というのが適当というので、私は、今後「「国民国家」日本及び当面日本国民の大多数の利害を第一義とする「保守主義者」」と名乗ることとします。同時に、それを自らの切実な問題として媒介しない、日本国の多くの様々なエリートたちに強い不信感を持っています。
 イについては、小浜逸郎氏のブログ「トランプとサンダース問題の背後にあるもの」にきわめて興味深く、適切な言説が存しています。(「小浜逸郎・言葉の闘い」blog.goo.ne.jp / kohamaitsuo )

 ウについては、メルケル首相は、旧東ドイツ出身ということですが、私の印象では、極度に官僚的な人ですが、EU圏で、負け組に属するギリシャ、イタリア、スペインなどに対し原理主義者のように、頑として、各国独自の国内金融・産業などへの支援とテコ入れを許さず、批判者にはまるで「第四帝国」化していると評されているようです。また、ドイツ国内においても、2015年までは、最低賃金法はドイツにはなかったと記されており、さすがにびっくりしましたが、「最低限度の生活」(?) も保証されない苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:税金や年貢を容赦なく、厳しく取り立てること。「苛斂」と「誅求」はどちらも厳しく責めて取り立てるという意味で、同じ意味の言葉を重ねて強調した言葉)の国だったのですかね。
 エについては、ドイツの国是であり、EUの理念「国境なき欧州」として、経済難民、政治難民の、欧州間の自由往来を認めたこととしますが、当該難民は貧困であることは前提で、当該難民の流入は各国家の福祉を食いつぶすし、また求職するとすれば、いままでそれに就業していた自国の階層では甚大な被害と不満が生じるであろうし、きれいごとでは済まないわけです。殊に、人種等が違う難民(?) たちの一部が持たざる者として、強盗、性的な犯罪(ドイツケルン市で1,000人規模の暴動があったといいます。(権力に迎合した)ドイツのマスコミは意図的に報道しなかったそうですが)が生じるのであれば、各国民たちの難民に対する憎悪がかきたてられるのは確かなことです。また、その経緯と紛争が生じるのが想像されるのであれば、安易に軽々しく受け入れを表明すべきではないですね。
 オについては、まったくごもっともなことです。
 カについては、直接日本国と日本国民の安全と経済的、社会的利害の侵犯に関連する重大な問題です。年間三万件以上といわれる中共国内の暴動の件数を考え、この著書が指摘するように先の南京の花火事故が、中共政府に対する暴動であったとすれば、人民解放軍(人民抑圧軍)は、中共政府に帰属するのであって、国軍ではないということですから、経済的に追い詰められ国内の秩序維持が保てなくなるなら、今後「反革命(反中共)分子」として、中国人民を、海上に放逐するでしょう。それが、誤った、中共イデオギーに汚染された人々であれば、日本国の無責任なインテリが好きな「人道」支援、救助、受け入れなど、大きな災禍のもとです。これについても、三橋貴明氏の貴重な論考があります(三橋経済新聞、mag20001007984mailmag@mag2.com)。
お勧めします。

昔流行った、「絶望の虚妄なりたるは希望の虚妄なりたると相同じ」(魯迅)を引くとすれば、このような暗く解決困難な問題を扱うのであれば、私たちとすれば、「絶望」を意識化し、個々人として、その絶望の質を上げていくしかないですね。それは、同時に、お目出たい方々と、それに付け込む下劣な、うからやからと、戦っていくしかないかもしれませんが。

 同時期に出版された、「イギリス解体、EU崩壊、ロシア台頭 EU離脱の深層を読む」(PHP新書、岡部伸著)が、このたびの同時期の同様な問題を扱っていました。著書は、産経新聞のロンドン支局長を務めている人ですが、このたびのイギリスのEU離脱(Brexit)について、当該支持層をアメリカ大統領予備選の「トランプ=サンダース現象」と併せ、無定見な大衆の一時的な情緒的反応であった、という書き方であり、日本国内の凡百なマスメディアの主流と同様ではないのか(親グローバリズム)という印象を受けました。保守的な新聞の特派員であるのに、その程度の認識でいいのかな、と思った次第ですが、先の藤井厳喜氏は国際政治学者であり、立場として、ジャーナリストは、それとは違うのかもしれません。今一つ、違和を感じました。

「沖縄の不都合な真実」(新潮新書:大久保潤・篠原章著)を読んで

2016-08-09 20:38:19 | 読書ノート(天道公平)
 さきごろ、「沖縄の不都合な真実」(新潮新書:大久保潤・篠原章著)を読みました。
 「全本土基地の75%以上が存置する」という、沖縄県の、地勢的、歴史的、経済的及び政治的状況について、その実態を述べたもので、共著の二人とも、沖縄で、報道記者活動をされ、また、沖縄に係る評論活動をしてきた(されている)方たちだそうです。
 この本は、普天間の米軍基地を従前から内定していた辺野古移転させようとすることについて、先の知事選挙改選後、辺野古移転に公約とおり反対し始めた現在の沖縄県知事翁長知事と政府担当部署の一連の騒動について論じ、その実態と地元の実情について歴史を遡及しつつ論じています。
 沖縄の基地問題は、県外から見ればひたすら政治的問題で、左翼、右翼、保守主義、その外、入り乱れて百人百様の意見と、主張があります。
 この本は、もっぱら本土で行われる現地を離れた議論(果たして実際に現実を媒介にしているのかという疑義)と、実際の沖縄県民の経済社会的な立場で派生するその利害と、その利害と思惑に基づく政治的な対立について、具体的に述べています。

 当初、那覇市の基地を原因とした住民の騒音被害、その他の被害(米兵の犯罪行為を含めて)を原因として、普天間基地が未居住地(辺野古地区)に移転が決定(政府官庁と地元沖縄県・関係市町調整後)した後に、政治的(地元利害を含めて)に、その結果が反故となり、移転が完了していない今も負担が軽減されるはずの、宜野湾市などの多くの住民などはそのまま、当該被害を受容している、ということになります。
 また、当該移転について、(翁長知事の登場前に)当該折衝にすでに多くの国の費用が使われたとすれば、いくら民主党の鳩山首相が暴走し、政府と沖縄政庁の間で長らくすすめられた折衝と努力をチャラにしてしまったとしても、われわれ国民とすれば、少なからぬ時間と公費を徒消し、その後その実績を上げられない政策は、その後の政府の対応はどうなのかと、その責任を指弾することとなります。

 一方、地元とすれば、当該基地の敷地は、借上げ地で、多くの県・市町などの所有地とその他私有地があるとのことですが、敗戦から現在に至るまで、基地としての借り上げ料、それは当然のことですが、米軍が利用便益するその費用を国から得て、個人とすれば生活の資に充て、また、当該借り上げ価格が適正な時価なのかについては書かれていませんが、県、市町とも、財政的に多大な額を、基地借上げ金でまかない、それ以外にも、その他に基地交付金という名目なのか、国からの特別な給付に依存し、行政経費の多くを頼り、県民・市町民などの必要な費用を賄う財政運営をまかなっています。
 一方、アメリカ軍も、日米安保条約に基づき日本に駐留し、防衛活動(?) (本音は別にして)をするため、戦術的に、施設を設置・展開し、利用しており(彼らの本音は僻すう地の辺野古に行きたくないはずと書いてありましたが)、現在では、東シナ海を隔てた、中共と、日本海を隔てた北朝鮮(ロシアも当然含めます。)という想定敵国が、アメリカの世界の軍事的戦略と経済的覇権を脅かす存在として、当面利害を一にする、日本国の基地に駐留しています。当該費用は、日本政府によって賄われています。 
 敗戦当初、沖縄に駐在するアメリカ軍は、日本及び沖縄の分断政策からか、「琉球」という名称を多用し、沖縄の学生たちをアメリカに招待し、アメリカでの教育機会を与えることにより、日本国としてのナショナリズムの発生や国民意識(?) の一元化を阻止し(「琉球大学」という国立大学の名称もアメリカ政府の命名だといいます。)、反米を反日にすり替えるという巧妙な占領政策を行ったとのことです(当時一部学生たちをアメリカに招待し金門橋を見せその威容とアメリカの実力を知らしめたそうであり、その留学学生の同門会は「金門会」と称し、前の太田知事、現在の那覇市長など様々な中核となる人脈があるそうです。)。現在も、他国(フィリピン、韓国)に比較して、「アメ女」(アメリカ軍兵・軍属のガールフレンドになる子)や、ハローウイン時の基地兵士に対する「ギブミーチョコレート」のおねだりを含め、県民の対米軍に対する感情はきわめてよいそうです。また、若き日、沖縄戦を戦い、戦後米軍によって訓導され、引退された「エリート」太田元知事は、その後「醜い日本人」という本を出版され、当時の当該訓育が今も彼の想念を呪縛しているように思われるところです。

 日本政府も、何やかやで、憲法の制約その他で表向き自国防衛ができない状況にあり、当然、わたくしたちは、国民国家日本の政府として、北海道から、沖縄まで、また島しょ部を含め、国民の安全と経済的利害を守っていただかなければなりませんので、当面、同盟国のアメリカ軍の当該駐留経費を負担することとし、地元行政や業界団体をなだめすかし、自国の「反日」勢力への対応をも含め、結果的に自国防衛と現在極東の軍事的・経済的秩序の現状維持を図っています。

 バカ左翼が、アメリカ軍の即時撤退、憲法による「国際紛争の解決の手段としての武力行使(軍備)の放棄」(そう言っているやつもいるか。)、自衛隊は解散せよといっても、世界的にも極めて不安定な極東の現実政治の体制下ではそういうわけにはいかないんですね。

 しかしながら、現実の地勢的、流動的な東シナ海の中共の覇権行動をみれば、大きな脅威が押し寄せているのは自明であり、その策動が、国民国家日本の安全を脅かし、日本国民及び国土の安全と経済的の利害に大きな脅威を与えることについて自覚的でないならば、その中で、国民の一人としても、それぞれの立ち位置で何をすべきかを考察できなければ、その政治家、ジャーナリストその他の方々は恥を知るべきです。

 この本の趣旨に戻れば、現在の沖縄といえば、口では、基地の完全撤去、と口にしながら、経済社会的に、基地の存在と、日本政府による賃料支払いと、沖縄の地元市町村に交付される振興のための支払いその恩恵なしには運営できない、沖縄の状況、基地なくして存立する、沖縄の建設業労働者を
養うに足る土建業、観光業、サービス業その他の業種は成り立たない、ようです。
 沖縄社会の、基地賃料受給者、地元土木建設業経営者や公務員のいわゆる「勝ち組」と、それ以外の階層の所得格差は厳然としてあり、かといって、今も建設業や、観光以外に、雇用を創出できる産業が育っていないといいます。求職する適当なフルタイムの職場がなく(このあたりは、一部都市圏を除いた、日本の各地方の状況に似ていますが)、貧困と、格差による、離婚、母子福祉の不備、生活保護世帯の実数が日本一であるともいいます。
 もともと、旧琉球王国時代から、当時の階層、士農の比率が、1対2ととても高く、薩摩藩の併合(幕府に許された侵略でいいです。)、明治政府の廃藩置県を経ても、地方政治に余力は割けない日本近代化の事情で支配層であった士族の特権は温存され、新政府と士族の二重課税が農民に課され、既特権は保護され、士族の失職はなかったために(沖縄では御一新はなかったんですね。)、社会的分業の発達が行われず、沖縄に新たな近代的な産業の発生が望めなかったという歴史もあるそうです。
そして、当時偉かったその士族が、その後も社会の上層としての「公務員」として、働くこととなった訳ですね。また、大手の民間企業も創設されぬまま、労組もほとんど官公労(なんと懐かしい。)労働者であり、官民の大きな所得格差もこのあたりから発生しているようです。

 日本の各自治体と類比すれば、県民所得が高い自治体もあり、それぞれ差があり、当該格差を、沖縄が経てきた歴史と、戦後経てきた歴史のみに責任を転嫁するわけにはいかないところですが。もし、仮に米軍基地が即時に沖縄から撤退しても、速やかに、彼らが主張する沖縄振興策により、県民の生活向上が図れるとは言えないでしょう。日本各地の、県、市、町においても、それぞれの努力と苦闘があるはずです。仕事の少なさは、貴重な沖縄の自然を破壊する無秩序な開発につながり、米軍の演習地に多く自然が残っているとの皮肉な現状もあるそうで、先行きのない乱開発に走らざるを得ない主たる産業としての土木業者とその従業員とその家族、彼らの従事できる安定した仕事があれば、県民は救済され、県土の荒廃は防げる筈ともありました。
 また、今後、米軍基地が移転して、基地返還がされ、今まで沖縄の土地が有効活用できなかったのだからと、「思いやり予算」で日本国民が、沖縄という一部地域のために、地域格差を固定し、際限のない贈与を続けるのか、という話になると、そうもいかないでしょう(沖縄は「不幸な」歴史を経ているのだから「自立」するまでそうすべきであると、昔そう言った知り合いもいましたが)。「貧困」を原因にした国民の自立を助ける公的な扶助は、国家による全国民を対象にした別制度の公平な給付でしょうから。

 もともと、辺野古地区への基地移転は、騒音問題と、米兵による市民生活への犯罪被害等を抑止することとして画されたはずですが、彼らに言わせると、神奈川県の厚木基地の周辺の方が類比しても騒音が激しい、もし辺野古に移転すれば、基地周辺の米兵相手のビジネスが成り立ちにくいといって
います。彼らまで、沖縄市などから辺野古地区に移転するわけにはならないのですね。また、移転した場合、借り上げを中止する普天間や沖縄市の地主が困る、といいます。地元産業が成り立ちにくいところで、借り手がすぐさま見つかるとは限らないといいます。思うに、賃貸物件について、優良借主が、もう必要なくなったからいらないと、沖縄市・町や、不動産賃貸業者に解除申し出があれば、当該費用を見込んで生活設計をしていた方々あるいは不動産業賃借業者に即座に不動産バブルが巻き起こるということなんですね。運命共同体の彼らによる、今までの県土の開発の実態を見ていれば、「基地を廃し沖縄の美しい自然を守る」とか、いう建前論も、どうも意識の外にあるらしい。ナイーブな本土人が考える夢物語は、現実と違うのですね。過去にも何度となく行われた、また現在の沖縄市長のもとで、地元土木業者を潤す、美しい海岸地域と貴重な自然を破壊する海浜の不必要な埋立てを、筆者たちは指摘します。そして、同時に建前の基地移転を速やかに行っても、後の生活と、財政運営が困る、という、基地反対、基地賛成勢力を超えた、利害の合一と、基地は別にしても、現在の政府による、県土の借り上げと、沖縄の財政的な保護を望んでいる、と同様に筆者たちは指摘します。
また、それが、全国一の県民所得の低さという現状から抜け出るために、本来の自立と沖縄県民の将来的な「利害」にそぐわない、とも言います。どこかで見た「構造」だなと、既視感に襲われませんか?
 また、沖縄には、琉球新報と沖縄タイムスと二大紙が突出して、それ以外の新聞は売れない(購読者がいない)状況らしく、当該二新聞社は、「基地問題」、「沖縄戦」については、決して異論を許さない(沖縄及び沖縄県民を被害者にしない記事は掲載しないとよめます。)という、同調圧力を発揮し、それに反する自社新聞掲載者との訴訟も行ったそうです。まさしく、県内、県、市町などの運命共同体の、利害の合一と、目的の同一により、「不都合な真実」は口にするな、という、一丸となった暗黙の隠ぺい構造なのです。当該同調を拒否した様々な沖縄在住の表現者たちにも、どのような運命が訪れたかも色々書かれています。
 このような、歴史性、地政学的な経緯を理解できれば、沖縄県知事をはじめ、那覇市長、県内各市町などの一部の首長、土木企業などの民間企業、沖縄在住新聞が、なぜあのような夜郎自大(?)な発言をし、どうも場合によっては、沖縄県民、大多数の県内各市町民などの利害に反するような主張をするのか、また少なからず、国民国家日本の大多数の普通の国民大衆の利害に反する発言ができるのか、よく理解できるところです。

 この辺りは、地元では常識だといわれますが、本土経由の、空疎な、大江健三郎=筑紫哲也視線からは、それが見えないのですね。

 もともと保守派の現在の翁長県知事は、先の基地移転の騒動で、その支持基盤として、「反安保」、「反戦」、「反米」という地元旧社会党、総評系シンパたち(官公労OBなど)の懲りない(ため息をつくような)オールドボルシェヴィキ(沖縄では有力なのかもしれないが、果たして日本全国で、実際のところどれだけ存命なのだろうか。)たちを加え、ますます勢力がましているといいます。

 ただし、この筆者たちも、仕事で沖縄に勤務したとしても、いずれ転勤します。彼らも「本土に転勤できるのならいいわね」という、地元の批判を浴びるかもしれません。しかしながら、どこに居住するにせよ、ジャーナリストとして、目先の組織的・私的利害を離れ、発言すべきことを発言せず、報道すべきことを怠るのは、職務の怠慢や節義の欠如のみならず、人間としての退廃ではないのでしょうか。そして、何より、沖縄に生き、将来も沖縄に生きていかざるを得ない大多数の沖縄県民への背信行為ではないかと思われます。

 私たち普通の国民も、自ら思考し、マスコミや一部バイアスのかかった人々のミスリーディングに抗し、短期的にも長期的にも、多くの国民大衆に被害と不利益を与えかねない、政府、沖縄政庁の不適切な動きを注視し、「それは違う」という態度表明をすべきであろう、と思います。
 このたびも、興味深い本を読ませていただきました。ありがたいことです。

佐藤多佳子さんの、「第二音楽室」、「聖夜」について言及したい!!(夏休みの読書のために)

2016-07-29 20:21:32 | 読書ノート(天道公平)
 名作「しゃべれども、しゃべれども」(新潮文庫)を読んで以来、佐藤多佳子さんのファンとなり、フォローワーとして、著書にはずっとついていっていました。佐藤多佳子さんはヤングアダルト部門での著作が主業務であるようで、現役(?)の若者たちの一定のファンがいるらしく、私、おやじ(これは飽くまで他称です。)ごときが特に言及する必要はないのかもしれませんが、一言、その読後の感興を申し上げたいところです。思えば、これらの本は出版から何年か経過し、誠に時宜に合わないわけですが、未読の方があれば、それは、夏休みのお供にどうぞということで。
いうまでもなく、これらの二冊は大変膾炙(かいしゃ;「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから、世の人々の評判になって知れ渡ること。)されており、それぞれ、中学生向けの課題図書になっていたのか、読書感想文作成後の大放出のせいか、しばらくの間、某文化なき古本屋では数多くの「聖夜」が一冊108円で売られていました。また、これらの2冊は著者の説明を待てば、姉妹のような本で、音楽の演奏を媒介にした、小学生から高校生に至るまでの子供(殊に少女)たちの物語が紡がれています。演奏家は決して孤高で孤独な存在ではなく、音楽を契機に、彼らが葛藤を通じ成長していく物語で、著者は、音楽自体の感興や演奏の高まりをどのようにして表現に定着するか、巧みに工夫しています(サブタイトルが、「 school and music 」となっています。 )。また、それぞれの作品は、著者の設定で、それぞれ設定年次が異なっており、読む者にとっては、時代性というか、さもありなんという理解できる年時で、なるほどと、私たちが、それを自らに引き寄せ振り返り、その時代に気持ちを移行できることとなっています。(余計なお世話ですが、主人公たちの現在「1916年(平成28年)」の推定年齢を併せ付記します。 )
 また、二冊とも、本の装丁がとてもよく、所有したいような本ですね。
 女の子の自己に対する呼称は、関西以西(私も属します。)は、我々のこどもの頃から押しなべて「うち」といっていました(とても懐かしいです。)。著者は明らかに関東圏の人ですが、現在では、東京圏でも、小、中学生の女の子(十代)のほとんどが、「うち」と自称するそうです。ただ、関西圏では、自己呼称を最初にアクセントがある「うち」と称しますが、関東圏は「家:うち」の発音に近いようですが、微妙に差があるそうです。標準語では「私」のはずが、現在の彼女たちにとって「うち」と呼ぶのが自然に思われるように、こどもの世界も、言葉も、変わっていくものなのですね。
 書名となった「第二音楽室」は、中・短編集となっており、四篇の短編・中篇で構成されています。「第二音楽室」(想定年次2005年)は、小学校の高学年(5年生)の女の子たちが、学校行事の鼓笛隊活動に参加し経験する様々な体験と、相互のその関わり合いがみずみずしく描かれています。最初はみそっかす(傍流の)のピアニカのグループに属する付き合いのなかった子供たちが、練習場として、屋上の仮設の第二音楽室を取得し、だんだん互いになじんでいき、お互いの理解と融和を獲得する話ですが、それぞれ個我意識に目覚めて、早熟な子や、普段目立たなかった子に意外な特技があったりという発見が生じます。未知の場所でグループで行ういわゆる「基地」遊びの感覚であるかもしれません。同性も、異性も含めて、彼女たちには、まだ、「人を好きになる」とかいう気持ちがはっきりしないんですね、揺れ動く彼らの気持ちが十分に伝わってきます。結果的に、彼らの努力を介しての取り組み(鼓笛隊の参加)は大成功という彼らの達成感(トロフィー)もついてきます。(現在推定年齢21歳)

 「デュエット」(想定年次1993年)は、中学生の話です。音楽のテストで、男女のコーラスが課題になります。お互いに、自意識過剰で性に対し興味しんしんの「中学性」の時期に試みられた、相互に気恥ずかしい取り組みとなりますが、皆、クラスの中でコーラスの相方を探さなくてはなりません。主人公の女の子が、変声期前の男の子なのか、運動部にいながら声がとても良い子を見初めます。他人の仲介の過程で、運よく彼に、OKの返事をもらうわけですが、彼のその声に惹かれ、是非一緒に歌いたいと、自分で働きかけた彼女の心の動きと、せつなさ、いじらしさがよく伝わってきます。結局、クラス全体では、相手を変え何回も歌う男もいましたが、男女カップルでのコーラスが、だんだんに皆をなだめ融和し、皆の見守る中で印象深く完了していくハッピーエンドです。たった11ページの感動的な短編です。(現在推定年齢35歳)
 「Four」(想定年次1988年)も同じく中学生の話です。小学校の時に、リコーダーのアンサンブル(合奏)をやっていた女の子が、卒業式の送迎音楽の演奏のために音楽の教師によって素養のある子供たち、それぞれ個性ある総勢4名が集められます。ソプラノ、アルト、テナー、バスに至るまで、リコーダーも色々種類があるんですね。彼女が経験する、合奏の練習活動を通じて、他人を好きになる苦しみ、高まりたい切なさ、それこそ、思春期のみずみずしさが直截に伝わってくるんですね。合奏という、いやおうもなく気持ちを合わせハーモニーを作り出さなければいけない過程の中で、演奏技術の優劣や、彼らそれぞれの自負心や、女の子同士の思いやり、彼女が人を好きになっていくおずおずとしたその過程の愛らしさ、鈍感な男どもの幼さ、よくわかります。演奏のたびごとに情緒的な演奏の優劣は必ず生じるし、皆の技術と気持ちが一つになり捧げるかのような演奏を行った時に、それこそ表現の創造に対する無償の喜びが、読む者に側々と伝わってきます。最後の本番を終えて、大きな達成感と喜びの中で、彼女が好きだった男の子が別の活動に
踏み出す別れの苦さを味わいつつも、彼女は他のメンバーと一緒に第二期のアンサンブル活動に入っていくわけです。私にはこの短編が最も惹かれました。(現在推定年齢36歳くらい)
 もう一つ「裸樹」(らじゅ)(想定年次2009年)という中編があるのですが、こちらは、ギター演奏をする高校生の女の子の話ですが、まだ読んでいない皆さんのお楽しみということで。(現在推定年齢24歳くらい)
 「聖夜」(想定年次1980年)は、高校生の男の子の話です。彼の親は、先代からのカソリックの神父ということで、彼も小中高と一貫性のミッションスクールに通っています。名門の学校らしく、礼拝堂に附置されたパイプオルガンの設置があります。彼の特技はオルガン演奏(オルガニストというのでしょうか。)ですが、その特技は、同じく彼を呪縛するものでもあります。かつての最愛の母が、父に背いてドイツ人のオルガン演奏家と駆落ちしたからです。彼は、衝撃を受け、結局懇願する母についていかず、父と同居の祖母のもとに残っています。その後、祖母などの頼みで、演奏は再開しましたが、離婚(カソリックではないのでしょうね?)をした父を含め、宗教や楽器演奏に不信感を抱き、思春期の時期とあいまって、つらい日常を送っています。
 彼は、「聖書研究会」を主宰し、後輩と神学議論を戦わせています。おお、「カラマーゾフの兄弟」、議論のための議論ということですが、辛辣に、激しく、神や、現実、信仰者をなじります。同時に、演奏に卓越した彼はオルガン部の部長を務めるのですが、こちらでも孤高で狷介(頑固で自分の信じるところを固く守り、 他人に心を開こうとしないこと。また、そのさま。片意地。)な、スタイルを通します。しかしながら、後輩の努力型のかわいい女の子は、聖書研究会でも、オルガン部でも付きまとい、思慕する傾向もあるので、少しは人望もあるようです。彼の学校には、父の友人などの信仰者もおり、それなりに安定的(息が詰まる)な環境のようです。
 オルガン部で、文化祭に学校の電子オルガンを利用させてもらうコンサートをすることとなり、彼は「メシアン」という天才的な演奏家、作曲家、神学者の難曲を選ぶこととなりました。オルガン部には彼を慕う女の子以外にも、演奏家に純化できるような後輩がいますが、彼は、純粋芸術というべきか、彼女の弾くバッハの演奏に強く惹かれます。また、同時に、彼女に、昔、ピアノコンクールに出ていたこども時代の無垢の演奏家としての彼の評価について聞かされ、考えさせられます。
 メシアンの演奏は、彼にとって両刃のようなものでした。かつて、演奏家としての母が特に好んだ曲であり、難解で解釈に迷い、またいやおうもなく幼年期の厳しい体験を想い出すからです。悩んでいた彼は、普段は敬遠されている級友と一緒に、ELP(エマーソン・レイクアンドパーマー)(シンセサイザーを使ったロック、おお、なんと懐かしい。)のキース・エマーソンの演奏家としての在り方を考えたり、ロックのキーボードの演奏家に紹介してもらったりして、自分の世界を広げていきます。
 結局、文化祭のコンサートの日に、彼は自分の演奏をすっぽかしてしまいました。
 初めて、父親に「周囲に対し責任を果たさない」ことで叱られ、その後、父は、離別後の母から自分に届いた手紙を握りつぶしていたことを告白します。今も嫁を許せない祖母と、父と母の葛藤の実態と父の思わぬ弱さをしり、凍っていたかのような彼のかたくなさもだんだんにほどけていきます。自分も、自分自身の感情と、同時に家族の気持ちと現実とに、折り合わなければならない、ということとして。
 彼は小学生の時、母のために背負わされた厳しい体験から、異性に対し恐怖と不信感を抱くようになり、後輩の女の子に告られた(?)とき、「なんで俺なんかに」と思ってしまうような彼の事情はよくわかります。本来、彼は、高いプライドと、他人に対しも結構非寛容で鼻持ちならないような男の子です。実際のところ思春期などはそんなものですが、時間の経過とともに、試練を経た体験と自分の周囲に対する理解の広がりによって、母と同じ演奏家としての体験が、徐々に彼を救っていきます。やっぱり、これは、音楽を媒介にした、質のよい成長物語なのです。
 彼は、オルガン部と、指導の先生に謝罪しましたが、先の後輩の活躍で視察に来ていた教会関係者を動かし、本来の教会のパイプオルガンを使えることとなりました。
 皆で、パイプオルガン(西欧では空気の圧で天上に至る頌歌などを奏でる楽器と考えられるようです。)によるリハーサルを行い、オルガン部のそれぞれが、至上のものに捧げるような演奏ができ、本番に向けて融和し気持ちを一つにする、それが「聖夜」での出来事です。(現在推定年齢53歳)
 またもや、ヤングアダルト小説に、入れ込んでしまいましたが、佐藤多佳子さんの物語は、少女・少年期の題材に関して、こちらが照れて読めないようでもなく、新鮮で、新しいものです。こういう「面白い」著書は最近なかなか読めません、それぞれ、描写される演奏が、実際に自分で聴いているかのような、そんなイメージの喚起と感興を覚えます。
 今においては、私にとっては、理解不能(?)のような、思春期、前思春期の女の子・男の子の世界と、その喜びや葛藤、みずみずしさが、部分的にでも理解できるかのように思えるのです。

国際ジャーナリスト堤未果さんの「政府は必ず嘘をつく増補版」を読んで

2016-06-17 22:21:34 | 読書ノート(天道公平)
先日、「堤未果」さんという方の、「政府は必ず嘘をつく」という本を読みました。
 興味深い本でしたが、「外からの視点」というものに、目を開かれる思いであったので、つたないながら、少し触れてみたいと思います。
 彼女は、「国際ジャーナリスト」という活動をしているらしく、彼女の教育、経歴(表題は米国の歴史家(兼彼女の恩師)「ハワード・ジン」氏に多くを負っているように書かれています。この本の書名も彼の言葉に由来します。)は、国内教育後、米国の大学等で学び、その後その交流の多くを欧米系
その他の国々の同種業者との付き合い、その情報交換を活動の基盤にしているように書かれています。国連の職員、アムネスティインターナショナルの職員を経て、外国誌の特派員か何なのか、現在の生計を何に依存しているかは書かれていませんが、日本の商業新聞三大紙や、それと軌道を一にしている他
の国内大手メディア(たとえばNHK)などとは、一線を画しているようです。少なくとも、日本国ではかなり普通に見受けられる、「日本政府」、「日本国各商業新聞」などのコードに触れる言論的自主規制には、拘束されていないように観測されます。

「ふつーの庶民」である、私たちは、通常、国内メディアの与える情報しか目にすることは、ありません。たとえ、翻訳CNN放送などを常時注意深くみていたとしても、やはり、国際状況の流動性や、外国の「庶民」の実態や、彼らの考え、外国政府の活動や、その世論の論調が、我が国に比べ、他国の常識が、世界的なその相場性(?) がよくわからないところがあります。その差が理解できるのは、他国の状況を観察し、判断できる、少数のいわゆる「ジャーナリスト」でしかできないことであろうかと、思われます。しかしながら、その判断や、観察が正しいものであるかどうかは、彼らの著書を通じて、私たちの個々の判断の責任に任されるしかないところなのですが。

 彼女の視点は、良い意味で「外からの視点」のように思われます。
 たとえば、日本のTPP条約批准に際し、彼女が語るNAFTA(北太平洋自由貿易協定(アメリカ・メキシコ・カナダのあれです。))の成立によって、米国内、メキシコ国内、カナダ国内の大多数の「住民大衆」が、失職、所得の減小、景気後退、などでどのような深刻な被害を受けたのか、あるいは
訴訟能力と言いがかりに長けたアメリカの金融・サービス資本、農業寡占会社などが、メキシコ・カナダに対し政府訴訟を行い、その結果かの両国が全敗で国家利害にどのような深実な被害を受けたか、このたび、具体的に初めて知りました。また、本では読みましたが、ジャマイカ・韓国などの新興国が、
自国の経済政策の失敗ではなく、国際的な公共的機関を装うIMFが推進した、特定の階層に国境を越えた草刈り場を提供する新自由主義の経済政策のもとでいかに国民経済を破たんさせられ、それのみならず自国の防衛、社会資本、福祉、文化に、国民性に深甚な被害を受けたかが、よく理解できました。
 彼女の記述によれば、「1%の人間が国富の80%を握る」アメリカでは、金融資本等が他国に勢力を拡大しても、世界レベルで富者が貧者をどのように収奪するか、定式化と手順化がきちんと出来上がっているのですね。それを知りつつ、報道しない(?) 日本のメディアもどうかと思いますが、アメリカにおいては、行き過ぎた規制緩和でメディアが次々買収され、気骨のあるメディアがなくなり、御用メディアしか残らない状況となっているとの話です。ひるがえって我が国と類比すれば、このような状況について、国内メディア報道で見たことも聞いたこともないことを綜合すると、バカな三大誌はさておき、公正・公平であるべきNHKを筆頭に、日本のメディアは、危機意識も見識もない、政府に積極的に迎合する、不勉強でご都合主義の報道機関なんですね。よくわかりました。また、メディアの私企業化により、公正・公平な報道も望めなくなる他国の現実も省みず、元々の進駐軍コード以後、唯々諾々と権力者に随順してきて以来、ただでさえ迎合的な日本のメディアなど、将来的にも、組織的な戦いも、記者も個人的にも何もしないのではないか、と不幸な予想がされます。

 重要なのは、「自由貿易協定」という国境を越えた方便によって、現在の、きわめて強力で苛烈な資本主義の担い手の国際的金融資本が、「規制緩和」とか「小さな政府」とかの掛け声のもとで、メディア、政府機関に至るまで手中に収め、あたかも民族国家を止揚し新たに少数者による世界帝国支配を目
指し(ショッカーのような奴らですね。)、日本国をも含め国籍を超えた悪の眷属(けんぞく:一族、郎党)を増やすため、目的と利害を共有する大多数の権力者を味方に付けて、他国の大衆や、自国の大衆を、いかに収奪しているかという、グローバリズムによる支配という世界的な現実を認識する必要が
あるところです。そして、まだ戦うすべがあるかもしれない、日本政府の、TPP政策、新自由主義政策に、工夫しながら一人の市民レベルで戦うことにしましょう。それが、せめてもの私の「意地」です。

 ところで、彼女の、著書で気になることがありました。
 「脱原発」を巡る論調です。私には、「これは、内側からの視点」が欠落しているのではないかと思われました。(原著は、2012年発行(この本は増補版)でしたが、今年(2016年4月に)増補版が出ています。) かつて、3.11後の発言で「原発事故」について、海外移住前までは政治的・社会的な発言を慎重にしてきた筈の村上春樹が、「我々は誤った選択をした」とか、奇妙な発言をして、日本国に住み、逃げなかった国民・読者に対して、無責任で、見識のない発言をしていました。再度申し上げますが、原発事故は英国誌の報道にあったように「天災による原発事故」であり、決して人為的な事故でも、ましては天罰でもないのです。それは、「長老」吉本隆明が、「これから人類はくらい道をとぼとぼあるくこととなる」という、2011年当時、科学技術の不可逆性と科学技術それ自体倫理性がないことを言明したことに比して、きわめて不見識でした(他の坂本龍一などどうでもいいが)。それは、村上春樹の言説は、米欧的な文脈においては通りがよく、同時に、日本国の現状を媒介すればとても通俗的であることを意味しています。
 もし、村上さんが、その後自己の見識の一貫性をとるべきであれば、彼の著書が不買運動の対象となった、「中共」の東シナ海沿岸部に多数建設されるはずの、原発(国民の命が安い中共ではよいかも知れないが、日本国にとってはなんと恐ろしい。)に対し、ちゃんと、彼の見識に基づき抗議すべきです
。その際、彼が、先の中共政府主導の村上春樹著書不買運動について、抗議するかどうかは、どうも、自己著書に自負心を持っていないような表現者として、彼の勝手ですが。

 著者にとっても、今後、日本の国家安全、経済的な安定、国民の安心安全にとっても、今後必要なエネルギー政策において、一つの選択として、原発をメニューに入れないわけにはいかないのです。「3.11」後の混乱期に、この際とばかり、新自由主義の思惑から、政府による市場開放に関する様々な謀略がなされたかもしれませんが、やはり、日本国内企業(国外へ出てったやつのことなんかしらねー。)の対外競争力の担保と、安価で安定的な電力供給を大多数の日本国民に供するため、一つの手段として、現実的に必要です。
 著者として、また国際ジャーナリストとして、「原発事故」に関しあたかも「世界標準的な(?) 」偏った見地に拘束されたままで、この本の当初刊行の、2012年当時はやむを得なかったかもしれませんが、その後も、無考えの、日本の三大商業新聞、東京新聞に随従するような、原発パッシングに雷同するのは、やめて欲しいですね。少なくとも、原発問題に関して、日本国の大多数の国民の現状と、日本国に住むしかない私たちの将来に関する大きなエネルギー問題に関して、現実的で大多数の大衆の利害を媒介しないような、不見識なことは言ってほしくないものです。

 堤さん、私たちの視点は、それぞれの立ち位置で限界があるかもしれませんが、せっかく、このたび現在の日本人にとって極めて重大で、示唆に富んだよい本を出版されたのですから、引き続き、日本国内では見えにくい、客観的で、事実に近い、他国についての正しい情報を引き続き教えていただきたい、と思うところです。