天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」の危さ並びに(一部の)大衆への失望(その2)

2021-04-11 10:40:01 | 時事・風俗・情況
 当該記事写真は、2019年6月、就任当時の広報の見返しである。
 「市民に寄り添い、市民の声を聞き市民と分かり合える市政の実現」、とまったく、ポピュリズム政治家の真骨頂である。
 せめて、「聞く」を、「聴く」に改める見識はなかったか。市民の現実(自分では言い表せない内面の考えや本音)を、自らの市政に反映する経路もなかったか。市民大衆は、自己の経済的基盤の安定と、自分の安心・安全くらいしか、政治には求めない。それが「健全」というものだ。
 それこそ、「政治の幅は、生活の幅ほど広くはない」のである。
 この人には、「目先の人気取りしかない」、それ以外いうべき言葉もない。それが、多くの地方政治の現実でもある。
 
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2020年(令和2年)12月15日、地元テレビの夕方ニュースにおいて、周南市長は、「周ニャン市」という市のイメージ啓発の、キャッチコピーを廃棄することを、記者発表した。

 その番組を振り返ってみる。

 テレビ番組では、まず、最初に、前市長の「周ニャン市」というキャッチコピーのお披露目式を流し、回想する。
続いて、現市長の当時の自分の市長選挙のアジ演説、「周ニャン市をやめさせます」というはちまき姿の映像を流し盛り上げる。
そして、現在の姿で「こんな、周南市をおとしめるようなふざけたキャッチコピーは、私は非常に不快です。」と、再度、怒ってみせ、自分の感想を述べる。いささか、攻撃的な口調である。
 そして、最後に、新たな周南市のイメージキャッチコピー「ここから、こころつながる。周南市」という、凡庸なキャッチコピーのお披露目セレモニーを行う。
 それが、市長を、「SHUラボ(「しゅうらぼ」と読む。)」(はじめて知った。)というワーキンググループ(?) ・市長擁護で組織された市民団体 (?) が取り囲んだ中で実施された。
それは、おそらくこの発表が大衆性を得ているという市長の自負心の表明なのであろう。
 また、そんな、政治家として、自分の、院外応援団を勝手に作って、市政を操っていいのかとは、誰にも問われない。議会が追及しなければ、自分で、恥ずかしくなければそれまでである(恥を知るのも知性のうちである。)。

 このたび、その画像を地元テレビへ放映することによって、前市長の「周ニャン市」にとどめを刺そうという、藤井律子市長の強い決意のほどが、よく理解できた。
この報道では、かの推移が、系統的に、時系列を追い、きれいに編集されていた。事前に、きちんと準備されていた。

この時期に、是非とも、万全の態勢で、政敵にとどめをさしたかったのだろう。

 ところで、ちょっと、待ってよ、と、市民・市職員は何も思わなかったのだろうか。

 先に書いたとおり、「周ニャン市」キャンペーンは、市民の発案をもとに、行政が取り上げ、大多数の市民の協力を得て、実行された。
周ニャングッズの作成とか、大きく拡大・発生し、缶バッジ、広報宣伝、様々なグッズ作成、地元スーパーの、にゃんにゃんレジ(レジを打つたびににゃんにゃんという声が聞こえる。面白いです。)とか、あれよあれよという間に、燎原の火のように、様々な運動に派生していった。
 周ニャングッズなど、そのトートバックなどを、私も見たが、商業的に十分に勝負できそうに思えた。
 何より、賛同するスタッフが楽しんで仕事をしていたように思えた。
 缶バッジについては、近隣の市町住民、旧徳山市、旧市町などの出身者の引き合いも多かった。改めてびっくりした。不足が続き、何度も追加製造したはずだ。
まことに、文字どおり、市民と連動した、ボトムアップの面白い運動だった。
この度の市長も、その影響度の忖度(そんたく)(?) に時間がかかり(皮肉です。)、したがって、すぐに、政策放棄ができなかった、のであろう。

 当時、周ニャン市、情報宣伝(全国車両訪問宣伝)隊に少なからぬ職員が応募し、自己の時間を犠牲にして働いたはずである。

 就任した、市民の声を聞く(?) という 市民アンケートの大好き市長(あなたは就任以来意味不明のバカなアンケートばかりやったではないか。)さん、あなたの対応は少し違いはしないか。
いずれにせよ、「なんでもアンケート」とは自信のない無能な政治家(行政職員)の最低の手段であるが、なぜ、あなたは、今まで皆さんに協力いただいた、周ニャン市やめてもいいですか、と、市民に、なぜアンケートを取らなかった。
自分の意に反するアンケートは嫌なのか。
 そもそも、このたびの報道番組は、自分の好まないものは、徒党の力を以て、徹底的に排除するというポピュリズム政治家の常套手段ではないのか。
 そして、それ以前に、なぜ、職員の意見聴取をしなかった?
 あなたは、職員を信頼していないのか?
 職員の市長に対する敬意や、信頼はあなたには不要なのか?

 そもそも、私には、前任者をおとしめるセレモニーを、公的に、実施する政治家が大嫌いである。

 前市長は、前々市長の、「民衆駅徳山駅ビル」の公費導入による建替えという、考えるだに、愚かしい暴挙を阻止するために戦いたいというのが選挙の重要政策だった。
 きちんとした、政策論争にもとづく選挙だったのだ。
しかし、前々市長が引き回した、駅前再開発契約のクラッチ条項(引き戻せば周南市が明らかに損害を被むり市民が損害を受ける契約破棄の禁止条項)を考慮して、その後、当該契約を破棄せずに、自己流で改定を加えていったのだ。
 それが、大多数市民の利害にとって、現実的で、理性的な政策判断であった、と思う。
少なくとも、前の市長は、公約に反するということで、感情にまかせた行為で、市民と市財政に直接に損害を与える、契約破棄はしなかった。
 首長として、正しい判断だと、私は思う。そのあとは、自己の知恵と職員の協力を得て、次善の策を模索したのである。
 政治家は、自己の感情と、市民の利害の相克があれば、理性に基づき、大多数市民の利害に立つべきである。
 それが、政治家というものだと、私も思う。

 このたびの市長は、自己の偏見と好き嫌いで、政策を忌避するのか。
 深読みをすれば、人前で、周ニャン市やめさせます、とバカなアジ演説をした、自分自身が恥ずかしく嫌いなのか(女性市民が指摘するようにスーツを取り換え引き換え、装うあなたは十分に自己愛が強そうであり、そうは思えないなあ。)。
 そうであれば、敵の決めたものはすべて嫌い、という、感情に任せ、理性を放棄した、いかにも女性らしいやり口である(全国の女性の皆さんごめんなさい、と一応は謝る。しかし、そのやり口は、男の嫉妬と同様に醜いものである。)。

「周ニャングッズ」や派生商品の作成と、相当の在庫もあったはずだし、周ニャンバッジなど、周南市出身者、隣接市の市民たちの支援もあったはずだが、誰がそのイメージの凋落と損害を補填するのか。
 
 通産省の官僚で、そのより前に、優れた経済学者である、中野剛志氏(TPP亡国論で著名)は、政治家の存在意義は、その「人間性」であると喝破した。私も同意する。
 就任以来、政策を十分に吟味せず、すなわちその後の大多数市民の利害の立場に立たず(その後の波及を考えれば私は「くまもん」の経済効果を超えたと思う。)、自己の体面や、感情を重視する市長に、どこに人間性があるというのか。

 それより以前に、市民の良識をなめ切ってはいないか。

 なるほど、煽動すれば市民は愚かだ、容易に煽動され、市長の思うままに、動くかもしれない。
しかし、ときに一部市民の愚かさを取り込みつつ、将来の大多数市民の利害や、安心安全について熟考し、当面の空疎な不人気には頓着せず、市民及び市財政のために必要な先行投資をなし遂げるのが、政治家の本来の姿、それが「人間性」というものではないのか(新たに企画した、徳山大学公立化という愚挙については別に論じる。)。

あなたは、高価で趣味の良いスーツで身を固め、政治家は見た目だけだわよ、と言わんばかりの張り子ではないのか。
 南鮮人は、優れた韓国ウオッチャー呉善花(お・そんふぁ)氏によれば、「見た目がすべて、そして勝者」と、貧民であろうと大統領であろうと、社会階層(?) を越え整形だろうとなんだろうと、平然と行う、らしい。
試しに、韓流ドラマをみてみれば良くわかる。自前なのか、修正後なのか、のっぺりした、美男・美女しか出てこない。

外見は大事である、しかし、品位とか内面性、その能力は表面ではわからない。
ハゲはかつらで補正すればいいし(私も立派なはげである。どこかのじいさん、いい年をして、自分の運命くらいは、ましては容貌など、自分で受け入れようや。あさましい。)、ド派手なジャケットは、大衆人気をあおるのに効果的である。そして、裏で「大衆なんてのはなあ、バカなんだよ」と思っていればいい。

しかし私たち日本人は、「見た目より内面が大事」と、父祖たちから習ってはこなかったか。

 このたびの騒動は、よく計算されて作られており、政敵を葬りさるセレモニーであったかもしれない。
そうであれば、周到に用意された今回のこの騒ぎは、ポピュリズム政治家、大阪市の橋下元市長たちの手法と同様にたちが悪い。
 すなわち、他人をたたいて、自分を吊り上げるという、下劣な、目先の人気取りはいい加減にして欲しい、ということである。
 それが、心ある市民の反応ではないのか、と思う。

 その後、市長は、市の情報戦略(?) を、情報ブローカー、中国博報堂に丸投げした。
 あとは、民間活力の導入とうそぶき、知恵も疑いもなしに、高い金を払って、彼らの情報提案(?) に従うのであろう。
 自己努力を放棄した、安易な姿勢である。
 それに抵抗できない職員も恥ずかしい限りである。
 なぜ、自己努力で、市民のために、という気概を持たない。
 私たちの現役の時には、「上に間違った判断をさせるのは下の責任」といわれていたぞ。そいつが、直言をしたかどうかは、別の話であるが。
 職員の、思考停止は、情報ビジネスの食い物にされるだけである。
 重ねて、バカな話である。

 少なくとも、藤井市長は、退職時(あなたが私人となられる際)に、自分の感情で生じた、適正に算定された市へ与えた損害分を、市に返還すべきだと思う。
 いずれにせよ、短期間勤務の退職金にかかわる所得税率は、目を覆う累進税率である。いっそ、公職を去られるなら、放棄・寄付されたらどうですか?
 あなたが、直接手をくだし、市及び市民に損害を与えたことはいくらもあるかもしれず、そちらの方が、理に適うというものかもしれない。
 よく、覚えていてください。

「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」の危うさ並びに(一部の)大衆への失望(その1)

2021-04-06 08:49:20 | 時事・風俗・情況
 
 このブログ原稿は、平成30年12月、書いたものです。
 したがって、私が触れている内容及び人物は、その当時のものです。
 そのまま、ボツにするつもりでしたが、当時以上に、現在の、地方自治のどうしようもない頽落ぶり(国政のダメさ加減とまさしく符号しています。)を見ていれば、私の身近なケースを取り上げるのも、また、意味があるのではと思いかえし、このたびアップします。
 当該てんまつは、今後も続けます。
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 わが元勤務先、周南市では、前市長の方針で、市民の中から沸き起こった、「周ニャン市」呼称・周知キャンペーンを採用し、シティプロモーション事業(市のイメージ向上事業というのだろう。)として位置づけ、様々なキャンペーンを行っておりました。

 それは何を隠そう、「周南市」(しゅうなんし)の、「南」を「にゃん」に読み替えた呼称であり、全国、市名の中途に、「南」が付されていれば、おしなべて、「・・にゃん・・」となるわけです。
 そういえば、友人が、私立南山大学出身であったので、それは「にゃんざんだいがく」となるのか、学生は喜ぶかもしれない(私が学生であればよろこぶが)。
 私が想起するだけでも、お隣の島根県の雲南市は、「雲ニャン市」となり、その呼称がかわいいかどうかは別にして、同じパターンを繰り返していけば、二回目以降はそれほどのインパクトはないのかもしれない。
 しかし、言いだしっぺが、やはり、評価されるのです。

 ところで、じじいとして、また昔の話をしますが、1980年代に「おにゃんこクラブ」(あの秋元康プロデュース)(以下「おにゃんこ」という。)という、アイドルユニットがあって、毎夕放送されるバラエティ「夕焼けニャンニャン」という、番組が大人気で、「俺、もう帰るわ(彼女たちが見たい)」と、帰宅部のみならず、中・高生は家路を急いだということもありました。
 何度も書きましたが、「おにゃんこ」以前のアイドルは、皆、ピン(ひとりで)勝負していた(その精神的・体力的重圧は大変だったと思う。)。
 しかし「おにゃんこ」は「会員番号」を名乗り、出てくるアイドルは、責任分散体制であるのか、質より量と言うか、品質保持というか、さらにはリスク管理のためなのか、当該、群衆アイドルの動きは目新しいものでした。また、ひんぱんに行われる、人気投票によるあおりも、興味深いものでした。
 少年漫画紙でも、「ニャンニャンしよう」とかいう、隠語の流行語もあり、巧妙に、思春期の男どものセクシュアリティをくすぐるものでした(どうも現在のラノベのはしりなのかも知れません。)。

 幼児語でも「ニャンニャン」は定着し、「ニャンとわん」といえば、日本人にとって、なじみのある、一対の単語です。
 私は保守的なじじいですが、「周ニャン市」、決して悪くはないじゃないの、ということです。少なくとも、ユーモアはある、訳です。

 当初は、若者の有志たちから、エイプリルフールのジョークかも始まった(「本日から周南市は「周ニャン市」となります。」というキャッチコピーが有名になりました。)訳ですが、その後の、市民の様々な受け入れ方をみていると、若者たちには大きく支持されたようです。

 それに目をつけたのが、平成15年に平成の大合併で周南市が誕生して以来、ぱっとしない「周南市」が、シティセールス(?) の意味で、「周ニャン市」キャンペーンが、平成29年度から始まりました。
 当初は、市広報など自前のメディアで宣伝し、「周ニャン市」記念缶バッチの配布など、賛同者(市の内外の人たち)に対し、希望者に無償で配布し、私の職場でも、他市からも希望者の引き合いが多く、数が足りず、配布中止になったところです。
最初の、エイプリルフールの取り組みあたりから、じじ、ばばの、いわゆるまじめな(?) 高齢者たちから、「ふざけている」と猛反発をくらいました。
 私もじじの年齢ですが、私自身は中二病のためか、あるいは「おたく」であり、あるいは精神の柔軟性に富むせいか、「なぜ、そんなに怒るのか」と当初から疑問に思っていました。
 その後、「シティプロモーション事業」が予算化され、全国宣伝事業で、情報ブローカーに対する委託料が予算提出されたことにより、怒れるじじ、ばばの公序良俗の代表者、市議会が、当該予算部分を除き、議決する、などという、騒動になってしまいました。

 なぜ、このような事業が、市長ぐるみで巻き起こったかといえば、どうも、自市の知名度を全国レベルで知らしめて、行政運営を、様々に効果的にしたいということに尽きているように思われます。
 例の、「くまもん」ブランドのように、「濡れ手で粟」というか、うまい話を求めていたのかも知れません。
 残念ながら、私は、生涯、二流の行政職であったので、自分が所属する地方都市が、全国的に知られていないことの、不利益や、行政運営上の支障は、あまり良く理解できませんでした。

 隣接した下松市(「くだまつし」と読みます。)において、自市出身の漫画家が、少年ジャンプに、連載マンガを掲載した際に、またそれは、「しもまつし」と呼称されたわけですが、早速、ジャンプ誌に、意見広告を出し、「下松市(くだまつし)」の周知徹底を図ったらしく、おらが市の名前を、知らしめることは、地方の公共団体において、非常に重要なことなのかも知れません。
 私は、再度言いますが、二流の行政職だったので、そのあたりの世間知とその効果は、よく理解できません。
 私とすれば「しもまつ市」の意見広告よりは、「周ニャン市」の方が、まだ、ましなんじゃないのと、思ってしまうわけです(下松市はどういう経緯で予算をつけたんですかね。少なくとも状況判断と決断・実行は早い市長です。)。

 個人的な意見を言えば、常日頃、あれほど職員に対し、市行政にかかる職員持ち出しのボランティアを強要(決して自発的ではなかった。まったくいなか者の手法です。)していながら、また、市長自身も、フェイスブックなどのSNSを使っていたにもかかわらず、先の予算措置のように、一時のバブル期のように、情報ブローカーに丸投げする必要があったのか、ということです。
 金がなければ、市職員に協力をお願いして、それぞれ得意のSNSの手段を駆使してでも、安価に、より効果的に、草の根の運動(?) を起こさなかったのかと、思いました。
「周ニャン市」を称揚する若い職員をみていてもそのことを如実に感じました。人は、個人としては、自分の好きなことは、自己の負担で、自分の時間を削ってでもやるわけです。
 その後の、行政に協力する市民の発案なのでしょう、周ニャン市グッズとか、いろいろ登場し、行政としても、周ニャン市マークの原付自転車ナンバープレートまで登場しました。
 地元スーパーでの、「ニャンニャンレジスター」(特定スーパーでレジを打つたびに、ニャンと音がする。)や、周ニャン市を名乗る食事メニュー、周ニャン市グッズの作成、友人に、周ニャン、トートバッグを見せてもらいましたが、良いできでした。
 地元は盛り上がっていたわけです。

 となれば、新たな市長は、当該協力者たちに対して、道義的な責任はないのでしょうか?

 昔、青島幸雄が、都知事選に当選した際、「公約だから」と、前知事が決定し実施寸前だった、「世界都市博」を、止めさせた時、直接、都及び都民に金銭的に、また、同時に、他国の信用を失墜する行為をしたとき、「公約を守るのは偉い」とパヨクが賞賛しました。
他国に対して約束を反故にし、国民にも国内でも都の信義則に損害を与えたこと、都財政のみならず、国内産業界にも損害を与えたことも、不問にされ、問題にもされなかったことです。
 さすがに、現職であった実務者出身の現職都知事(鈴木前知事・石原都知事候補ら)は、都財政・都民不在の愚策に、腹に据えかね、いろいろ運動されたようですが、無考えで、進歩的(?) で、無責任な、大多数の都民に黙殺されたようです。
 「ムリが通れば道理引っ込む」という、つまらない話です。また、その責任は、都民以外に誰も追求できないわけです。

 そういえば、当時の周南市の前市長は、ポピュリズム及び箱物至上主義であった前々市長が、駅ビル建て替えを決定し、当選時に、その予算が動き出していた時点でしたが、周南市としての損得を考え、公約に反しながらも、当該建て替えを是認したはずです。
 それが、あの、駅そば図書館になったわけです。

 その一方で、わが市でも、中高年以上の男性職員はどうもダメで、「市長はふざけている」、「バカらしいことをする」と言っていました。
 私は、保守的(保守は新しいものを好まないわけでは決してありません。)な人間ではありますが、中二病の私とすれば、反目に回り、「いなか者が」、「この老害・反動が」、と悪たれるしかない、訳です。
 行政職もいろいろいるわけですが、「視野を広げて、他者世界に対する想像力を養う」ことを怠れば、三流に堕するしかなく、それはパヨクのけつでもついて行けよ、ということであり、ああ、やっぱり、彼は、脱原発運動の支持者でした。バカだね。

 閑話休題、ここからが本番ですが、この「周ニャン市」問題が、2019年(平成30年)、春の市長選の争点になってしまいました。
現職で出馬した市長に対し、それまでの現職県議が一騎打ちを挑み、「周ニャン市キャンペーンをやめさせる」というのが、重点施策(争点)となったのです。
 元県議は、イメージ選挙戦が大変上手で、既成政治陣営の批判、男政治の終焉、高学歴市長候補者の終焉、を繰り返し、最期に、「「周ニャン市」は辞めさせます」、ガンバロー、とぶち上げます。

 この手法は、どこかで見た手法で、現状に飽きた、あるいは無思考の大衆が、「大阪都構想」を、際限なく繰り返し唱えれば、その気になって、「維新」の尻馬に乗ろう、と思うように、あるいは、グローバリズム、グローバリズムと何べんも唱えれば、流されやすい人々は、無思考で、あたかも輝かしい未来を信じるのかもしれない。
 ネガティブスローガンとして、男であったら偉いのか、学歴があったら偉いのか、などという不健康で、ネガティブな感情に訴える、その危険な思想、その負性や、問題点を論じることなしに、政治屋に、迎合、煽動され、操られる、つまらない大衆操作とまったく同じものです。
 前市長は、その点について、意識的だったらしく、選挙前に、広報の「市長随筆」で、トインビーを引用して、政治家の「ポピュリズム」(大衆迎合主義)批判を展開していましたが、どうも、それは、迂遠な方法であり、多数の市民には届かなかったのでしょう。

 結果、一万票以上の大差で、前市長は敗北しました。
 二期続いた市長であり、市民も飽きていたのかも知れません。前市長の座右の銘、「和して同ぜず」が、気にさわっていたのかも知れません。強いて言うのであれば、飽きっぽい市民は、学歴や経歴を、視野の広さなどとかあまり問題にしなくなったわけです。

 しかしながら、争点が、政治政策ではなく、「周ニャン市」では、市民も職員も浮かばれない、ところです。
 現在は、新市長は、英断で「市民の声を聞く課」などを設置され、「おもてなし行政」など広く展開されています(もちろん皮肉です。)。

 先の総選挙のばかばかしさ、支持政策の不在と、支持政党の不在の、デフレを加速する消費税増税が行われた、先の総選挙に対する、国民の絶望と呼応するところがあります。
 国がダメになれば、地方もダメになっていくのでしょう。
他国からの侵略対策や、国民の安心安全を第一義にしない国家の国民は、ニヒリズム(絶望・無気力主義)に陥るしかないのではないでしょうか。


(令和元年(2020年)9月1日付け市広報で、担当課から当該事業は終息するとの報告がされました。)

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その5)(コロナファシズムとどう戦うのか。)

2021-03-25 18:55:01 | 時事・風俗・情況
先に、NHKの将棋早指し選手権の決勝を見ていましたが、今年は見事に、昨年の決勝敗退者、稲葉陽(あきら)8段が優勝しました。本人も、また、対戦者の斎藤慎太郎8段も、順位戦で、プロ棋士で10人しかいない、A級バリバリの人です。
殊に、斎藤8段は、今期の順位戦で高い勝率であり、稲葉8段にも勝ちこしています。
私の記憶では、昨年の決勝の際、稲葉8段は、対戦相手のベテランの深浦康市9段に、もろくも(?) 敗れ去ってしまいました。
当時の私の個人的な印象で、彼は、勝負師として人が良すぎるのではないかと、思われました。
それのせいなのか、過去において、なかなか、タイトルに手が届かなかったところです。
彼は、今年の同番組の、将棋講座の講師をも勤めており、地味ながら、丁寧で、親切な教え方は、しろうと目にも、謙虚で好ましいものでした。
今年も決勝までに勝ち上がりましたが、プロの勝負師として、捲土重来を目指す、強い決意が表れていました。
最近の将棋は高度になりすぎていて、私のようなものには、どちらが勝つかが、最期まで、よくわかりません。勝負場面が多面的で、どう進むかが、どれが必至なのかわからなくなるのです。
双方、若い頭脳が相互に火花を散らし、執念というか、勝負への執着で、稲葉陽8段が優勝しました。
優勝インタビューで、普段は冷静で喜怒哀楽もわからないような(失礼)、彼が、何度も、目をしばたたかせているのが印象的でした。
稲葉8段おめでとうございます。
結婚されれば、ブースター効果があるということでしたが、これからも、勝負師として、命を削るような道行きでしょうが、引き続きご精進ください。
また、コロナ下で、私たちがどこにも出かけられない状況で、楽しみを分けていただきありがとうございました。
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このブログ原稿は、令和2年6月に投稿しておりますが、このたび、その後の定点観測(?) とその後のてん末の検証、を行いたいと思います。文中、「 」でくくっているのが、当時の原稿であり、また、行替えの( )でくくっているのが、現在の私の見解です。

「わが郷里、下松市(「くだまつし」と読みます。)の公立図書館も、コロナ下のもとで永く閉館し、5月末から、ようやく開館しました。しかしながら、開館営業時間は縮減されたままであり、10時半から17時半までです(現在、検索してみると、現在(R2.6.23現在)は、正常どおり(18時半まで)、営業しているようです。)。
しかしながら、利用者に対し、マスクの着用は厳しく定められています」
(R3.3.22 現在まだ変わっていない。)。

「しかし、図書館併設の公民館は、今も、依然として「コロナ特殊営業」を続けており、なかなか、煩わしいことです。
せめて、顧客サービスが優良な民間企業のように、利用者に対してマスク着用を義務づけるより、個々人に任せ、飛沫感染の注意などにとどめるべきです。
山口県は久しく感染者が出ておらず、行政として、無意味で不合理な手順はやめましょうよ、という、当方の率直な感想であります」
(R3.3.22 現在、私、まったく同じ意見です。)。

「民間企業とすれば、風評被害が極めて怖いので、自社従業員に、毎朝の厳しい健康チェックと、勤務中・勤務外の自己管理を科していることであり、また、利用者、顧客にまで、マスクの着用、ソシアル・ディスタンシングの勧奨(強制)、マスク未着用者への冷たい視線(ここはジョーク)を、厳しく課していることはよく理解できます。
それが、従業員を守るはずの企業の破綻にまでつながりかねないわけですから、その当否は別として、当該企業の恐怖や判断の根拠は理解できます」
(しかし、現在、こらえかねた事業者たちが、政府、都、県に異議申し立てをするのは当然であると思うし、被害者である大多数国民大衆の一人として、強く同感します。)。

「先に、歯医者に行った際、(歯医者の)隣の美容院で、北九州小倉区から来た客から、美容師さんに感染があり、結果的に美容院全体が休業においこまれたといっていました。
当該歯科医院も、危機意識からなのか、客が手に取る、雑誌から全部処分して、開け放った待合室の椅子以外に何もない状況です。」
「懇意(?)にしている歯医者なので、「先生はジムにもいけないね」、というと、私の担当者(当該奥さん)にとっては、それは冗談にもならない様子です。」
「後日、機会を改め、私もコロナ渦でうんざりしていたので、どうも死亡者が1,000人(R3.3.23現在はNHK統計で9000人弱)にも満たないし、ほぼ老人の死者しかないのに、毎年のウイルス感染死亡者は、二万人弱に比べて少ない数であり、すぐにでも平常に戻した方がいいじゃないか、というと、うちの先生も同じことを言っています、との回答である。」
「しかし、彼女は、平常業務に戻すとは、決して言わない。言えない。」
「ついでに、私は、もし私がコロナになって死んでも、あるいはがんになって死んでも、私の天命と思って頓着しないといったが、スルーされた(そういうものかもしれない。)わけです。」
「私の通院履歴は、ほぼ一月につき一日であり、私がその間にどのような行動をとっているか、彼女は知らない、県内に一人も発症者がいない中で、私がジムに通おうと、プールに通おうと彼女は関知しないのである。」
「私も、私の一月間の行動を彼女に話さない。妻にさえ、そんなことは言わない(時にトラブルになるが)。」
「これが高じれば、心理ゲームになる。互いに疑心暗鬼になり、今まで培ってきた相互の信頼関係を破壊する。
これも、コロナ全体主義がもたらす重大な災禍なのだ。
かつて、彼女は、率直で、自分の専門以外のことでもいろいろ思うことを語ってくれるので、私にとって好ましい人であった。
彼女に対し、ひと月のうちに、私が何をしたか、何を感じたか、しゃべれないのは、私の狭い交友範囲のうちで、とても苦痛である。」
「相互に感情のやり取り、思いやり、共感を示せない会話とは、社会生活とは、かくもつまらないものなのか」
(ここまでは、現在も、全く同様であり、彼女も私もそして彼女の夫の病院長も、コロナが死病でなく、ほぼ一握りの病者しかその対象にならないことを認識している。しかし、彼は第一義に、職員の生活を守らなければならない、ということである。したがって、彼は、ジム通いもやめ、趣味もジム通いもやめ、釣り一本で済ませている、という。しかし、サービス業の友人たちの窮状を見るにつけ、バカ政府の対応に腹立たしい限りであり、まともな生活者として、お互いに飽いたということなのだ。私も、こらえかねて、普通の日常生活に戻った友人、知り合いを知っているが、彼らは自分の行動で生じた、自由とリスクに社会的な責任を負うと、言っておりそれが、まっとうな考え方なのだ。人には、一定の範囲で、自己選択の自由があるし、幸福追求を行う自由があるのだ(私たちは、米欧人・中共人のように自己利害の絶対追及までは望まない。)。また、コロナ以前にも、私たちは、私たちの行動の結果と責任を、個々の側面で果たし、負ってきたではないか。)。

「先に、友人の図書館員と話した際、彼女が、しばらく閉館となる、というので、じゃあ、閉架式で、貸付を始めたらどうなのか、と提案したら、そんなことは無理だとの回答である。
 まともな行政職なら、それくらいのことを検討すべきではないかと、私がいうと、怒られた。
 上述した、わが下松市では、コロナ災禍のもとでも、ネット予約と、当該図書の窓口引き渡しだけはしていた。足りないが、工夫した対応ではある」(私は今もそう評価している。)。
「閑話休題、友人の彼女はコロナを憎んでおり、彼女のコロナ過剰防衛に対する意図と気持ちは、どうも、彼女は、父母と同居しており、その体調と、り患の可能性をおもんばかっているように思えた。」
「十分に理解できることである。したがって、彼女の声も大きくなる」
(しかし、そのあと、それだけでないことが判明した。純粋に、彼女はコロナに、り患することが怖いのだ。そして、自分個人の安心・安全が疎外されることが。私は甘い男なので、仕事を遂行するうえで、コロナにり患しても仕方がない、と思っていた。しかし、このたび、世の中の人は、自分の安心安全が第一義の人が、数多く、いることがよく認識できた。事実は、そうなのだ。それを彼らは「適切な配慮」とでも、言うのだろう。愚直な私には理解できない。
 釈然としないので、その後、彼女とは、たもとを分かった。「視えない関係が見え始めたとき、彼らは深く決別している」、とでもいうべきか。   あいまいにしていた、決別の時間が近づいたのも、これも、コロナ災禍の一つである。)。

「しかし、個の問題と全体の問題をはき違えてはいけない。
日本社会の全体の問題として、現在のコロナ災禍が、政府の無策を助長する、一般大衆のそれこそ「弱者を思いやる」とか、「人に嫌われることはしない」などの、安い善意や無思慮な正義によってあと押しされ、それが、強力な同調圧力や、間接強制として、国家経済の正常復帰を妨げ、若者たちの雇用を追い詰めている窮状、公立教育・医療さえ妨げとている、この現実のもとで、何の意味があるのか。
また、当該現象を危機としてとらえず、本来採るべき適正な経済・財政政策に着手せず(まず最小限として消費税の停止・事業者の粗利補償)、コロナ騒ぎを停止しない中央政府に何の価値があるのか」
(この個所も変わっていない。)。

「笑い話ではない、このままいけば、この冬のインフルエンザウイルスまで、際限なくコロナ全体主義のもとで、戒厳令は続くであろう。
その中で、日本経済はとどめをさされ、なお一層、敵国中共に食い物にされる状況となり、日本国は、あのファシスト国家の属国(経済的に、パナソニックなどいつでも国民の知的財産を売り渡す準備をしているではないか。ファシスト国家に加担する売国行為である。創業者に恥ずかしくないのか。)となり、若者たちには、絶望と無気力がまん延するであろう。老人であっても、例外はない。
 それこそ、今後の社会に、無秩序と犯罪が頻発するようになるかもしれない。
 礼儀正しく、他者への思いやりと察しを大事にする、日本国の伝統も、文化も死に絶えるかもしれない。
 そんな、暗い救いのない未来を、私たち老人は望まない。
 再度申し上げる。
 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか?」

「死ねと言っているわけではない。若さに執着しても、寿命に執着しても、あまり意味はない。私たちの多くはそのようにできている。
社会の中で普通に、できれば楽しく暮らし、運が悪ければ死んでいく。それだけのことである。
また、その方が、人性として「自然」である。
私たちは将来に希望を残して、幸福に死んでいきたい」
(ここらも全く変わっていない。)。

「うちのおば(現在82歳)に聞いてみると、彼女も在宅の一人暮らしであるが、何もかも制約されて、私もうんざりしたのは同様だが、もし、運悪く、り患したら私はいつ死んでもいいと思う、といっている(いざとなれば、お互いに多少あがくかもしれないが)。」
「それが、多くの、今世に、在宅で暮らす、老人たちのそれが平常時の良識(コモンセンス)であり、本音でありはしないか」
 (在宅で生きているおばは、毎日公民館活動やら、畑仕事で忙しい。私は、せめてもと思い、彼女を、温泉にでもと、連れていく。一人暮らしの、彼女こそ、自分の残年数を数えているに違いない。年をとり、家族とだんだんと疎遠になり、しゃばで生きていくのは大変だろう。しかし、なじんだ周囲との関係性の中で、心の満足はあるに違いない。BSで宣伝する、関節痛を和らげる「良心○○錠」を飲みながら、日々を過ごしている。しかし、とりたてて、持病もないので、前期高齢者の私も、遠慮なく彼女のところに行き来している。)。

「つくづく、私たちは、3.11東日本大震災の教訓を、早々と忘れていたのではないかと思われる。
 当時、り災、被災した人がまず必要であったのは、それぞれが、速やかに自立した日常生活に復帰することを望み、それを支援することが第一義 だった。
 しかし、中央政府による、その対応に、時間がかかればかかるほど、被災者は日々に生活に困窮し、苦しみ、復興と、被災者の速やかな社会復帰に大きな禍根を残した。
 なぜあの時に、組織的な早期支援ができなかったのか、というのは、政府・地方・市民たちの中の、それぞれの局面で、心ある関係者大衆の反省ではなかったかと思う(自然災害が、パヨクによって、反原発運動にすり替えられたのは、非常にくやしい思いがする。)。
 大規模な自然災害に対して、「がんばろう日本」だけでは済まなかったのである。
 あの時は、2万人弱の犠牲者を出したが、この度の犠牲者は、コロナが直接の引き金になったかわからないところで、まだ、1,000人(前述したように現在はNHK統計で9000人弱、この結果を私は怪しいものだと思っている。)に達していない。
 数の問題ではないというかもしれないが、社会全体に与える損害と、今後の私たちの孫子(まごこ)たちに与える影響は、この度のコロナ災禍の方がもっと大きく、国民に甚大な被害を与えるものかもしれない」
(ここらも全く変わっていない。)。

(昨年末から、私自身、体調を崩して、おとなしく過ごしていた。これも、コロナのせいだといいたい。旅行もせず、県外に出ることもなかった。
 そのうち、(生きていく)意欲がなえるので、現在は、時間があれば、おばと一緒に、県内の観光所や、いろいろな、景光明媚な個所を何度も歩く。
 私は、祖父母と長く過ごす時間が多かったので、末の娘の彼女を連れて歩けば、祖母を案内しているような気持になる。
 彼女が言うには、コロナによって、よりよき日本人の伝統がおわったと、思えるという。見ず知らずの人に対する、あるいは知り人に対する、皆の扱いが、また、自分自身の対応すら、極めて悪くなった、という。
 私の感覚も、同様であり、コロナ以後、私自身、他人に対して、粗略にふるまっているように思えてならない。
 思いやりと察しの文化は潰えてしまうのか。)

「わが市では、5月下旬にようやく学校が再開された。それぞれの学校で、学ぶ権利、教える権利を奪われた、日常生活を送る権利をうばわれた、生徒たちや、心ある教師たちの、苦衷と無念を私は思う。
 小学校の校庭のそばを、車で通るたび、楽しく遊んでいる生徒たちが、熱い中で、友達ともみ合いながら遊びつつ、マスクを強いられるのは、本当にかわいそうである。
 それを強制せざるを得ない、教職員たちもお気の毒なことである。」
「それこそ、私たちは、その社会生活を支障なく過ごせることをずっと、かれこれ半年間の間も、コロナファシズムによって阻害されてきた。
言ってしまえば、中央政府がバカでも、地方自治体までバカである必要はない。
 かつて、地方自治体の、能力ある指導者は、過日、国を承服させる「正しい」選択を行ったことも記憶にある。
 地方からでも、今すぐ、コロナ規制をやめましょうよ。
 やればできると思っています。」
(これは、まったくそのとおりである、と今も思う。)

(あれから、一年近く過ぎ去ったが、国内の状況はほとんど変わっていない、と思える。
 「誰が責任をとるのだ」という、安い責任追及と、日々いけにえを求める、恥知らずなパヨクマスコミに使そうされ、ほぼ、死病に至らない(パ ンデミックではない)コロナの現実がありながら、大多数国民は、つまらない政治、世論に惑い振り回され、混乱するばかりである。
 こうなれば、中共による、コロナ陰謀説(欧米人を駆除するためのウイルステロ)にも、根拠があるように思われてくる。中共の、世界規模の陰謀を見てみれば、信ぴょう性も増すというものだ。)

(私事ながら、私も、現在、節制をしながら、体調をととのえつつあり、残年数を数える立場ではあるが、正しい義のもとに、今後とも戦っていきたい。)

 長いこと、ブログ更新を怠ったことをお詫びします。

大瀧詠一の名曲、松任谷由美の名曲から、罵倒に、妄念を膨らます。

2021-01-31 19:28:23 | 時事・風俗・情況

 昨年末、Go to travel の最後で、松江に旅行した時、なじみの(?) 和菓子屋の「一力堂」によりました。松平不味公以来の菓子のメッカ松江ですが、文化と伝統は、まことに心地よいものです。毎度、店の商品を順繰りに、ふるまっていただきますが、伝統の味といい、松江城といい、掘割・宍道湖といい、水の都、松江は、とても好ましいところです。
 わが夫婦の合意で、今は取りやめておりますが、一日でも早く旅行がしたい、本音です。
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 先日から、大瀧詠一氏の復刻ベストアルバム(「Each Time」というタイトルです。 )を聴くことがあり、なつかしいことは確かなのであるが、そこはそれ、若い時とは違う感興もあり、今更ながら、いいうただなあ、と思いました。
当然、松本隆作詞、大瀧詠一作曲のゴールデンコンビです。

「バチュラー・ガール」という曲で、これは稲垣潤一のカバー版が一番ヒットしたのではないか、とは思いますが、「はっぴいえんど」のベストボーカリスト、大瀧詠一がうたうと、とても印象的で、情感あふれ、私にはなじみます。

 つくられた時期が、「Tシャツに口紅」、「熱き心に」と同時期の曲であり、他の歌手たちに、盛んに楽曲提供をしていた時期なのですね。
 最初の「雨はこわれたピアノさ・・」という、激しい表明が、何度となく、最初から最後まで続きます。
 天つく雨のように激しい雨と、男の、強い執着と愛憎のほとばしりの暗喩なのでしょう。
 
 当時、気になったので、うちの英会話の先生に聞いたところ、「バチュラー」の意味を、いわゆるコノテーションを、独身でハンサムなお金持ち、パーティーをにぎやかす男、という意味であると教えられたことでもありました(当然アメリカ英語ですが、いわゆる「美味しい男」ということですね。)。
ということであれば、「バチュラー・ガール」といえば、形容矛盾(バチュラー自体の女性形はあるようです。)のようなところですが、そこは、松本隆と、大瀧詠一のコンビの歌詞や楽曲に深みがあります。
この歌は、恋の歌として、定番の、失恋の歌ですが、第三連の、
「 君が欲しいとつぶやくだけで  
すべてなくした 
でも言わずにはいられなかった 」
というくだりで、「うーん」とうなってしまいました。
「いよっ、男の子」、というわけですが、別れの予感と、それにあらがう男の思い込み(妄想)、・自己関係づけが、いわゆる「対幻想」がまことによく理解できます。
「相手が悪いよね」というわけで、「バチュラー・ガール」とは「ともだちのままならいいけどね」という、男と女の関係までを望まない、それこそ、美味しそうな、しかし、つれない女の暗喩なのかもしれません。
しかし、男はカタルシスだろうとどうだろうと周囲をも構わず(ここら辺が女とちょっと違う。)、破滅も構わず、どうしても「告白」してしまうのですね、大変よくわかります。
すねに傷持つ男どもの一人とすれば、とてもいい歌です。

かのゴールデンコンビには、少しシニカルなセリフで、「一言言ったその日から恋の花散ることもある」(「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba 物語」、「A Long Vacation」アルバムに収録)も、あります。
それも、また、真理です。

もう一つ、彼らの作品には、「少しだけやさしくしてあげる」という曲があります。
あなたが、寂しいとき、落ち込んだとき、少しだけやさしくしてあげる、という、女の子が描くストーリーですが、同時に、それは、「すこしだけ冷たくしてあげる」という、裏腹のトリックです。
男と女は、生涯、駆け引き、なんですね。
それこそ、女性の、気持ちというか、観念(なければ感情)や振る舞いを見事に活写していませんか。
それが、いわゆる上から目線であることは確かですが、そこは性差のたわみみたいなもので、それでもいいや、と男どもに思わせるところがあります。
おさまることはおさまるのです。
この曲を聞くと、悲痛な歌ながら、最後に、思わず、ニヤッとしてしまいます。

最近、よく聞いているのが、秦基博がカバーした、松任谷由美の、「晩夏」という曲です。
つまらないことはよく覚えていますが、この曲は、NHKの午後10時前に放映された、「幻のぶどう園」というドラマの主題歌であり、巧みな歌詞と、独特な雰囲気のある曲です。
アルバムとすれば、彼女の「14番目の月」に入っている曲だそうで、確か、彼女の待婚期間(?) に出されたアルバムだったと思います。

これは名曲なのに、誰かカバーしないのかな、と思っていたら、秦基博がうたっていました。
「 往く夏に 名残る暑さは 
夕焼けを 吸って燃え立つ葉鶏頭 」と、
初秋の、景物が描写され、唐突に、
「 何もかも 捨てたい 恋があったのに 
不安な夢もあったのに 」という、心情が読み込まれ、時間の経過がうたわれ、また、叙景に戻ります。
花や、景色をうたい、連の最期の、初秋の暮れの空の描写が、
「 空色は水色に 茜は紅に 」と、あるいは、
「 藍色は群青に 薄暮は紫に 」と、つかの間の推移とともに映る、夕焼けの陽光のグラデーションの美しさを、王朝時代の、大和歌のように、巧みに歌われます。
殊に、私には、「 銀河の降りるグランドに こどもの声は 犬の名を 繰り返し 」という、挿入される叙景は、とてもすごいものではないか、と思われます。
いかにもありそうな光景に、聞くものに、秋の訪れと寂寥を想像させる彼女の技量は素晴らしいものですね。
 歌詞の歌詞の孫引きは著作権コードに触れるらしいので(私のブログも現在公開停止になっている。)、多くは引用できませんが、私には、全編書き抜いて、壁に貼りたいような、名作だと思えます。

 それこそ、抑制した表現で、女の恋をうたうわけですが、埋め火のように隠された気持ちが、季節の変わり目に際し、静かな諦観とともに、うたわれるわけです。
 これは、確かに、ポップスであり、恋歌でもあり、穏やかで、印象的な曲です。


 どうです、男と女の恋情など、これほどの差異があり、それぞれ豊かで、「人間」を感動させるのに、それぞれの性差を尊重せず否定する「男女共同参画」など、つまらない運動だとは思いませんか?

「相互の差異」こそが価値である、と、敬すべき政治学者、ハンナ・アーレントも言っていました。
 無思考の若者たちが、大人の判断(?) で、学校でのミスコンを止めたり(オニババ化した醜女たちが安い正義に基づき徒党となって責めるからなのか。)、家事の共同分担の推進とか、バカな話に、誰も疑問を持たないのか?

 ハンナ・アーレントのように腰の据わった女性思想家が、再来し、市民社会の差別性、男女の言われのない、賃金差別を容認している社会を、「男女共同参画」の前提に告発しないものかと、私は願っている(それは当然現在の労働者の貧困と中間層の没落を認識したうえでの話である。)。
 それ以前に、彼女が、現在の世界史レベルでの、諸悪の根源、グローバリズムを告発するのは前提の話としてである。

 知り合いに聞くところによれば、私の勤務する市の高校では、昔、「ミスター○○高」という催しがあったそうである。
 「ミスコン」禁止への、反発・皮肉であったかもしれないが、その審査基準が、体力、知力、容貌を競うのかどうなのか、と、どんな実態であったか、個人的に興味があるが、こんなコンテストは、たぶん男ですら磨くものである(女を磨くのは当然である。)。
 人は競うべき存在である。

 「ミスター・コン」の催しなど、「ル・サンチマン」を抱く男どもが出てくるかもしれないが、人性において、劣等感に悩むのも、それなりに意味がある、わけである。
 それを克服するのも、男の本質であるわけでしょう。
 まあ、ミスター慶応事件のように、思いあがったろくでなしが、出てこないことはないが。

 人は、美しいもの、優れたものに惹かれるのが本性である。
 それだけではないかもしれないが、それを否定するは間違っている。
 それを、矮小な、バイアスのかかった、理念やイデオロギーで縛り、不健康なルサンチマンのもとで、徒党で貶める存在は、すなわち私の敵だ、と思っているわけです。

「共同幻想論」先崎彰容(NHK「100分で名著」)を観たことについて(敵はどこなのか?)

2020-11-15 19:05:55 | 時事・風俗・情況
 大学のサークルの文集です。
 よくも悪くも政治的な時代でありました。
 学生時代、政治党派を脱退して以来、政治的な発言を辞めたという糸井重里が、「下駄ばきの学生が機動隊に石を投げる姿にあこがれ、東京の大学に行った」、と、昔日、月間プレイボーイ誌のインタビューに答えていたことを、思い出しました。
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  若者(何を以て若者かというのは難しい。当面、生理的に私より若いものとして考える。)と会話する機会は極めて少ない。
 また、私にとっても、彼にとっても「意味のある」(互酬がある)話をするのはもっと難しい。

 そうでなくとも、コロナ戒厳令下で、そんなチャンスはますます限られてしまう。
 まさしく、現在の私たちは、社会的な関係(対他人間的な交流)の貧困なのだ。
 たとえていえば、現在の私たちは、監獄(独房)の中に収監されているように思える。
人に会ったり、自由に移動したり、好きなものを食べたり、そして自分に興味があることを追求したり、すなわち精神活動の絶対的恣意性の疎外であり、そんなものがないと、それこそ、娑婆(しゃば)で生きている甲斐がない。
 これは、私たちが社会生活において、「自由の相互承認」(自己の自由を確保するにつき他者の自由を容認する。ヘーゲルに由来する。)からも疎外されている、といっても間違いではないと思う。

 どうもこれは、強い「生への衝動」を持つ若者たちにとっては耐えがたい状況ではないのか?

 「大学に行っても授業はない、友人も作れない」という、ネットでひろった大学の新入生の独白もあった。
 人性で最も多感な時期に周囲から刺激も、あたらしいものの息吹も、刺激も感じ取れない環境とは、自分の同時期を思い出し、比較しても、本当にお気の毒だと思う。
 「勉強は自分でするものだ」などと、おざなりなことを言っても仕方がない。
 そんな「偉そうなことを言うなよ、自分のインチキ学生時代を考えてみろよ」、と思うばかりである。

 竹田青嗣氏が述懐していたが、彼が、兄弟の中で初めて大学に進学したとき(私も兄弟のうちひとりだけ大学に行った。)に、在日朝鮮人の地位向上運動のオルグを受けたが、当時、文学・思想とかに興味があり、結局、在日の運動にはいかなかった、思い返せばそれ(人性に重要な選択の機会・契機)は非常に恣意的・偶然なものであった、と。
 あと付けになってから、自己にとって不可避・必然の出会いであったと思ったとしても、個々の人として、「人性」の大きな出会いとはそんなものである。
 この本に由来する、吉本隆明の著書に、「自己にとっての必然とは、自己によって強いられた恣意の別名ではないか」というエピグラフのようなものがあり、私にとって「不可避」であったと考えたとしても、なるほど、実際はそういうものであるかもしれない。
 亡橋本治が述べていたが、彼の学生時代、東大紛争の際に、「吉本隆明はチャンピオンだった」ということであったが、私の学生時代も、まだまだ、その存在感と、権威(彼は嫌ったが)は、健在だった。
 しかしながら、当該紛争の当事者(学生側に限定する。)は、実年齢は70歳を超えたことだろう。いつの間にか、反発される側の世代になってしまった。

私は、1970年代、退潮した政治運動の最後(?) に居合わせたものである。
 当時、学生たちの大勢は「反帝・反スタ(反毛沢東はまだ明確でなかった。バカな左翼神話が生きていた。)」の新左翼という党派が主流だったが、当該参加者たちに反発を覚え、そちらにはいかなかった。
 結局のところ、彼らの身の代わりの速さ(村上春樹の「ノルウエイの森」に出てくる。)と、前言を翻すその臆面のなさ(なんと恥知らずなことか)、そして、彼らのその後の身の処し方、現実政治との野合の様、さんざん見せた醜いすがたに失望した。

 そして、その後の世界状況が、高度資本主義を実現した国家においても、相対安定を手に入れた一定層も、階級矛盾に絶望したはずの窮民(?) たちが、誰も政治革命など望まないことを看て、パヨクを転向した。
 それも、そんなものである(ずいぶんないい草だが、他に言いようがない。いまだにパヨクであれば、彼らを憫笑するばかりである。)。

 若気の至りに触れるが、「暗いやつ」と言われた若いかりし頃(?) (そんな人間は一定数いる。)、 私たちの自身の問題意識や、生きにくいという実感は、それこそ「明るい」と思える多数者の皆が主張する感覚(観念)との埋めがたいと思われるかい離は、やっぱり存在した。
 当時、それは、抱え込む、個々の責任だけに帰さないはずと思ったはずである。
 ああ、青春(あおい、かたい、しぶい、という時代である。)

 その辺の個我意識、他者との疎隔意識や、孤立意識を、国家や社会に向けていく契機は、吉本隆明に形を与えてもらったと思う(「マチュー書試論」など、先日、再読して今も気持ちが震えた。)。

 「共同幻想」の現象面(?) が悪い、すなわち、社会の構造の悪い部分を、あらゆる矛盾点を、外部に、私たち個々の責任に押し付け恥じない、国家・政府が究極的に悪いはずであると思った。
 「敵は制度である」ではないが、制度の改変は、政治的な改革(革命)によって、悪しき共同幻想は消滅し、ほぼ多くの問題は、解決するはずと思ったのである。

 その後、1970年代から80年代の好景気の時代に、「食うだけの問題」は、景気の隆盛と、大多数の経済的な地位の向上で可能かと思った。

 その「食うだけの問題が解決される」中で、「大衆がいやおうなしに知的に上昇し」、自己中心主義、個人主義、に陥ったことも確かであるかもしれない。世の中は、いいことばかりではないのである。

 しかし、その後の世界史の激動に対し、パヨク評論家・文化人たちの、怠惰と不見識、サヨク偏向性は、老いも若きも、80年代の「反核運動」、90年代の「湾岸戦争反対」など、節目ごとに、パヨク文化人の甘さと、考えのなさも、示してくれた(心情パヨクのなれの果てである。)。
 それに対して、サヨクのダメさかげんという、補助線を引いてくれたのは、やはり、吉本隆明だったが。
 いずれにせよ、「バカは死んでも治らない」のである。

 その中で、私たちは、確かに、吉本に教わった、スターリニズムとの戦い方を手本にした戦いに参加していた、まだ、吉本隆明も泰然としていた。
 このたびの、このテキストも、その大きな達成を、背後に隠している。

 とても粗雑な話で恐縮だが、「共同幻想論」で吉本が試みたのは、戦中派としての自己の過酷な直接体験から始まったものであり、同胞のためにも、これだけは主張し、追及すべき、強い一念であったろう。
 それこそ、それを明らかにしないと、大正二桁世代の、三人に一人は死んだという、同胞の声に応えることができない。厳しい、彼の直接体験は、私たちその子の世代として、当然、心得おくことではある。

 それでは、世代を超え、今の私たちが果たすべき「仕事」とは何なのか?

 その後、世界レベルの資本主義が出現しても内部矛盾にこらえかねた窮民革命など起こらず、2000年代になると、あにはからんや、グローバリズムが世界を席巻した。
 高度な経済権力が、TPP条約など、個々の国民国家を超え他国民を支配の枠で縛り、個々の国家まで支配下に置こうとすると話が違ってくる。
 それが、相性のよい、パヨク覇権・全体主義国家と共存共栄を図ろうとしている。

 現在、私たちが味わっている、無力感からくる「絶望」のようなものは、当時より、もっと根深く底が見えない。
 要は、敵は誰なんか、いかに戦おうか、見えにくいし、戦いにくいのである。「視えない関係」も、ことさら視えにくくなっている。
 パヨクも、環境ファシズムや、人権ファシズムや、形を変え、巧妙化する。
 愚痴になるかもしれないが、視えるようでなければ、抵抗するあてが難しい。

 このたびのこのテキストの著者、先崎氏は、1999年大学を卒業したということであり、すでに「政治の時代」は終了して久しい時期である。
 そのころとは、小泉構造・規制緩和改革が功を奏し、景気が低迷し、国内産業が疲弊しつつ、人材派遣業が隆盛となり、学生たちのフルタイム職への就職が困難になった時期であったろうか。
 やはり、先崎氏も、日本経済の低迷・退潮期で、割を食った世代かもしれない。

 このテキストで、まず著者は、年表を用意しており、戦中派の典型ともいうべき、吉本隆明と、自分や読者(視聴者)との時間的な距離を埋めようとする。適切な配慮であると思う。
 おそらく、彼にとって戦中派の体験とは、どうも祖父母の体験ではないかと思えるわけであり、それを思えば、現在の読者(視聴者)に、切実な問題として理解するということは難しいことであろう。

 私も、自分のブログを作る際に、年表を作成してみた。それは、自分ながら、興味深いものであった。友人達にも頼んですり合わせをしてみたが、それも個々に差異があって興味深かった。
 それこそ「「記憶」とは自己の関係のパターンではないのか」(吉本隆明)というのは、あながち嘘ではない。

 彼の、読書体験として、3.11の自分自身の被災時に、吉本のコメントを追い求め、切実な体験として読み解いた、とのコメントがあったが、ここらは、私もご同輩である。
 当時、自分に能う限り、現状はどうなっているのか、何か優れた考察はないのか、敬すべき思想家や評論家のコメントを、必死で追い求めたような気がする。
 そのうちでも、天災と原発事故に対する吉本隆明のコメント(まず、科学の不可逆性(ひとたび人類が開放した素粒子をもとに戻すことはできない)を説き、「これから私たちは暗い夜道をとぼとぼと歩かなくてはならない(先人に学ぶこともかなわず自分たち以外に頼るものも何もない、しかし進んでいかなくてはならないという比喩)」という優れた見識は、今も色あせた、コメントではない。
 その後も、脱原発とか、原発の操業停止とか、天災を原発事故にすり替えた、偏向新聞、恥知らずパヨクの朝日、毎日、東京新聞などの詐術と、偏向を私たちは決して許さない。

 テキストの最初に、著者の現在の「状況」の認識について総括があったが、現代の私たちは、かってなかったような、社会的紐帯や、帰属する場所を失い、万人が万人の自己利害のために闘争し、個々が、砂粒のような存在になり下がったという認識は優れたものである。
 それこそ、私たちは、皆、日々、行き場のない無力感と疎外感とともに生きている。現在では、それは思春期の若者たちだけでない。押しなべて、どの世代でも、同様に受感しているものだ。

 現在、私たちが、一様に感じる、出自が明らかでない、疎外感、いや社会からや、対人的な疎隔感(さえぎられているという実感)、どうしようもない孤独感や、ついにはどうも家族の内でさえ居場所がないような深い孤立感がまん延しているからである。

 しかし、今、本当に「共同幻想」は、押しなべて無化する必要があり、観念(共同幻想)としてではなく、現実的にも、「国家」を解体していくことが必要なのであろうか?

 個々の国民国家は、世界規模で展開する、高度金融資本主義、社会主義ファシズムにより、グローバリズムの名のもとに、多大な被害を受けつつあるからである。
 これはグローバリズムという寡占資本主義により行われる、自国民のみならず、他国及び他国民の収奪と、非常に相性がいい、すなわち、一握りの国家や支配層によって、どうも、全世界が分割・統治されるような現状になっている。

 そこまでは、理解できる道行きであるが、それに対して、どう抗していくのかという問題になる。
 あたかも、砂粒のような存在の私たちは、グローバリズムの嵐の中で、翻弄される常態にある。
 その罪悪に無自覚で、自国民の経済的利害も、その安心安全すら守れるかどうかわからないふがいない日本国政府に対して、国民の権利として、自国民の利害と、安心・安全の実現に奮闘せよと、活を入れるしかない。

 要は、国民国家の政治家たちや、官僚たちが、国民及び国民の利益を守らないと、いつでも、安心安全どころか、経済的にも、殊に中共のような覇権全体主義国家に、踏みにじられるということである。それが中共のみならず、アメリカ、ロシアと立場を超えても同様なところである。
 今も昔も、餓狼のような大国に、弱い国家は食い物にされる。
 もし、グローバリズムに功績があるとすれば、その実態を明確にしたのが、唯一であるかも知れない。

 その辺りは、著者にも同様の宿題であって、私たちは、共同幻想であっても、必要なものは、必要であるという、立ち位置にある。
 世界中で、近代国家の体制も整わない国はいくつもあることである。南鮮も中共もその類である。
 そうなれば、自国防衛も、経済防衛も、自国で行えない国家は、悲惨な運命となる。

 私たちの仕事とは、「現在」において、当時より更新された「共同幻想論」、私流に言わせてもらえば、サヨク幻想の消滅と、私たちに対立し、桎梏(しっこく)の形で現れるしかない国家及びそれを支える旧来のイデオロギーを無効化することである。
 具体的には、私たち及び私たちの利害に直接対立することが少ない、よりよい良質な国民国家を実現することである。
 そのためには、個々の営為は重要である。私たちは私たちの職責を果たさなければならないし、国民国家の敵になるものには、敵は敵として戦わなくてはならない。それは、まさしく、現在の私たちの仕事(責任)ではないのではないのか。

 私たちは、グローバリゼーションによって日々痛めつけられ、現在の日本国ですら、個人の力がいかに無力か、日々思い知らされている状況にある。

 3.11後から、現在の状況はさらに深刻である、当時の、「がんばろう日本」のキャンペーンを経ながらも、このたびのコロナ騒ぎで、震災という大きな痛みを持った「共通体験」を経た以降でも、予測不可能なことが起きれば、人はいかようにも分断される、ということが、実感された。
 案の定、「(コロナに対して)がんばろう日本」キャンペーンはなかなか盛り上がらない。

 折に触れ、煙たがられるかもしれないが、地道に味方を増やしていくしかない。
 反日パヨク、売国奴たちが立ちふさがるかもしれないが、機会あるごとに戦っていくしかない。
 消耗戦であり、こちらも研鑽を続けなければ敗北するしかないが、そうしていくしか道はない。

 「アメリカン、ファースト」ならず、「ジャパニーズ、ファースト」を、護持してもらうしかない。
 「男女共同参画」も、LGBT運動も、グローバリズムが仕掛けた、危険な戦略である。

 少なくとも、私たちは、歴史的な誤びゅうと、サヨクの破綻を見てきた。
 私たちの世代とすれば、60年代、70年代で鍛えられた、サヨクの洗礼で鍛えられた、適切なナショナリズムで、戦っていくしかない。

 その経路がないと、なおさら、現在の若者たちに共感が得られるとも思えない。

 このたび、たまたま、先に、相互に「意味のある」話ができる友人に出会った。
 社会科学系の素養や、興味がある友人に出会えるのは僥倖(ぎょうこう)である。
 彼が聞くので、いろいろ昔語りができる。
 老人にとってはとてもうれしい状況だが、今後、自分の子・孫や、彼らの子弟に対して、現在の、覇権国家、反日国家、グローバリズム資本などによって、極めて、厳しい状況に追い込まれていることは間違いない。
 もう少し、「敵」と、それこそ、不可避的に戦っていかなくてはならない。

 思えば、昔は楽だった。反帝、反スタ、反中共と、自国政府の反動政策と戦うと、表明すればよかったから。
 その後といえば、「自己」に愧じない「まともな」人であれば、自らの生活で苦闘し思考し、日々、戦ってきたはずである。

 しかしながら、そんな情況はさらに厳しい時代になった。
 理念も大義も成り立ちにくい、まさに生きにくい状況で、私たちは生きていかなくてはならない。

「政治の幅は常に生活の幅ほど広くない」、「大衆の原像を繰り込め」、世代の差を超えて、このような言葉を、自己で追及していく必要がありはしないか。
 この辺りは、著者の先崎彰容氏と共通する部分があるかもしれない。

 もと、文学少年とすれば、そう思うのである。
  (昔日のサークルのレジュメのようであるのは自覚している。まあ、そんなものである。)