わが祖父は、父方、母方と二人とも全くタイプの違った人でした。共通するのは、明治生まれであることであり、不出来な孫を叱ることがすくなかったことです。
母方の祖父は、へき地の決して豊かでない農家から、同じく山奥の村部の運送業者に婿養子に入り、家付きの娘のそばで、家業を継ぎながら養父母に孝養を尽くしたらしいことです。背が高く、頑丈で体が大きく、ほおぼねの張ったいかつい顔をしていました。
当時の私とすれば、母親の盆暮れの里帰りに連れられ、母親になだめすかされ、山あいの狭い砂利道を、一時間近く(最初は)ボンネットバスに揺られ、車酔いになりそうになりながら、通っていました。こどもの頃は、なぜ、こんなつらい無理をして、母の実家に帰郷しなければならないかといつも思っていましたが、今(私は還暦)になったらよくわかります。当時の社会常識では、兄弟姉妹という拡大家族としても、遠く離れても相互の安否を気遣い、思いやることを繰り返し、気に留めていることは、家族として必要なことだったのですね。おそらく、当時(昭和30年代)、多くの家族において、ごく普通のことであったように思いいたります。実家については、いとこ同士で、年齢、実力の順序で、仲よく、遊んでもらったり、遊んでやったりしていました。
私の母は、男3人、女5人の8人家族で、へき地の例にもれず、都会に働きに出たり、嫁入ったりの叔父・叔母が多かったのですが、いずれも仲が良く、ことに女姉妹は、いずれも頭がよく口が達者で、こども心に感嘆(?) していました。両親の方針なのか、当時では珍しく、彼女たちは、いずれも女学校(その後一部「新制高校」)へ進学させてもらっており、田舎であるので、学校寮に入寮か、学校近くに下宿をさせても
らうなど、子供たちに対し、当該教育費用は惜しまなかったようです。
前から思っていましたが、彼女たちの口達者は、当然厳しい社会生活を経るうちに醸成された訳でしょうが、賢い、やり手の家付き娘の祖母に由来するものではなかったか、と今になって思いいたります。母の姉妹は、右肩上がりの経済状態の時代でしたが、皆、気前よく、お年玉、こずかいをはずんでくれ、私はしばらくお金持ちとなり、ほくほくの思いで、近くの駄菓子屋で豪遊できました。当該実家の所在は、わが家より少し高地にあり、我が家近辺にはいないヒグラシが、夕暮れ時にカナカナとさみしげに鳴き、蝉取りが趣味の私としても、なかなかこどもの手にはかからなかったとはいえ、私の本来の地元とは違った自然がありました。
母の実家は、流通業者(?) として、副業に精米業などもやっておりました。納屋自体が、精米装置であるような建物で、機械装置の間を米がわたるそのすさまじい音にすくんだ思い出があります。山間の集落とすれば、小さいながら、青果業、酒屋、雑貨屋、薬屋、農協などの金融機関など、ひととおりそろっており、例の角形ガラスケース完備の駄菓子屋までありました(前述のように恩恵を被りました。)。
祖父の容貌は、いわゆる馬面で、色が黒く、丸顔・色白を願う姉妹たちの怨嗟の的でした(よくわかります)。寡黙で控えめな人で、家業から引退したあと、農業と、肉用牛の飼育に専念していました。毎晩の少量の晩酌を楽しみにしており、私が長ずるにつれ、猪口の酒をすすめつつ、遠慮がちに近況をたずねながら、その答えにうなずき満足しているようでした。
本人の言いようでは、牛の世話が道楽だ、と言っていましたが、農作業の合間に、常時、二、三頭は飼っており、くらい牛舎の中で、大きな牛がうごめき、こども心に怖いようでした。草食の動物であり、いずれもまつ毛が長く、目の大きい黒牛で、おそるおそる差し出した草をゆっくりと食む姿はかわいらしいようでした。祖父は、当時、その牛を出荷する時が、一番悲しい、と言っていました。牛どもの飼料のために、あぜや草刈り場の草刈りが不自由になるにつれ、いつの間にか牛の飼育もやめていってしまいました。
祖母は、なかなか孫に甘いだけの人ではありませんでしたが、祖父と一緒に、大家族を制御・運営しておりました。
盆・暮れの、兄弟の寄り合いで、達者な姉妹たちの口撃の十字砲火の喧騒の中で、酒を飲むだけしかないような男兄弟は圧倒され、それでも、それぞれの配偶者を含め(うちの父親は母の里帰りに同行することを明らかに嫌がっていましたが)当該宴会(茶会)は深夜まで続きましたが、もっとも鮮烈な記憶は、部屋の中央に掘りごたつ(やぐら炬燵(こたつ)といっていました。)を切り、実際にこたつの底辺に、炭を埋けたり、練炭(いわゆる配偶者「不完全燃焼殺人事件」に使われたアレです。)を燃やしたりの、直接暖房でありましたが、当該掘りこたつを中心に、放射線状に布団をしき、皆で寝ていました。木組みのやぐらこたつ自体と、もみ殻枕の独特のにおいと、重い、硬い布団のかびくさい臭いを、よく覚えています。
祖父母にも、時代やそれぞれの人性において疾風怒濤の時代はあったでしょうが、家業をまもり、家業をたたみ、商売人としても、また、親としても様々なこどもたちの相談にも乗り、少なくとも、商売人としては、有能な人たちであったと思われます。
我が家の母は、上から二番目の二女であり、兄弟をおもんばかり、やむを得ず、言われるままに兄弟の多い家の長男に嫁入った、と愚痴をいっていましたが、その後、家族内のヘゲモニーを握った後も、愚痴の種は尽きなかったようです。義理の母も含め、まだ働きに行く場所もなく(当時、働く女性は社会的に不遇であると同情されていた要素もあります。)、終日、姑や小姑と顏を付き合わせ、当時の農村にはいくらもあったような話であったようです。後年、わが母は、フルタイムの仕事を見つけ、末子であった私は、内孫として、家を守る祖父母との関係がますます濃くなっていきました。
母の実家と我が家との、家同士の行き来も密であり、叔母などの話によると、農繁期の相互の手伝いや、子守などに動員されたということです。が、我が家の祖父は、実務的な素養がない人で、母の実家から色々助言や協力もしてもらったようです。
先日、母方の早世した長男から、二番目の順序として、わが母が物故しましたが、遠くに住んでいる高齢の長女を含め、存命の母の兄弟が全員集合したのは壮観でした。死ぬまで口が達者で元気な人でしたから、むしろ明るい雰囲気の中で葬儀は行われたところです。いみじくも、私と同級生である当日の導師(僧侶)が、母方の親戚一同を見て「みんな、同じ顔だねー」と感に堪えたように言っておりました。
誰かの話ではないですが、兄弟姉妹の関係性は、空間的な拡大にも、我々いとこ同士を含めれば、時間的な拡大にも耐えるものですね、それが私たちの代で絶えそうなのは申し訳ないところですが、それなりに、私自身と、叔父、叔母との行き来は続いています。もし、統一した家業があれば、「部族的な拡大」(笑い)にも耐えうるようにも思われます。
いずれにせよ、大家族を運営し、世間とつきあい、家業に決着をつけたのは、明治人である、祖父母の大きな功績であるように思います。孫への配慮も忘れず、個人的に及び難いと今でも思えます。
こんな感興を、後日、思いがけず、私たちに地下水脈のように呼び起こすのが、父祖や年長者の偉さなんでしょうね。
母方の祖父は、へき地の決して豊かでない農家から、同じく山奥の村部の運送業者に婿養子に入り、家付きの娘のそばで、家業を継ぎながら養父母に孝養を尽くしたらしいことです。背が高く、頑丈で体が大きく、ほおぼねの張ったいかつい顔をしていました。
当時の私とすれば、母親の盆暮れの里帰りに連れられ、母親になだめすかされ、山あいの狭い砂利道を、一時間近く(最初は)ボンネットバスに揺られ、車酔いになりそうになりながら、通っていました。こどもの頃は、なぜ、こんなつらい無理をして、母の実家に帰郷しなければならないかといつも思っていましたが、今(私は還暦)になったらよくわかります。当時の社会常識では、兄弟姉妹という拡大家族としても、遠く離れても相互の安否を気遣い、思いやることを繰り返し、気に留めていることは、家族として必要なことだったのですね。おそらく、当時(昭和30年代)、多くの家族において、ごく普通のことであったように思いいたります。実家については、いとこ同士で、年齢、実力の順序で、仲よく、遊んでもらったり、遊んでやったりしていました。
私の母は、男3人、女5人の8人家族で、へき地の例にもれず、都会に働きに出たり、嫁入ったりの叔父・叔母が多かったのですが、いずれも仲が良く、ことに女姉妹は、いずれも頭がよく口が達者で、こども心に感嘆(?) していました。両親の方針なのか、当時では珍しく、彼女たちは、いずれも女学校(その後一部「新制高校」)へ進学させてもらっており、田舎であるので、学校寮に入寮か、学校近くに下宿をさせても
らうなど、子供たちに対し、当該教育費用は惜しまなかったようです。
前から思っていましたが、彼女たちの口達者は、当然厳しい社会生活を経るうちに醸成された訳でしょうが、賢い、やり手の家付き娘の祖母に由来するものではなかったか、と今になって思いいたります。母の姉妹は、右肩上がりの経済状態の時代でしたが、皆、気前よく、お年玉、こずかいをはずんでくれ、私はしばらくお金持ちとなり、ほくほくの思いで、近くの駄菓子屋で豪遊できました。当該実家の所在は、わが家より少し高地にあり、我が家近辺にはいないヒグラシが、夕暮れ時にカナカナとさみしげに鳴き、蝉取りが趣味の私としても、なかなかこどもの手にはかからなかったとはいえ、私の本来の地元とは違った自然がありました。
母の実家は、流通業者(?) として、副業に精米業などもやっておりました。納屋自体が、精米装置であるような建物で、機械装置の間を米がわたるそのすさまじい音にすくんだ思い出があります。山間の集落とすれば、小さいながら、青果業、酒屋、雑貨屋、薬屋、農協などの金融機関など、ひととおりそろっており、例の角形ガラスケース完備の駄菓子屋までありました(前述のように恩恵を被りました。)。
祖父の容貌は、いわゆる馬面で、色が黒く、丸顔・色白を願う姉妹たちの怨嗟の的でした(よくわかります)。寡黙で控えめな人で、家業から引退したあと、農業と、肉用牛の飼育に専念していました。毎晩の少量の晩酌を楽しみにしており、私が長ずるにつれ、猪口の酒をすすめつつ、遠慮がちに近況をたずねながら、その答えにうなずき満足しているようでした。
本人の言いようでは、牛の世話が道楽だ、と言っていましたが、農作業の合間に、常時、二、三頭は飼っており、くらい牛舎の中で、大きな牛がうごめき、こども心に怖いようでした。草食の動物であり、いずれもまつ毛が長く、目の大きい黒牛で、おそるおそる差し出した草をゆっくりと食む姿はかわいらしいようでした。祖父は、当時、その牛を出荷する時が、一番悲しい、と言っていました。牛どもの飼料のために、あぜや草刈り場の草刈りが不自由になるにつれ、いつの間にか牛の飼育もやめていってしまいました。
祖母は、なかなか孫に甘いだけの人ではありませんでしたが、祖父と一緒に、大家族を制御・運営しておりました。
盆・暮れの、兄弟の寄り合いで、達者な姉妹たちの口撃の十字砲火の喧騒の中で、酒を飲むだけしかないような男兄弟は圧倒され、それでも、それぞれの配偶者を含め(うちの父親は母の里帰りに同行することを明らかに嫌がっていましたが)当該宴会(茶会)は深夜まで続きましたが、もっとも鮮烈な記憶は、部屋の中央に掘りごたつ(やぐら炬燵(こたつ)といっていました。)を切り、実際にこたつの底辺に、炭を埋けたり、練炭(いわゆる配偶者「不完全燃焼殺人事件」に使われたアレです。)を燃やしたりの、直接暖房でありましたが、当該掘りこたつを中心に、放射線状に布団をしき、皆で寝ていました。木組みのやぐらこたつ自体と、もみ殻枕の独特のにおいと、重い、硬い布団のかびくさい臭いを、よく覚えています。
祖父母にも、時代やそれぞれの人性において疾風怒濤の時代はあったでしょうが、家業をまもり、家業をたたみ、商売人としても、また、親としても様々なこどもたちの相談にも乗り、少なくとも、商売人としては、有能な人たちであったと思われます。
我が家の母は、上から二番目の二女であり、兄弟をおもんばかり、やむを得ず、言われるままに兄弟の多い家の長男に嫁入った、と愚痴をいっていましたが、その後、家族内のヘゲモニーを握った後も、愚痴の種は尽きなかったようです。義理の母も含め、まだ働きに行く場所もなく(当時、働く女性は社会的に不遇であると同情されていた要素もあります。)、終日、姑や小姑と顏を付き合わせ、当時の農村にはいくらもあったような話であったようです。後年、わが母は、フルタイムの仕事を見つけ、末子であった私は、内孫として、家を守る祖父母との関係がますます濃くなっていきました。
母の実家と我が家との、家同士の行き来も密であり、叔母などの話によると、農繁期の相互の手伝いや、子守などに動員されたということです。が、我が家の祖父は、実務的な素養がない人で、母の実家から色々助言や協力もしてもらったようです。
先日、母方の早世した長男から、二番目の順序として、わが母が物故しましたが、遠くに住んでいる高齢の長女を含め、存命の母の兄弟が全員集合したのは壮観でした。死ぬまで口が達者で元気な人でしたから、むしろ明るい雰囲気の中で葬儀は行われたところです。いみじくも、私と同級生である当日の導師(僧侶)が、母方の親戚一同を見て「みんな、同じ顔だねー」と感に堪えたように言っておりました。
誰かの話ではないですが、兄弟姉妹の関係性は、空間的な拡大にも、我々いとこ同士を含めれば、時間的な拡大にも耐えるものですね、それが私たちの代で絶えそうなのは申し訳ないところですが、それなりに、私自身と、叔父、叔母との行き来は続いています。もし、統一した家業があれば、「部族的な拡大」(笑い)にも耐えうるようにも思われます。
いずれにせよ、大家族を運営し、世間とつきあい、家業に決着をつけたのは、明治人である、祖父母の大きな功績であるように思います。孫への配慮も忘れず、個人的に及び難いと今でも思えます。
こんな感興を、後日、思いがけず、私たちに地下水脈のように呼び起こすのが、父祖や年長者の偉さなんでしょうね。