天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

ついには、Eテレ「おかあさんと一緒」等について考える   その3

2017-06-23 21:25:16 | 映画・テレビドラマなど
Eテレに、芸人の諸氏が出るようになってからどれくらいの時間がたったのでしょうか。
 彼らは芸人というかコメディアンです。
 彼らの出演は、誰が企画するのか、と思われますが、ある芸人がNHKの出演料はきわめて安い、といっていましたので、たとえば吉本興業のマネージメント料を引き去った後の出演料と比べても、もっと安いものなのかもしれません。
 いつも売れている芸人が出ているとは限らないようなので、番組制作者が、こどもたちの意向を踏まえたうえで自己の好みとプラン、あるいは相手方との協議を経て、出演の折り合いをつけるのだろうと思います。
 古くは、例のピタゴラスイッチの漫才コンビ「いつもここから」の「アルゴリズム体操」をはじめ、さまざまな漫才コンビや、スポーツ選手や時に新進の俳優などが出ています。
 先ごろ、「おかあさんと一緒」の録画を見ていると、久しぶりに、「そんなの関係ねぇ」の小島よしおが出ていました。これは、2007年の流行語大賞といいますので、当時からすでに十数年は時間が経過しています。彼は、なぜか幼児たちに人気があるようで、なぜかと考えてみれば、私はそれが、公共テレビで身一つの短い水泳パンツ一丁で出てくる、芸人としての、いさぎのよさにありはしないかと思っています。
 現在では、家の中で、おやじがパンツ一枚でうろうろするのも、こどもに対する性的虐待となってしまい、おやじの居所がますますなくなってしまうところです。「なぜいけないんだ」というと、「母親が、下着一枚で出てきていいの」という話になり、みながその状況になれていないせいなのか、男どもは尻すぼみになってしまう。
 一般的に、人一番強いのはこどもの好奇心でしょうから、「公共の場」であるテレビ番組に、裸体のパンツ一枚で出るのは興味深いし、こどもにとっても今までの常識が覆される体験として何より面白いのでしょう。
 昔であれば(誰の昔かということになりますが)、夏の夕暮れ、家の近所を、白いパンツ一枚で彷徨する(さまよう)おやじの姿など珍しくもありませんでした。それこそ、あっぱっぱ一枚で、サンダル履きで散歩する女性も数多かったところです。はなはだしいやつは、立ち小便すらしていました。そのような風俗が消えてしまった現在は、なんというべきか、息苦しいといえば息苦しいところです。
 こどもは感受性が豊かというべきか、変わったもの、奇妙なもの、あるいは猥雑なものに大変興味を示します。そのあたりは、自分のこども時代をふりかえれば、思いあたるところです。チンドン屋や、狂気なのか、痴呆なのか、変わった人、奇妙な人には、皆で(有志で)こわごわ、つきしたがって歩いておりました。そのような光景が消えてしまった今、異様なパフォーマンスや体験は、これは社会教育のひとつというものかも知れません。
 小島よしおも、こどもたちに迎合することなく、「次はこれ」と主導権を発揮しつつ、かぶりものをしたり、目先を変えつつ、番組を引っ張ります。
 しかし、やっぱり、最期は「オッパッピー」の一発ギャグと、「そんなの関係ねぇ」のパフォーマンスですね。人前に裸で出るために、体を鍛え、男として恥ずかしくないような(?) 引き締まった体で動く、細くたくましい姿は、怪力男というか、因果ものの出し物のようで、あるいはサーカスのようなものかもしれません。また、彼が、名門の私学の出身であるというのも、それを一緒に見る親たちによって付加される価値なのかも知れません。私も、久しぶりに、彼の芸を見ましたが、パンツ一枚で勝負するというのは、「いつまで勝負できるんだろう」とか、「うちの孫はどのように見るんだろう」とか想像して、やっぱり興味深いものですね。
 昔、あのドリフターズのリーダー、今は亡き、いかりや長介が、コメディアンとして通用するかどうかは、「パンツ一枚で、街を走れる覚悟があるかどうか」といっていました。「小島よしお」さんも今は家庭を持っているかもしれませんが、屈辱感や、恥ずかしさを、芸として転化していくその決意性は今後も必要と思われます。
 このたび、思わず笑ってしまいましたが、こどもたちの興味を含めたうえで、やっぱり「笑い」というものはいいものですね。