天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「火葬場の少年」をめぐり、今年も考える。   その3

2017-08-15 22:13:22 | 時事・風俗・情況

( 8月です。お盆の月ですので、いつものように、皆で死者について考えましょう。 )

例年のことになりますが、毎年テレビを見るのが苦痛になるのが、今の時期です。
私は、「何の前提もない正義」というのが心底嫌いで、それを唱えることに何の疑いを持たない人間はもっと嫌いです。
この時期、テレビを見ていると、NHKから民放にいたるまで、ニュースもドラマも総動員して、「戦争はいけない」、「戦争を二度としてはいけない(巻き込まれてはいけない)」と繰り返すばかりで、「つまらない番組はやめろ」と、うんざりすることとなります。例えば、「平和、平和、平和」とお題目を唱えることができない、現在国内の内戦や、他国からの干渉による戦乱の中で、日々おびえ、暮らしている国家及びそこに在る国民はどうすればいいのかという問題に派生していくところです。その、展開がないようなら、それは、お盆の供養のお経と同じですね。心の入らぬ空疎なお経になる。
 ところで、日本国は本当に「平和」なんでしょうか?

 NHKも、「敗戦記念日」近くの時宜を選んだのか、「昭和の選択」という番組(8月9日)を再放送していました。MC(番組進行者)の歴史家磯田道史氏の適切な司会のもとに、「噫(ああ)横川国民学校」という作品をモデルにした番組の再放映をしていました。大東亜戦争の末期に、昭和20年3月10日の東京大空襲(その犠牲者の総数は50万とも60万人ともいわれます。)の際に、下町に存し、当時としては、堅牢と思われたコンクリート造の横川国民学校に容赦のない空爆が加えられ、その構造が仇をなしたのか、逃げる間もなく、老人から婦女子、幼児・胎児にいたるまで、無残に全滅し、その痛ましい死が作者にいわせれば「炭化した黒焦げのサルのように」と描かれた、多くの無辜の国民が無残に焼殺された悲劇です。磯田氏が、「これはいかなる時代でも、いかなる状況でも、国家が、(普遍的に)人間が他国民を含めて、決してやってはいけない行為である」、と述べた(私もまったく同感ですが)、そのままの酸鼻な事件です。それを、現場で立会い、偶然にも運よく(?) 生き延びた国民学校の教師、後年に優れた芸術家として自己を高め、高名な書家になられた井上有一氏が、老年期に入ったころ、満を持して、自らを強いるように描いた、その悲劇の衝撃と、生涯にわたり、教え子たちの無念の死に対して無力であった自分を責め続けた慟哭の書(群馬県立近代美術館所蔵)、です。
 この事件は、いくら戦争期といえども、戦争末期の大量虐殺というべき原子爆弾投下と同様に、米軍によりおこなわれた、無辜の非戦闘員に対するいわば「人道に対する犯罪」のような攻撃です。
 恥ずかしながら、私は、天才画家ピカソの「ゲルニカ」に匹敵する作品といわれるこの作品のことを、前述したとおり、講談社の書道を扱った漫画「とめ、はねっ!」(河合克敏著)によってはじめて知りました。西日本在住の人間として、東京大空襲の中でのこの悲惨な事件についてまったく知らなかったことを含め、大きな衝撃を受けました。先の放映で観た際考えたのが、作者の書家井上氏が、敗戦後も教職を続け、直接体験としての被災体験によるものなのか、戦後、自己体験や芸術家としての葛藤の中でと思われますが、書の解体に赴くかのような前衛書道に打ち込むなど、書道を超える芸術家として、国際的にも、名を成した人です(「とめ、はねっ!」にもきちんと描かれています。)。
 その後も、芸術家として自己の内部で創作への意欲が熟成するのをじっと待ったのでしょう、定年後、満を持していたかのように、一気呵成に、危険な場所に連れ帰ってきた自分の責任と、教え子を奪われた悲しみと怒りを、死者への愛惜と慟哭を、異様な迫力のある破調の書に結実した、恐るべき作品です。私も実物をみたい、と思っていながら、機会をつかめず、いまだに果たせていません。
 この番組に拠れば、当時、井上氏は、疎開先の国民学校で、かの訓導というのか、毎朝詩吟で「正気の歌(しょうきのうた)」(水戸学派の藤田東湖作)を、生徒と一緒に吟じていた、という教師であり、軍国教育に染まった教師だったのでしょう。当時、国民学校の6年生を指導していたそうです。彼らのその疎開が終わる時期(卒業式)となり、都下の危険な状態を知りつつも、卒業式は、(長い別離を経て)地元でやってやりたい、という父兄たちの願望により、帰郷してまもなく、まったく運悪くこの災禍に遭遇しています。
 写真を見れば、頑固そうな先生です、愛想がいいとはお世辞でもいえない、しかし、実際に彼が、この作品が書けたのは、戦後教育者としての人性を全うし、その長いなりわいを通じて、芸術家として熟成し、退職後、ようやく、「内なる思い」、「痛恨」、「悲しみ」に対峙する勇気が出たのであろう、と想像されます。最後の「親子断末魔の声 終生忘るなし」という独白は、芸術家であるよりは、「人間としての」絶叫のようにも聞こえます。

 先のかの誇り高い「火葬場の少年」、そして、このたびの「噫横川国民学校」を経て、私は以下のとおり、稚拙な、しかし私にとって切実な考察をします。

①日本国が戦場になった場合は、最初に、婦女子、老人、社会的弱者が犠牲になる(それは他国でもまったく同様である。)。
②現在の日本国の地勢的、歴史的背景を見れば、日本国家及び日本国民に脅威となるのは、独裁軍事国家、北朝鮮及び覇権国家かつ「強兵富国」国家中共であり、両国は、同時に世界規模での軍事的脅威となる危険な国家である。また、南朝鮮も、その主流が、「竹島不法占拠」問題に代表される、反日運動を推進する、中共に組する国家である。
③今国民国家日本が、バカな理念(グローバリズム)に基づき、国境障壁を低くし、安易に他国民の流入を許し、経済的、科学技術的、軍事的な、あるいは歴史的な理念対立に後手をとり続けるなら(すでに他国の圧力に屈し靖国参拝をやめたではないか。それぞれの国家にはそれぞれの言い分がある、当然のことである、他国になにを言われる必要もない。)、離島住民大衆や、大多数の日本国の弱者たちを、みすみす他国の侵略の前に最初に差し出すことになる(シモーヌ・ヴェイユもそういっているではないか。)。
④われわれの若き時代の巨大な詐術は、マルクス主義による、資本主義の矛盾を経由した後、究極において階級対立を揚棄した国家の解体であった。その後、歴史的に誤びゅうを証明された、このでたらめが、現代では実質的に特定特権層(わずか数パーセントの人間による)全体支配体制であるグローバリズムに引き継がれており、それは国境を越え、利害と目的を同一にした、少数の狡猾な人間に利用されている。この理念は、バカ左翼の継承者の宿あとも相性がいい(ドイツでは「国境のない世界」とか馬鹿な理念で、経済難民を無原則に受け入れ、社会的弱者はひどい目に会っているではないか、それはドイツ帝国の自業自得ではあるが。ところで、鬼籍に入ったかもしれないが、丸メガネのジョン・レノンよ、あなたは罪作りですね。イマジンは、今、とても皮肉に聞こえますよ。)。
⑤日本国の同盟国家であるアメリカ(USA)も、自国を離れた極東アジアの秩序維持に積極的に介入する余裕も、実力も、意欲も失いつつある。また、一方で、何より、戦後のGHQの支配時代より、敗戦国日本が、戦勝国中共、北鮮、南鮮に対して、日本国政府が、日本国の利害、防衛のための準備をしたり行動したりすることを望まず、折に触れ阻止妨害する。
⑥日本政府、日本国民は、重要な国家防衛を、日米同盟に丸投げしていたので、日本国が、現在、大変危険な厳しい状況にあることに無自覚であり、現在の状態がそのまま破たんなく続くと根拠なく信じている。日本国民が、私たちの生き残った父祖たちが、戦後富国のためにあれだけ努力したのに、日本国の歴代政府は、敵に対する備えをまったくしてこなかったことに対し、自民党の大多数及び全野党は、無自覚で無責任である。
⑦安倍首相がいうように、アメリカ軍は、本来的に、他国の紛争に血を流すことは避ける、と考えらえる。また、日本国には、自国防衛の機関としての自衛隊を、愚かにも貶めることが正しいような一部腐ったマスコミ又は知識人層があり、まったく愚かしいことながらにもその根源は、戦後のGHQの支配時代に、敗者日本国は被害者アジア周辺国に何をされても逆らうなという、その思想統制の起源があるように思われる。また、そのデマゴギーは、バカ左翼や、バカ市民主義者たちと通底する。そして、彼らは、危機に際しては、「安保条約がある」、「自衛隊がある」、「義務を果たせ」と恥知らずに扇動する。
⑧現在の、あらゆる民族国家は、その本質として、「富国強兵」を目指し、経済的分配の向上、国民の安心・安全を目標としており(日本国のような例外はあるが)、愚かな外交政策の失点で他国に付け込まれたり、本来責任のない他国に自国防衛を期待するような、あきれたかつ恥知らずな国家運営や国家外交は目指していない。
⑨世界的に徴兵制を採用している国は極めて少数であり、現在の高度な電子戦略に、素人あがりが適応することはまず無理である。どの国でもある、自国防衛軍、として、あるいは災害時の支援機関としての自衛隊には、国民がきちんとその存在を法的に位置づけ、その功績(殉職された方もいる。)に対してはせめて同じ国民として応分の敬意を払うべきである。それは、自衛隊員の士気(モラル)の高揚と、彼らの誇りと自恃の心の涵養に大いに役立つはずである。
⑩いずれにせよ、中共も北朝も内部矛盾の解決としては、覇権主義、軍事国家化しかすべがない段階にきている、このような時期に、自国防衛、経済復興、周辺国との危険国家に対する連携の強化、自国利害の確保への冷静な戦略なしには、われわれの子孫に未来はない。私たちは、応分の備えを持った「平和国家」を目指さなくては、300万人といわれる敗戦時の犠牲者たち、厳しい明治以降の近代国家を創設した先人たち、また何より犠牲になった父祖たちに顔向けができない。まさしく「義」も「誇り」も振り捨て、自国民の危機に際し、安心・安全の確保もできないような、民族国家には未来はない。
⑪「火葬場の少年」の絶望に、あるいは「横川国民学校」の犠牲者の無念に対し、私たちは、自力で何をすべきか、再度覚悟を決めるべきである。
⑫ところで、私は山口県に在住し、岩国基地の近辺に居住するものである。ここは、北鮮が当面の標的にするには、絶好の場所である。私は、もうすぐ、不正確な射程で、何の弾頭が装備されているかもしれない北鮮ミサイルで巻き添えになるかもしれない(実にバカらしいが)。
 もしその可能性を考えれば、個人的には、日本国の脅威中共に対する、媚中共派といわれ、一般国民に対する同胞意識や国家的危機意識が欠如した鳥取県の石破某の家に落ちればいいと思うが、彼は住民票だけ郷里におき、実際は東京に住んでいるのか。もし、山口県の私や私の家族が犠牲になっても、彼は平気なのだろうか、彼の選挙民でなければ(選挙民であっても気にしないかもしれぬが)。
⑬ 私は、日本国から逃げられない大多数の日本国民のために、当面、日米同盟を支持し、岩国基地の拡充を支持する、しかしながら、本音は「火葬場の少年」あるいは「横川国民学校」の悲劇を繰り返さないため、日本国民の総意で働く、自国防衛軍の正式な位置づけを早急に望むものである。