うちの孫の愛読書です。
以前に、かれこれ7、8年前ですが、うちの父方のおじの葬儀の写真を見せてもらったことがありました。
おじは、昭和一桁の前半生まれでしたが、当時の貧しい家の例にもれず、戦後、警察官を目指し、以来警察に奉職し、また同様に望まれて養子に行きました。父のすぐ下の弟で、こつこつした努力家であり、私の父はできの悪い総領ながら、父と仲が良く、いつも年長を立てているような具合でした。私自身もよくかわいがってもらい、何度か泊りがけで祖父母と遊びに行き、歳の近い従姉弟たちともよく付き合いました。自分の名が檀家寺のお坊さんに命名されたということで、坊主くさい(?) ことが好きであり、その後、尺八を趣味として、弟子のとれる師範(いろいろ能書きを聞いたのですが、実際の演奏を含め、すっかり忘れました。)にまでなったらしいのですが、趣味が高じ、自分で製作して、由緒ありげに、その楽器の命名もしておりました。
私には、是非、警察に入れ、といっていましたが、それだけはお断りしました。
父のなくなった後でもあり、私もおじの葬儀には参加したのですが、その縁で、後日寡婦となったおばに会いに行った際、その葬儀のスナップ写真を見せてもらったところです。
とても、びっくりしたのは、おじの棺を皆で押しはさみ孫一同が号泣していたことです。
私のいとこは、姉弟の二人で、その子供たちは、前妻の子を含め、六人いますが、成年に達した子を含め、棺をとり囲むようにして、顔をゆがめて泣いていました。おそらく、孫ども皆が泣いているので、親戚連中が何かを感じて、その光景を写真に撮っていたのでしょう。
われわれには歴史が浅いながら、祖父母という位置は楽なところがあります。それは「責任がないんだから」と、常日ごろうちの妻も述懐しているところです。ただ、加齢のおかげか、実父母にたりないところに目が届くところがあるし、「ひたすらやさしい」ことも赦してもらえるところもあります。
われわれは、彼らが自分で思いつくままに(恣意的に)、こどもにも、孫にも、便利に使われるところがあります。それを笑って済ませるところも必要なことでしょう(実際のところこどもに対しては、なかなか笑えないが)。
一般的に、こどもに対する関係づけについては、親として妻と連帯して「関係の絶対性」(血族の絶対的被拘束性)というところがあって、とても密接で切実な関係であり、愛憎を含めて子を拘束したし、強く拘束されたことがあり、今は立場が弱くなったこちらが、たとえ心底不満であったとしても、「ぐう」の音も出ない、ことはよくあることです。
孫との関係は、結構自由なところがあって、うちの幼い孫に現在は私たちに全面的に依存していますが、いずれは躊躇なく離れていくだろうところです。
それこそ、私自身は、自己の残年数を数えながら、無意識に家族全体を離れて観ているようなところは確かです。
私自身も、そのおじが好きだったことを含めて、おじのために、孫一同そろって葬儀に参列し、死をいたむ光景は、なかなか感動的なものでした。おじは、おそらく、味わい深い「正しいおじいさん道」を歩き続けたのでしょう。
おばが言うには、仕事柄、転勤が多いおじは、当然に、家族がついてくることとして、居宅があっても、狭い官舎に引っ越すことを前提としていた、とのことであり、さすがに姉弟とも、口に出しては反抗しなかったらしいが、全く新しい場所への転校は、学業は別にしても、殊に人間関係の構築では、とても不満だったらしく、父思いの娘ながらそんな彼女の日記をみつけた、と思い出語りをしていました。
そういえば、私と同年の、彼女は、転校先の閉塞性について、不満を述べており、女子高でもあり、「女子の生きにくさ」について「なるほど」と思ったことがあります。
どうもおじは、「父親」としては、遠慮はしなかったのかも知れません。しかし、酒好きであったおじは、盆や正月など、気の置けない酒席では、一人娘については、べたほめだったとのことで、それが人性の機微というものかもしれません。
それはそうとして、後日、私が、別の孫を持つことになるとしても、私の葬儀で泣いてもらうことまでは望まないが、お互いの気持ちの交流と、行く末を案ずるだけの近況報告くらいはどうしても欲しいところです。今後、うちの親が味わったように、苦い失望や幻滅は今後も生じるかも知れませんが、いずれ有限の、人性の中で、それだけは、できればあって欲しいところですね。
ところで、私にとって、孫や子の将来を思いやることは、彼らの生きる社会や、私たちをも含む社会についても思いやることも、私にとっては自明なところです。
何度も繰り返しますが、「私個人」の射程にある歴史や社会は、父祖の生きた明治期の、近代日本にまでは思い描くことができるところです(それ以前には想像力が及ばず、実感として個人的な責任が感じられない。)。
それならば、それは、同時にそれ以前の、伝統や、歴史に強く拘束されていることも確かであり、それこそ、小林秀雄ではないですが、私も日本国の歴史のその総和の一員として「個々」と「全体」とそれを観ていくだけの「眼」と事に当たる見識を持つことも、やはり必要なことですね。
今後、私の境涯がどうなっていくか(?) 、興味は尽きず、またなかなか予測がつかず、詮のない話*ではありますが、失望や幻滅にめげず、孫や子のために、大多数であるところの国民大衆を軽視し顧みない愚かな政治や、愚かな思想、そして無考えな、また狡猾で悪辣なその支持者と戦っていくことは、わが使命であります。
(註)山口弁で、「せんない(詮無い)」というと、「面倒くさい」、「つまらない」という意味になります。昔、小学校時代、朝ドリルをしなかったことに詰問されたとき、劣等生であった私は「せんないからしませんでした。」と答え、担任(恩師)に、火の出るような勢いで厳しく叱られたことがありました。本来は、軽く、「うっとおしい」とか「わずらわしい」という意味で使います。
以前に、かれこれ7、8年前ですが、うちの父方のおじの葬儀の写真を見せてもらったことがありました。
おじは、昭和一桁の前半生まれでしたが、当時の貧しい家の例にもれず、戦後、警察官を目指し、以来警察に奉職し、また同様に望まれて養子に行きました。父のすぐ下の弟で、こつこつした努力家であり、私の父はできの悪い総領ながら、父と仲が良く、いつも年長を立てているような具合でした。私自身もよくかわいがってもらい、何度か泊りがけで祖父母と遊びに行き、歳の近い従姉弟たちともよく付き合いました。自分の名が檀家寺のお坊さんに命名されたということで、坊主くさい(?) ことが好きであり、その後、尺八を趣味として、弟子のとれる師範(いろいろ能書きを聞いたのですが、実際の演奏を含め、すっかり忘れました。)にまでなったらしいのですが、趣味が高じ、自分で製作して、由緒ありげに、その楽器の命名もしておりました。
私には、是非、警察に入れ、といっていましたが、それだけはお断りしました。
父のなくなった後でもあり、私もおじの葬儀には参加したのですが、その縁で、後日寡婦となったおばに会いに行った際、その葬儀のスナップ写真を見せてもらったところです。
とても、びっくりしたのは、おじの棺を皆で押しはさみ孫一同が号泣していたことです。
私のいとこは、姉弟の二人で、その子供たちは、前妻の子を含め、六人いますが、成年に達した子を含め、棺をとり囲むようにして、顔をゆがめて泣いていました。おそらく、孫ども皆が泣いているので、親戚連中が何かを感じて、その光景を写真に撮っていたのでしょう。
われわれには歴史が浅いながら、祖父母という位置は楽なところがあります。それは「責任がないんだから」と、常日ごろうちの妻も述懐しているところです。ただ、加齢のおかげか、実父母にたりないところに目が届くところがあるし、「ひたすらやさしい」ことも赦してもらえるところもあります。
われわれは、彼らが自分で思いつくままに(恣意的に)、こどもにも、孫にも、便利に使われるところがあります。それを笑って済ませるところも必要なことでしょう(実際のところこどもに対しては、なかなか笑えないが)。
一般的に、こどもに対する関係づけについては、親として妻と連帯して「関係の絶対性」(血族の絶対的被拘束性)というところがあって、とても密接で切実な関係であり、愛憎を含めて子を拘束したし、強く拘束されたことがあり、今は立場が弱くなったこちらが、たとえ心底不満であったとしても、「ぐう」の音も出ない、ことはよくあることです。
孫との関係は、結構自由なところがあって、うちの幼い孫に現在は私たちに全面的に依存していますが、いずれは躊躇なく離れていくだろうところです。
それこそ、私自身は、自己の残年数を数えながら、無意識に家族全体を離れて観ているようなところは確かです。
私自身も、そのおじが好きだったことを含めて、おじのために、孫一同そろって葬儀に参列し、死をいたむ光景は、なかなか感動的なものでした。おじは、おそらく、味わい深い「正しいおじいさん道」を歩き続けたのでしょう。
おばが言うには、仕事柄、転勤が多いおじは、当然に、家族がついてくることとして、居宅があっても、狭い官舎に引っ越すことを前提としていた、とのことであり、さすがに姉弟とも、口に出しては反抗しなかったらしいが、全く新しい場所への転校は、学業は別にしても、殊に人間関係の構築では、とても不満だったらしく、父思いの娘ながらそんな彼女の日記をみつけた、と思い出語りをしていました。
そういえば、私と同年の、彼女は、転校先の閉塞性について、不満を述べており、女子高でもあり、「女子の生きにくさ」について「なるほど」と思ったことがあります。
どうもおじは、「父親」としては、遠慮はしなかったのかも知れません。しかし、酒好きであったおじは、盆や正月など、気の置けない酒席では、一人娘については、べたほめだったとのことで、それが人性の機微というものかもしれません。
それはそうとして、後日、私が、別の孫を持つことになるとしても、私の葬儀で泣いてもらうことまでは望まないが、お互いの気持ちの交流と、行く末を案ずるだけの近況報告くらいはどうしても欲しいところです。今後、うちの親が味わったように、苦い失望や幻滅は今後も生じるかも知れませんが、いずれ有限の、人性の中で、それだけは、できればあって欲しいところですね。
ところで、私にとって、孫や子の将来を思いやることは、彼らの生きる社会や、私たちをも含む社会についても思いやることも、私にとっては自明なところです。
何度も繰り返しますが、「私個人」の射程にある歴史や社会は、父祖の生きた明治期の、近代日本にまでは思い描くことができるところです(それ以前には想像力が及ばず、実感として個人的な責任が感じられない。)。
それならば、それは、同時にそれ以前の、伝統や、歴史に強く拘束されていることも確かであり、それこそ、小林秀雄ではないですが、私も日本国の歴史のその総和の一員として「個々」と「全体」とそれを観ていくだけの「眼」と事に当たる見識を持つことも、やはり必要なことですね。
今後、私の境涯がどうなっていくか(?) 、興味は尽きず、またなかなか予測がつかず、詮のない話*ではありますが、失望や幻滅にめげず、孫や子のために、大多数であるところの国民大衆を軽視し顧みない愚かな政治や、愚かな思想、そして無考えな、また狡猾で悪辣なその支持者と戦っていくことは、わが使命であります。
(註)山口弁で、「せんない(詮無い)」というと、「面倒くさい」、「つまらない」という意味になります。昔、小学校時代、朝ドリルをしなかったことに詰問されたとき、劣等生であった私は「せんないからしませんでした。」と答え、担任(恩師)に、火の出るような勢いで厳しく叱られたことがありました。本来は、軽く、「うっとおしい」とか「わずらわしい」という意味で使います。