かつて読んだ本の中で、「私は大家(たいか)のように語ることは出来ない、普遍的に語るしかない」、というエピグラフがあり、当時、なるほど、と思ったことがありました(当該大家とは、文脈では、「小林秀雄」であったと思います。))。
しかしながら、このたび、滝川先生の著作で紹介されて読んだ、かの「中井久夫」氏とは、本当の「大家」ではないかと思い至りました(私が「大家」と言うのもおこがましい話です。)。
まず、巻頭に「(この世に治療できない病気はあるかも知れないが、)看護できない患者はいない。」、これこそ、まさに、大家の発言ではないかと思い至りました。すばらしい、箴言(しんげん:教訓、戒めとなる言葉)ですね。
また、文中で、監護の業を、古代のシャーマンとの類比がされ、実際のところ、当時の部族祈祷師(?) も、命がけで(即座に鼎の軽重が問われただろう。)、仲間の病気を治したり、痛みや、精神の苦しみを緩和してきたわけであり、監護一般として考えれば、普遍的に、原理的に語るしかない、ということではないのかと、思われたしだいです。
それは、それだけ、精神に係る病は根強く強固であり、歴史もあり、古代からの人間の経てきた歴史という、長い時間の射程と、それぞれの時代に応じた、当時の人々の精神の中から連綿とその格闘の歴史とその累積が残っている、ということでもあります。
最初に、前書きとして、著者のもうひとつの天職である、翻訳詩人としての領域から、フランス近代詩人ランボーの詩句(「季節よ、城よ、無傷なこころがどこにあろう」)が引かれ、春秋に富む、看護学生たちに対し、その意を明かします。とても魅力的で、格調高い講義ですね。
実際のところ、共著者のあとがきを読めば、この本は、看護学生に対する、講義録として書かれ、その何代にもわたり看護師、看護学生たちの熱烈な支持のもとに、ついに、書籍化されたようです。ためしに、私の主治医に聞いてみると、彼女もよく読んでいるといっていました。
したがって、手に取れば、B5版の、理系の教科書のようであり、懐かしい思いがします。学生時代を追想してしまいそうです。
いつもの与太話ですが、もし、私が、高校時代にこの本を読んでいたら、わが、文系の進路にいささかなりとも影響があったのではないか、とさえ思われるほどです。
先に滝川先生が、師「中井久夫」氏は、今では看護師にしか期待していないのかも知れない(看護師に教えることを特に好む。)とも、言っており、著者の語り口も、反応の良い、熱意ある学生を相手に話すことは、教師として幸せであったかもしれません(私もその講義に出てみたかったですね。)。そして、前向きで、想像力(?) 、判断力に富む看護師は医療現場で、もっとも必要とされる専門職なのでしょう。
それは、他の医者の著書でも、「医学生に講義するよりよっぽど楽しい」と、述懐していたことを覚えています。いずれにせよ、あらゆる教育場面で、反応・理解の良い、熱意ある学生たちは、教師からは引っ張りだこであることは確かかも知れませんが。
本文は、著者の学者としての叡智(これで良いと思う。それだけの重みがあります)と、長年の臨床精神科医としての厳しい経験と智恵を経ての講義です。
ひたすら馬齢を重ねただけの当方ですが、「なるほど」と、思わず、ひざをたたいてしまうような記述が続きます。
診察と同時に、その患者が抱える家族や、生活体験、精神体験、社会的な関係の考察について、その重層的な、は握と、それを通じた判断を学生たちに諭します。その想像力というか洞察力に、まことに深い含蓄が感じられます。ここまできたら、著者に、人間としての高い精神性が感じられるというべきものかも知れない。
印象深かったことを挙げていけば、患者さんを挟んで、医者と看護師の立ち位置というのがあって、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と図式化していきます。実に周到です。
そして、看護師は、その職分の多くを患者の立場に立つようしなければならない、とか、看護師の重要な仕事は、担当医師を鍛え、能力向上をさせることだ、とか、凄い認識が出てきます。いわば、治療行為の分業制・専門性の確認と、医師は治療行為の舞台でのディレクターであるという問わず語りなのですね。
同時に、君たちは専門職であり、心療・看護業務は、役割分業であるしかない仕事であり、自負心を持ち、チームを組み、患者さんのために、対応して、その職分を果たそうじゃないか、とのアジテートです。
また、「眠り」についての指摘、病者については、まず、最初に適正睡眠が必要であること、適当な時間に休息する必要があること、それぞれ病者に眠りの特性と個性があるので押しつけてはいけない、たそがれ時に睡眠をとることは、きわめて危ない、など示唆にとんだ指摘があります(自分の体験でよく分かります。)。
「睡眠は有能で老練な助手である」、という警句もありました。
「看護にかかる転移」という章で、患者側が、治療者に対し、「身内の父や母、かつての教師と同様に連想し振舞おうとする」こころの動きがある、という話があり、治療者から患者に対する「逆転移」という現象も同様で、双方に人間(長所も弱点もある。)であるので、齟齬もあれば、共感も、思い入れもある、お互いに息の詰まるような「陰性の」転移ではなく、治療者とすれば(治療行為につながるような)「陽性の」転移を目指せ、というなかなか人性の機微に通じた指導もあります。患者たちが、いかに医者の回診や、診察を待ちわびているかという、老練な治療者としての述懐もあります。
いずれにせよ、治療者から、患者を観察し、歩み寄り、時に距離を置き、どのように、次を目指すのかという、治療者の取り組みが、治療する立場によって、平易に、分かりやすく書いてあります。
私たち患者とすれば、このような治療者の立場からの洞察に満ちた話を読めば、「話を聞いてくれない」、「病状・状態改善について十分な説明がない」とか、常日頃、医者に不信感を抱きがちな、私たち患者としての考えが、いろいろ揺さぶられるのを感じるわけです。一般的に、患者としての対場は弱いものです。患者と対等な立場から治療を始めようとする著者の原理・原則は貴重なものです。
今回の著書では、あまり触れないという前置きの、子どもについての言及もあります。
「子どもの中心の家庭はよいとされる。間違いだ。一家の中心のまとまりの中心的位置に据えられた子どもこそ迷惑である。本来、子どもは、辺境にいるからこそ、くつろぎ、したいことができ、大人をモデルとして自分をつくれる。さらに、しょっちゅう話し合いをしている家庭がよいというのも迷信である。「さあ、話し合いをしよう」と一室に集まるときの家族は、緊張と相互の疑心暗鬼が相当な水準になっている。自然に一日に一度は集まるというのがよい。」
現在の、子どもたちを囲む、息が詰まるような過監視であるところの厳しい状況と、「話し合いでこそ全てを解決する」という、思い込みの愚かさと、智恵のない、腐ったいわば「民主主義」の病理をいい当てていると思いませんか。
こういう発言をさらっとするのが、大家なのじゃないでしょうか。
その中で、とても高度で、味わい深い、後輩たちへの助言もあります。
「(人格障害に係る言及の中で)・・治療者に求められるのはまず「やさしさ」である、と患者も治療者も考え、攻撃はその不足に対してだ、という考えが通用している。(中略)「やさしさ」は、押しつけがましさなく相手を包むものであり、求め求められる関係を超えたものであって、求めて得られるものではなく、求められてさずけるものではない。・・・」
無媒介に「やさしさ」ばかり求められるようになった現在(その現象への言及もあります。)、治療者のみならず、私たちにとっても、人性への洞察に満ちた言葉だと思いませんか。「汲めど尽きせぬ」という比喩はこのような著作のためにあるものだと、おもわれました。
しかしながら、このたび、滝川先生の著作で紹介されて読んだ、かの「中井久夫」氏とは、本当の「大家」ではないかと思い至りました(私が「大家」と言うのもおこがましい話です。)。
まず、巻頭に「(この世に治療できない病気はあるかも知れないが、)看護できない患者はいない。」、これこそ、まさに、大家の発言ではないかと思い至りました。すばらしい、箴言(しんげん:教訓、戒めとなる言葉)ですね。
また、文中で、監護の業を、古代のシャーマンとの類比がされ、実際のところ、当時の部族祈祷師(?) も、命がけで(即座に鼎の軽重が問われただろう。)、仲間の病気を治したり、痛みや、精神の苦しみを緩和してきたわけであり、監護一般として考えれば、普遍的に、原理的に語るしかない、ということではないのかと、思われたしだいです。
それは、それだけ、精神に係る病は根強く強固であり、歴史もあり、古代からの人間の経てきた歴史という、長い時間の射程と、それぞれの時代に応じた、当時の人々の精神の中から連綿とその格闘の歴史とその累積が残っている、ということでもあります。
最初に、前書きとして、著者のもうひとつの天職である、翻訳詩人としての領域から、フランス近代詩人ランボーの詩句(「季節よ、城よ、無傷なこころがどこにあろう」)が引かれ、春秋に富む、看護学生たちに対し、その意を明かします。とても魅力的で、格調高い講義ですね。
実際のところ、共著者のあとがきを読めば、この本は、看護学生に対する、講義録として書かれ、その何代にもわたり看護師、看護学生たちの熱烈な支持のもとに、ついに、書籍化されたようです。ためしに、私の主治医に聞いてみると、彼女もよく読んでいるといっていました。
したがって、手に取れば、B5版の、理系の教科書のようであり、懐かしい思いがします。学生時代を追想してしまいそうです。
いつもの与太話ですが、もし、私が、高校時代にこの本を読んでいたら、わが、文系の進路にいささかなりとも影響があったのではないか、とさえ思われるほどです。
先に滝川先生が、師「中井久夫」氏は、今では看護師にしか期待していないのかも知れない(看護師に教えることを特に好む。)とも、言っており、著者の語り口も、反応の良い、熱意ある学生を相手に話すことは、教師として幸せであったかもしれません(私もその講義に出てみたかったですね。)。そして、前向きで、想像力(?) 、判断力に富む看護師は医療現場で、もっとも必要とされる専門職なのでしょう。
それは、他の医者の著書でも、「医学生に講義するよりよっぽど楽しい」と、述懐していたことを覚えています。いずれにせよ、あらゆる教育場面で、反応・理解の良い、熱意ある学生たちは、教師からは引っ張りだこであることは確かかも知れませんが。
本文は、著者の学者としての叡智(これで良いと思う。それだけの重みがあります)と、長年の臨床精神科医としての厳しい経験と智恵を経ての講義です。
ひたすら馬齢を重ねただけの当方ですが、「なるほど」と、思わず、ひざをたたいてしまうような記述が続きます。
診察と同時に、その患者が抱える家族や、生活体験、精神体験、社会的な関係の考察について、その重層的な、は握と、それを通じた判断を学生たちに諭します。その想像力というか洞察力に、まことに深い含蓄が感じられます。ここまできたら、著者に、人間としての高い精神性が感じられるというべきものかも知れない。
印象深かったことを挙げていけば、患者さんを挟んで、医者と看護師の立ち位置というのがあって、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と図式化していきます。実に周到です。
そして、看護師は、その職分の多くを患者の立場に立つようしなければならない、とか、看護師の重要な仕事は、担当医師を鍛え、能力向上をさせることだ、とか、凄い認識が出てきます。いわば、治療行為の分業制・専門性の確認と、医師は治療行為の舞台でのディレクターであるという問わず語りなのですね。
同時に、君たちは専門職であり、心療・看護業務は、役割分業であるしかない仕事であり、自負心を持ち、チームを組み、患者さんのために、対応して、その職分を果たそうじゃないか、とのアジテートです。
また、「眠り」についての指摘、病者については、まず、最初に適正睡眠が必要であること、適当な時間に休息する必要があること、それぞれ病者に眠りの特性と個性があるので押しつけてはいけない、たそがれ時に睡眠をとることは、きわめて危ない、など示唆にとんだ指摘があります(自分の体験でよく分かります。)。
「睡眠は有能で老練な助手である」、という警句もありました。
「看護にかかる転移」という章で、患者側が、治療者に対し、「身内の父や母、かつての教師と同様に連想し振舞おうとする」こころの動きがある、という話があり、治療者から患者に対する「逆転移」という現象も同様で、双方に人間(長所も弱点もある。)であるので、齟齬もあれば、共感も、思い入れもある、お互いに息の詰まるような「陰性の」転移ではなく、治療者とすれば(治療行為につながるような)「陽性の」転移を目指せ、というなかなか人性の機微に通じた指導もあります。患者たちが、いかに医者の回診や、診察を待ちわびているかという、老練な治療者としての述懐もあります。
いずれにせよ、治療者から、患者を観察し、歩み寄り、時に距離を置き、どのように、次を目指すのかという、治療者の取り組みが、治療する立場によって、平易に、分かりやすく書いてあります。
私たち患者とすれば、このような治療者の立場からの洞察に満ちた話を読めば、「話を聞いてくれない」、「病状・状態改善について十分な説明がない」とか、常日頃、医者に不信感を抱きがちな、私たち患者としての考えが、いろいろ揺さぶられるのを感じるわけです。一般的に、患者としての対場は弱いものです。患者と対等な立場から治療を始めようとする著者の原理・原則は貴重なものです。
今回の著書では、あまり触れないという前置きの、子どもについての言及もあります。
「子どもの中心の家庭はよいとされる。間違いだ。一家の中心のまとまりの中心的位置に据えられた子どもこそ迷惑である。本来、子どもは、辺境にいるからこそ、くつろぎ、したいことができ、大人をモデルとして自分をつくれる。さらに、しょっちゅう話し合いをしている家庭がよいというのも迷信である。「さあ、話し合いをしよう」と一室に集まるときの家族は、緊張と相互の疑心暗鬼が相当な水準になっている。自然に一日に一度は集まるというのがよい。」
現在の、子どもたちを囲む、息が詰まるような過監視であるところの厳しい状況と、「話し合いでこそ全てを解決する」という、思い込みの愚かさと、智恵のない、腐ったいわば「民主主義」の病理をいい当てていると思いませんか。
こういう発言をさらっとするのが、大家なのじゃないでしょうか。
その中で、とても高度で、味わい深い、後輩たちへの助言もあります。
「(人格障害に係る言及の中で)・・治療者に求められるのはまず「やさしさ」である、と患者も治療者も考え、攻撃はその不足に対してだ、という考えが通用している。(中略)「やさしさ」は、押しつけがましさなく相手を包むものであり、求め求められる関係を超えたものであって、求めて得られるものではなく、求められてさずけるものではない。・・・」
無媒介に「やさしさ」ばかり求められるようになった現在(その現象への言及もあります。)、治療者のみならず、私たちにとっても、人性への洞察に満ちた言葉だと思いませんか。「汲めど尽きせぬ」という比喩はこのような著作のためにあるものだと、おもわれました。