天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか

2020-06-11 10:34:15 | 時事・風俗・情況
 
 今年もJAの直販店で、ラズベリー(私は色や艶からブラックべりーではないのかと思っている。)を見つけた。心なしか、今年はちょっと酸っぱいと思える。世相のせいだろうか。
 先に、下の孫に、近所の空き地に生えていたキイチゴをたらふく食べさせてやれた。赤いイチゴも、黄色いイチゴもたくさんあった。
 腹を壊した、とか言っていたが、じじの知ったことではない。
 身の回りに、受けいれ、楽しむ自然があるのは、大変重要なことである。
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 先に、文芸評論家浜崎洋介氏の「「過剰自粛」の不条理と戦うために――敵は「コロナ」ではない「過剰自粛」である」(2020.5.6)を読んだ ( https://the-criterion.jp/category/mail-magazine/)。
 いなか暮しの、私自身にしても、本年2月以降、長期間において、引きこもりを強いられるような、閉塞した状況と、雰囲気、気分を抱えた、鬱屈した状況にあります。
 しかし、実際のところは、従前から、殊に都会部で暮らす若者たちの、厳しい、また、悲惨な状況に、思いを馳せていたところです。
 このたび、著者が告発する、過剰なコロナ対応、同調圧力、間接強制により、自らの生活手段すら奪われ、また、食いつぶすたくわえすらもない若者たちの厳しい状況を、改めて認識しました。
 一日も早く、彼らが、歴史上でも、最も道徳的な方法(すなわち速やかに、彼らが、独力で、自力で働くべく職場の確保と事業の再開への粗利補償などの金銭補助)で、まともな経済活動が再開し、自立の手段を獲得することを望みます。

 私は、さすがに、当面、給与の未払いも、レイオフの境遇でもないのが前提ですが、私なりに、身の丈、境遇に応じた、このコロナ下の情況のもとで、私たちにとって何が問題なのか考えます。

 私たちの、「社会的な活動」という言葉を言い換えれば、個々が行う「日常的(共同的)な活動」と言い換えられると思われます。
 私たちの日々の仕事(務め)は、社会的活動であるのは間違いないわけです。
 また、それは、その生業による収入を得る手段、人としての義務(?) であるというのみならず、なにがしか独自の自分の仕事や責任を達成することにより、他者の評価や承認がないと、それは仕事の甲斐がないということとなる。
 そして、どうも、その結果が伴わないと、私たち個々は反復継続する意欲がなえてしまう。
 それこそ、「金だけやるから好きにしていろ」というのは、人間の本質性をなめた浅薄な理屈である。
 どうも、それは、社会生活においては、きわめて互酬的な行為であり、深い根拠をもっている。
 また、その時、組織(人的な集まり)として、同じ目的を果たすことによる、喜びの共有など、相互の「共同受感性」も当然にあると思われます。

 私たちに、互酬や共感の気持ちが欠けると、それぞれの生活の中で、自立した対等の人間としての自負心や、相互の信頼が失われ、長期的な人的な関係は成り立っていかないようだ。
 それこそ、家族内においてさえ、乳母日傘(おんばひがさ)の身分、一方的な贈与は極端であり、言葉や物による相互の交流がないと、一方的な人間関係は、ゆがみが生じ長続きしない。
 
 そうとすれば、私たちは、まず、自己の義務と責任とある仕事を遂行し、どうもその後に、家族の生活、そして、最後に、私たちが希求する、個々の娯楽や、気晴らしの世界である。

 人はみな、自己の生まれに責任を持たない、また、私たちが生まれた社会は、極めて理不尽で、不平等な境遇である。
 しかし、多くのまともな生活者は、その中で、自らの境遇に無理やり適合し、懸命に、我慢して耐えて、生きている。
 しかし、やはり、なにがしかの理由でそのサイクルが、長期間にわたり欠け続け、外部と自己のそのバランスが崩れると、その本来の社会生活に支障をきたしてしまう。

 具体的に、現在の私の境遇とすれば、年金の不足分を、再任用の給与で補っている。かつかつ、やっていけるわけである。その身分に格別の苦情はない(それはまず、なにがしかの前提を選んで述べている。景気・経済対策を怠り、大多数国民に塗炭の苦しみを与える、政府・財務省を私は決して許さない。)。 

 晴れて、前期高齢者になった、私の「仕事」とは何であろうか。
 それこそ、退職以来、際限のない、モラトリアム(待命)時間に陥り、この度の、コロナ災厄でつくづく、たとえとすれば、閉塞した箱の中で思考するようなことを強いられた。
 それは、外的な時間の流れと無理やり切断され、「貧すれば鈍する」ならぬ、「(社会的な)接点を失えば鈍する」という状況であり、毎日、はがゆく、滅入りこむような気分であり、その気持ちも、いつの間にか投げやりに拡散化してしまう。
 どうも不愉快で仕方がない。
 本当に、現在の私も、行きどころのない「ニヒリズム」の雰囲気の中にある。

 その中で、私が、思ったのは、私たち老人は、「死を待つ常態にある」ということであった。
 老人の仕事は、「幸せに死ぬ」ことである。
 それは、今後とも、近未来において、私たちの孫や子が格別の支援なくして、自立して生きていけることであり、現在の、若者たちが、彼らの担い難い労苦によって、絶望しない社会であることである。
 それに、比すれば、コロナ災厄による死など何の意味も問題もない。
先に、生まれたものとして、老人が、先に私たち老人が憂いなく、希望をもって死んでいけばよい話である。

 私たちに、そのような覚悟を強いない人性に、何の意味もないと思える。
 私たちの人性は、それこそ開闢以来(?) 、理不尽な戦災や、抵抗できない、伝染病に幾度となく、破滅に直面してきたからである(この度のコロナという原因者が明確な不法行為は別の話である。被害者日本国民としてきっちり落とし前はつけてもらおう。)。

 私の現在の生活のどこかでコロナにり患しようと、前向きに私は自分の人性を肯定する。

 私たち老人たちが、そのとめどのない時間の中で、自分の際限のない延命と、アンチエイジングで老醜をさらして、どうするというのか。
 私は、どのようにしても、自己欲望に際限なく執着して、一日でも長く生きていたいとは望まない。
 しかし、そのような人を醜いとは言わない。
 それは、当面、個々の恣意であるしかない問題なのである。

 コロナが怖くて、外出できないということであれば、工夫をして、外出の頻度を下げるしかない。
 それが、自己に委ねられたの「自由」の選択であるからである。
 自己の決定権を他人にゆだねるのは卑怯である。死を選ぶ自由と同様で、それは選ぶ自由として、個々に委ねるしかない。それが、つましい昼食において、カレーとラーメンのどちらかの選択であっても、やはりそれは選択の自由ではある。
 
 自分の世話もできず、自己決定のできない人は、すでに閉鎖的な施設で監護を受けているかもしれない。それは、すでに、押しなべて、病院、介護施設で行われている、筈である。

 それよりは、強いられた生活、働かなければ生きていけない人、職場を奪われ、生きるすべもない人、自己の生業が維持・継続できない人にはどうすればいいのか。
貧しい若者や、生活に困窮する一般の人には、余力も預金もない、同調圧力の強要という「安い(形式的・通俗的な)正義」に拠らず、それを救済するのが、まず、何よりも最初である。
 早急に私たちの生活を正常な経済状態に引き戻すこと、私はそれをまず目指す。

 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。

 殊に、若者たちは、年齢柄(?) 自己欲望が強い。彼らは、現在の、理不尽な同調圧力と、安い公序良俗の間接強制のもとで、必死に耐えている。それは、高齢者として、今になって、苦く思い当たるところである。
 デフレ・コロナの併存する厳しい状況であるが、せめて、自己の若い時(第一次オイルショックからバブルの末期の混沌)のつたなさ、いい加減さを思って、それを肯定してやりたい。彼らは、自己の人性を楽しみかつ健全な社会と折り合いの付く欲望を、全肯定する義務がある。
 それが、本来、私たちの人性の道行きではなかったか。

 もう一度思う。
 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないか。

 コロナに便乗し政治的な利用を目指す、一部特権者の政治家、企業経営者など、際限のない自己欲望、自己利権を厚かましく主張する老人たちにはうんざりする。
 早く死ねばいいのに、と、強く思う。