天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

ねこ騒動てんまつ、併せ、ものの美醜を問う

2020-10-15 18:10:44 | エッセイ
ひょんなことから、我が家に、のら(だと思う。)ネコが居ついたが、家族の反対により、エサやりだけやっている。
どうも、人間以上に、ペットも、その面貌(アウトルッキングというやつです。)が、やはり、その性格より、外見で判断されるようだ。

ねこ嫌いのうちの妻ですら、かわいい幼猫は構いたがる。
「かわいくないねこ」には、気の毒といえば気の毒であるが、そこはそれ、われわれと同様に、ねこにとっても「運命」というものですね。

お定まりの脱線だが、例のLGBT運動や人権擁護運動に、醜女と醜男の支援という項の新設はないのだろうか、と思った。
人はその生まれに責任を持たない、したがってもって生まれた当該醜貌の優劣(?) により差別を受けるのは、どうも社会的に許されない、したがって、ブス又はぶ男の人権を守れ、と。
性的し好の尊重なら、ぶさいくな人間にも、救済の必要がありはしないかと思ったわけである。
もし、当該不公正を補償する、補償金でもあれば、私はそうであるというカミングアウトが生じ、社会的不公正を是正する、登録者も生じるかもしれない。
しかし、人間の心理は微妙なもので、もし、個々において、「私はブスではない、ぶ男ではない」、という個々に自負心や自恃の心あるいは思い違いでもあれば、そんな項の新設は必要ないのかもしれない。
前向きな精神以上に、うぬぼれ・虚栄心の存在や、現状認識の甘さというネガティブな心性・劣性は、個々に救いをもたらすものかもしれないからである。

それでも、「見た目が第一」と考えるなら、美容整形大国、南鮮で手術を受ければよい、金の力でそれなりに自由は獲得できるのだ。
いずれにせよ、自己の直接責任はないにせよ、自己のマイナス面と思われるものを外部の責任に転嫁して、際限のない補償(同情・憐憫など)を求めるのは間違っている。政治的にも、人倫的にも。

 それから、敷衍して見れば、男女共同参画もLGBT運動も相当いかがわしい。
 それこそ、まず理由のない賃金格差、とか、国民国家としての自国民ファーストとか、他国の政治の失敗・退廃とか、感情以外に別の社会的な媒介項を入れずに、あおられた露骨な政治的な引き回しに肩入れし、ナイーブ(つまりバカ)な大衆を引き回している。
 お人よしの善意(?) に付け込み、脅迫するような手段と募金の強要と同様、個々の国家の政治的な失敗や、人権抑圧、自分たちに都合の悪い事実を隠蔽し、国籍を問わず他国のそれなりに貧しくお人よしの大衆たちまでを騙す、ユネスコやアムネスティなどと同様であり、下劣で、いやな奴だ。

 また、我が国の行政機関がまるでグローバリズムの先兵のように、LGBT運動・男女共同参画問題取り上げるのは、政策的な意図があるのだろう。少数者(?) の外国人と問題をすり替え、外国資本・外国人による侵略を抵抗なく導入する手段である。あわよくば、国境も、国民国家の仕組みをも解体しようという、強固な主張(いや陰謀)がある。

 そもそも、LGBTも、男女共同参画も、前提として、それを保証する、健全な国民国家が背後に控えているという前提があってのことである。まず、「自国民、いや日本国民ファースト」となぜ言えない。
 それを主張することすら禁忌にする、覇権国家、反日国家、それに加担する国内パヨク・売国奴勢力など、敵は、いくらもいる。

 ということで、私は、太宰治流に言えば「あかぐろいぶおとこ」であり、かつ老境(前期高齢者)に入り人並みにハゲ(うちの妻が嫌がらせに頭頂部の写真を撮ってくれる。汝自身をしれ、ということであろう。ありがたい話である。)で、糖尿で、高脂血である。
 自慢ではないが、加齢臭もありつつ、見た目がすべてという世間知からすれば、性的にも社会的にも禁忌・阻害される被差別対象に該当する。

 しようがねえなということである。諦観は友達である。

 ところで、外見第一ということでいえば、もちろん、ポピュリズム政治家が最も敏感である。外見の差は、まさしく票に響くのである。

 かつて、うちの妻に、「学歴詐称は政治家欠格だけど、あのかつらをかぶった政治家は、選挙民をだましてるんじゃないのかね、むしろ学歴詐称より、罪が重いんじゃ」と尋ねると、彼女は「人間、外見がすべてなのよ、その努力を誉めるべきよ」と答える。
 ジェンダーの差による、政治的感覚の差異に納得した。
 
 やむを得ないので、「こちとら醜男(ぶおとこ)だが、整形もしてねえし、かつらもかぶっちゃねえよ」、「ボロは着てても心は錦(それほどでもないが)」と、私は尻をまくることにしよう。

  ひょんなことに戻る。
 私は、うちに時々やってくる、黒毛多めの三毛猫にえさを与えることになった。

 その前置きとして、それより前に、野良猫たちが、我が家のバックヤードに、子づれでやってきていた。
 たぶん、それは猫にすれば、この家で支援があるのかどうか、瀬踏みの状態であったに違いない。
 見ていて、私がこらえきれずに、えさをやろうとすると子猫は逃げる、そのうち来なくなり、最後に、さして、美しくない、少し年かさの三毛が残ったわけである。
 三毛の配色で、黒が強いのは、見栄えがよくない、かわいくない。
 そのうち、甘い家だと思ったか、大きなオスのキジねこまでがやってきたが、ふてぶてしい態度であり(私見) 追い払ってやった。それは私の気分と感情である。

 外孫たちが、我が家に来るようになってから、どうも、私は、幼猫や、飢えた雌猫に弱い。
 ねこが嫌いな妻にののしられても、孫のアレルギーを恐れる娘に決めつけられても、やっぱり餌をやるのはやめられない。

 三毛はほぼ雌猫であるということであるのだが、私の幼年時代に、我が家にもメスの三毛猫がいた。
 祖父母がかわいがっており、いわば、家に常時猫がいるのが、普通の生活だった。
 しかし、農家であったので、祖母なども甘いかわいがり方はしていない。
 ときに、縁側で、私が撫でたりひっぱったりなどして構えば、じっと我慢していた。
 祖母は、子猫が生まれれば、大雨が降った後など、家のそばの大川に流していた。
 私もそんなものだと思っていた。

 妻は、ねこの代わりに犬を飼え、という。じゃあ、散歩は誰が行くの、というと黙る。
 昔、犬を飼っていたことがあり、いい奴だったが、ひとめを忍んで出かける、毎日の散歩には心底くたびれた。
 しかし、座敷犬は好まない、猫かわいがりの犬を、私は好まない。

 以前に「斎藤洋の面白さについて論じること」というブログで、斎藤洋の童話を扱ったことがある。
 うちの子が小さいころ、斎藤洋の「ルドルフとイッパイアッテナ」という、子猫の一人語りで進む、師匠(トラねこ)の指導で、文字を覚えた猫の修行・成長物語を読み聞かせた。
 こどもたちも夢中になったし、この読み聞かせは、私の家庭へのわずかな貢献であるかもしれない。幼年向け(小学校低学年)童話であるが、「吾輩は猫である」と同様に、猫の文明批評や人間批評が面白い。
 斎藤洋氏の童話というのは、読み聞かせをするうちに、親が夢中になってしまうところがある。
 斎藤氏の著書を知ったのは良い体験であった。

 その後、最近になって、この童話が再度劇場用にアニメ化されているということを知り、試しに録画し、当時3歳の孫に見せてやると、ところどころ煩悶(?) しながらも、懸命に見入っていた。
 結局、何度も見返すこととなった。

 原作の中で、作者が、「(のら)ねこにえさを与えるのは絶対的に正しい」と力説する場面があり、なるほどそうかなあ、と考えたことがある。
 さすがに、私も、一時の感情で、野良犬にえさを与えるなどの、反社会的(反地域社会的)な行為に組することはない。
 しかし、それこそ、野良の状態で決して長くは生きられない(ねこ好き吉本隆明家の長女、ハルノ宵子さんの著書にそんな記載があった。)野良猫に対し、えさをやるのは、人倫に反することとは私には思えない。
 社会的責任とかいう前に、長くは生きられない害の少ない弱いものに対し、限度を超えずに、無償で贈与することは咎める必要があろうかと思われる、のである。
 世の中には、捨て猫をほっておけない人がいて、私が知る人は、公園近くのかん木林に、隠れているねこに対して、通いで、たぶん毎日えさをやっている。
 私はそこまでできないし、しかし、隠れるようにやってくる彼女を咎める気もない。
 ぼろぼろのネコを見かけたら、妻は止めるが、私は、何かしら手持ちの食べ物を探す。

 ねこが畑にふんをする、植えた種苗を台無しにする、とか知り合いからよく聞いた。
 彼のねこが、私の、大事なワケギの植え込みを荒らしたら、さすがに私も憤激するかもしれない。

 しかし、試しに聞いてみると、島しょ部に住む私のおばは、畑を荒らされたとしても、やはりえさは引き続き与えるという。
 身びいきというか、好きなものに肩入れしたい気持ちはよくわかる。
 「愛憎」や執着には何らかの理由があるものである。
 先に、畑を荒らす土鳩に、ねこいらずを食べさした、という話を聞いた。まあ、そんなものであろう。

 アニメに触発されたかどうか、うちの孫は、彼のねこに、「ねこちゃん」、「ねこちゃん」と付きまとう。幼児として、小さいもの、かわいいものは好きらしく、下の孫も同じように付きまとう。
 迷惑なねこは逃げていくばかりである。

 しかし、おばの住む、架橋された島では、もともとの漁師かたぎなのか、ねこたちは住民に優遇される。
 そういえば、NHKBSの「世界ねこ識」を見ていても、一見怖そうで武骨な外国の島の漁師たちも、ねこに魚を与える。多くの人にとって、身近なねこをかわいがることは、自然なことなのか、と思う。
 島のねこは、始終、住民たちに給餌されるのか、人をあまり嫌がらない、孫どもが、ねこちゃん、ねこちゃんと触っても、じっと我慢している。思う存分、ねこに触れて彼らは幸せである。
 しかし、ねこどもは、魚肉ソーセージで吊ろうとしても寄ってこない、ねこ用の、嗜好食品でも取り出さないと、自らはやってはこない、そんなものである。

 そういえば、「どろぼうねこ」という言葉は女性の呼称である。
 ねこを好む人に、男性も多いことも、とても納得がいくところである。

 なぜ、無責任(妻に言われる。)にもねこに給餌するのか考えてみる。
 昔、うちの飼い猫も、私が撫でてやると我慢していた。今思えば、器量の良いねこであった。長命だったので、私が結婚したとき、まだ実家に住んでいて、うちの妻が、そっと寄ってきたねこの尻尾にさわられ、「キャット」叫んだというのは笑い話である。
 実家にねこがいなかった妻は、それ以降ねこが嫌いになった、と力説する。
 それはさておき、なぜ、うちの実家が嫌いだったかは、別の原因があったと思うのだが、うちの祖父母が存命のころは、よく実家に通っていた。動物は好きなものにはなつく。私も同様である。いささか、薄情な性質(たち)ではあるが。

 閑話休題、彼の三毛猫は、愚かではないような気がする。
 私が本当に嫌うことは、どうも彼の方から避けている、ように思える。
 そのうち、よくある孤独な老人のように、つい、ねこに話しかけてしまう。

 いつも、ドライフードを給餌しているが、私が「今日はこれでおしまい」というと、どこかへ帰っていく。

 斎藤洋氏の著書の主人公ルドルフ(大きなトラねこ)ように、彼らはいくつかの給餌場と関係性を確保し、それぞれで違う名前をもっているのかもしれない。どうもそういう生活を送ることも多いらしい。

 秘密のある、自立した存在は魅力のあるものである。
 ねこを見ると、彼がいることで、どこかに、我が家の調和(?) があるように思える。
 今になって亡き祖父母と暮らせないことでもあり、非常に勝手なやり方であるが、三毛を見守りたい、と思う。

 いずれ、それ見たことかと、妻にそしられるかもしれないが、当面、成り行きを見ていくつもりである。

 夏目漱石の「行人」だったか、「この世の中には片付くことなど一つもないんだよ」という、主人公の述懐があったが、ねこに関しても、私はそう思う。