アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

25 岡崎・聖護院 地域 寺社記事検索一覧 

2016年08月14日 08時06分38秒 | 寺社数々

項目をクリックするとその記事にワープします

 

岡崎

白河院址  ➔  白河院・法勝寺 址・・・・平安時代

 

六勝寺址

  法勝寺

  尊勝寺

  最勝寺

  円勝寺

  成勝寺

  延勝寺

東三条ノ森址

鵺塚・秘塚址

岡崎公園

市立美術館  ➔  京都市美術館  ルーブル美術館展、マグリット展

          PARA SOPHIA 京都国際現代芸術祭 京都市美術館の展示

             まち歩き左0077   モネ・ルノアール 展  京都市美術館

京都国立近代美術館

府立図書館   ➔ 「府立図書館」 日本で初めての公衆図書館

 

みやこメッセ

京都会館

市立動物園

平安神宮 ➔ 「平安神宮」の  大鳥居 

  神苑

  時代祭

  西天王塚

有麟館

満願寺  ➔ 満願寺  洛陽12支めぐり・辰

風羅坊址

岡崎神社  ➔ 岡崎神社 うさぎが安産人気

  雨神社

岡崎別院  ➔ 岡崎別院   真宗大谷派東本願寺 別院

香川景柄旧宅(梅月堂址)

小沢芦庵旧宅址

金戒光明寺(黒谷)  ➔  金戒光明寺の参道にチンチン電車の敷石が使われています 

            黒谷の塔頭・常光院  通称寺 八はしの寺

             黒谷 塔頭のいろいろ

   三門

  御影堂

  鎧かけの松

  阿弥陀堂

  経藏

  観音堂

  大方丈

  鎧池

  蓮池院(熊谷堂)   熊谷堂 (蓮池院)  敦盛VS熊谷

  勢至堂

  文殊堂

西雲院(紫雲石)  ➔ 黒谷の塔頭・紫雲院  紫雲石が有名・法然上人のゆかりの地

        

西翁院

名家墳墓

香川景樹宅址

善正寺  ➔  善正寺  豊臣秀次の菩提寺・母の悲しみ

聖護院  ➔  聖護院 (しょうごいん)

        

積善院準堤堂 ➔ 積善院準提堂 (しゃくぜんいんじゅんていどう)  「人喰い地蔵」 がある

  崇徳地蔵 ➔ 崇徳院地蔵・人食い地蔵

  お俊・伝兵衛恋情塚

須賀・交通神社  ➔ 須賀神社・交通神社

御辰稲荷神社   ➔  神社左0016  御辰稲荷神社  芸能上達・願いの叶う真黒石 

白河北殿址

崇徳院粟田宮址

藤原頼長桜塚址

中島棕隠宅址

白河南殿(蓮華藏院)址

二条新地址

カラスがシンボルマークの「熊野神社」

公安院  浄土宗

明道寺  門の小さな寺です


 

 


古墳向日04  物集女車塚古墳 石棺も出土

2016年08月14日 08時00分20秒 | 史跡・旧跡

 

 

石室からの排水溝 出口

 

 

 

 

物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道部では梱石までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは、合流して墳丘外へと抜ける。

 この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石をロ字形に組み合わせたものと場所によって異なる。

 

 

 

この解説版の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が通津したときは、石室を除湿する水が少しずつ流れ出る。

 千数百年を経過しても機能する小さな排水溝一つとっても、古代人の英知が伺える。

横穴式石室の床面

 

 

 床面下部の排水溝

 

蓋を取った状態の排水溝

 

排水溝 平面図

 

石室断面図

 

 

 

 

 

 

 

 

今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるための調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円の築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。

1920年代の後半(昭和初年)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、1983年(昭和58年)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による寝食をまぬがれたといえる。

 

 

 

 

古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成されている。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半分には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。

 

 

公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるのではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形上に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。

 

 

 

石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な法界の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだった。そこで、石室の解体・復元・壁材の修理をおこなうことになった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3種に分かれている。石室は、台地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石と石をつなぐ接着剤の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていた。

 なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたことが注目される。

当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

石室と石棺

石室は石棺を納める玄室と玄室への通路にあたる羨道とからなる。石室の床面には、小さな玉砂利が敷かれているが、その下には、複雑な構造の石組の溝を設置し、排水に努めていた。玄室には3~4回の埋葬跡が認められる。最初の埋葬には、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いた。石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起が作り出され、内面にはベンガラが塗布されている。

発掘したとき石棺の前面に散乱していた2組の石材は、本来、石棺上に載せられ、副葬品の陳列棚として用いられた可能性がある。

 石棺内からは多数の副葬品が出土した。中でも特異な金銅製冠や三輪玉等の存在は、墳丘の形態や出土埴輪の特徴等と合わせて、古墳に埋葬された乙訓地方の王が、淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示す。かつ、滋賀県や福井県の古墳等とも強い共通性がみられる。6世紀前半、大和朝廷の混乱の中、ここ乙訓地方には、北陸から出た継体天皇(男大迹王)の「弟国宮」がつくられる。当古墳の埋葬者も継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようだ。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

 

左の扉が石室の入り口か 

 

 古墳 前回の記事 ➔ 古墳右03 雙ケ岡1号墳

 関連記事 ⇒ まとめ0029  古墳

今日の俳句

灯ふたつに 照らされてゐる 守宮かな /狐月


下のユーザー地図でこの近辺の記事が見つかります