アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き下0499 梅小路公園の市電 昔の市電の写真

2017年06月21日 21時10分06秒 | まち歩き

 

 

四条烏丸 付近  東を見る

 

京都駅構内

 

        山陰線 七条通踏切・昭和45年6月撮影 山陰線の高架化以前、七条通では線路をアンダーロスしていた市電と異なり、路面の道路部には踏切があった

 

       東山線(叡電前) 昭和53年9月撮影 通称「叡電交差」の東南角には戦後の一時期、市電の乗り入れ用の渡り線があった。なお叡電の駅名は「元田中」

 

    今出川線(加茂大橋~河原町今出川) 昭和45年1月撮影 雪化粧の大文字山を背に加茂大橋を渡る電車。朝ラッシュ時とあって、赤く書かれた「急行」の円板をつけている。

 

       トロリーバス(四条大宮)昭和44年9月撮影 四条大宮~松尾橋間のトロリーバスも昭和44年9月末限りで廃止された。写真は四条大宮での方向転換風景。

 

四条線(四条京阪前) 昭和469月撮影 四条大橋東詰めで平面交差する京阪の通過を待つ市電。「ガタガタッ、ガタガタッ」の独特のレール音がしていた。

 

       白川線(ストライキ中の錦林車庫)昭和50年11月撮影。 ストライキ中で車両が一杯の錦林車庫。

 

     九条線(東福寺) 昭和53年9月撮影 市電全廃直前の撮影で、車両にはお別れの飾り付けが施されている。電停の後ろに見えるのは第一日赤病院。

 

      千本・大宮線(七条大宮~東寺前) 昭和46年9月撮影 東寺に向かって大宮通りを南行する⑦号系統。東海道線を跨ぐ大宮跨線橋には今も当時の架線柱が残っている。

 

     西大路線・九条線 (西大路九条) 昭和52年12月撮影 京都市の外周を囲む市電路線の西南角の急カーブを持電車は九条通から西大路通りに向きを変えて北行する。

 

     烏丸車庫前(市電全廃の日) 昭和53年9月30日撮影 この日を限りとして京都市電は83年余に亘る歴史に終止符を打ち、車庫前では終日多くの市民が名残を惜しんだ。

 

 

      花電車(北大路線・北大路堀川付近)昭和33年10月撮影 京都市自治60周年を記念して運転された「花電車」小型4輪単車の外部に装飾を施している。

 

    烏丸線(烏丸今出川~烏丸中立売) 昭和49年3月撮影 御所の内から西側の中立売御門を望む。烏丸線の市電が無くなったいまも、その落ち着いた風情は変わらない。

 

  烏丸線・北大路線 (烏丸車庫前) 昭和44年3月撮影 北大路線から烏丸線へ交差点を右折する21号系統。後方の烏丸車庫事務所の半円形の窓口が見える。

 

 

市電のあるところ  ➡  まち歩き伏0365  小学校 校庭に市電がありました

                まち歩き左0198  図書館前広場に市電

                電車がビルの中にありました

まち歩き 前回の記事 ➡   まち歩き上0498  古風な2階建ての家  屋根が大きい

五七五

バス来る方みんなで見てる停留所 /長尾

ことわざ

任重くして道遠し

 


石碑右0119  治水碑  御室川

2017年06月21日 08時33分06秒 | 石碑

 

京都の西郊を流れる御室川の治水工事を,流域の葛野郡梅津・西院・京極・吉祥院の4か村が協力して行い,その竣工を記念した碑。首唱した京極村の中心部である山陰街道沿いの現在地に建てられた。

1906年建立 

葛野郡梅津村・西院村・京極村・吉祥院村

治水碑【篆額】

          貴族院議員正三位勲二等男爵   北垣国道   篆額      山田得多

 平安城西双岡以南田野平曠村落相望御室川貫其間南流入桂川平時水涸無涓」

 滴暴雨則濁流奔溢毀*没田其害甚大脩治之費役作之労村民常患之京極村長」

 湯川半左衛門等相議大改脩之梅津西院吉祥院三村咸賛之遂請官得允明治三」

 十三年十一月剏工三十八年一月告竣改流域減長十二間餘而加広二間廃沿川」

 地五千八百九十歩脩両*長各千六百八十間餘高一間六分厚三間而其上殺三」

 分之二費金弐万九百八拾円其六出於官其四係村民之出於是村民始免積年之患   【「係」字行間後補】」

 矣乃相喜曰嗚呼是挙也能除難除之害以永福利宜建碑不朽其功遂来索予文予」

 以郡宰親董是役当事吏胥皆能竭力規画以致是喜而村民之喜乃予喜也因不辞」

 而係以銘曰

    不溢不壊   偉哉治水   一片貞#   紀功志喜

       明治三十八年六月      京都府葛野郡長従六位勲六等   有吉三七

 [北西]

 組合管理者

          葛野郡長         有吉三七

 関係村長

          梅津村長         小山弥三郎

          西院村長         西村 太郎

          元西院村長      太田時治郎

          京極村長         湯川半左衛門

          吉祥院村長      石原菊太郎

          元吉祥院村長   小原伝之丞

          同                    岡崎清右衛門

 [北東]

 油小路魚棚北      石巳

 

御室川治水碑 碑文の大意

 京都の西郊では,双丘(ならびがおか)より南は田野が広がり,その中に村々が点在していた。御室川はその田野の中を流れ桂川に合流する川である。ふだんは水が少ないのだが,大雨になると濁流があふれ耕地をひたし,その損害は大きなものがあり,川普請の経費や労力は流域村民の悩みのたねだった。そこで京極村村長湯川半左衛門らは大規模な治水工事を企画し,流域の梅津・西院・吉祥院の三村もこれに賛同した。

  計画の認可を受け,明治33年11月に起工し,同38年1月に竣工した。この工事で川の流れは12間あまり短くなり,川幅は2間拡張した。川沿いの土地5890歩を供して堤防を作り,その延長は両岸おのおの1680間余で高さが1間6分,下部で厚さ3間,上部で2間にも及んだ。総工費は20,980円で,6割が京都府から支出され,4割が地元負担であった。

  治水工事の完成で永年の悩みが解決され,村民はこの業績を顕彰するために石碑を建てることを計画し,わたし(葛野郡長有吉三七)に碑文を依頼した。わたしは郡長としてこの工事に関係し,配下の者もよく力をつくして完成に至ったのである。すなわち村民の喜びはわたしの喜びでもある。このためあえて文を作った次第である

関連記事  ➡   人物008  北垣国道

石碑 前回の記事  ➡  石碑上0118  初代上京区役所跡

五七五

雨天決行 体内時計 熱くして /長島

ことわざ

思い立ったが吉日


人物008  北垣国道

2017年06月21日 08時31分20秒 | 人物数々

 

1  石碑左0073  田辺朔郎紀功碑

2  まち歩き左0246  琵琶湖疏水 公園一帯  

3  まち歩き山0224  諸羽トンネル  船溜まり

4  まち歩き東0194  蹴上インクライン  三十石船

5  まち歩き東0193  ねじりまんぽ  

6  琵琶湖疏水の功労者  北垣国道

7  黒谷 金戒光明寺

8  石碑右0119  治水碑  御室川