アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

人物検索 一覧

2020年02月03日 13時39分17秒 | 人物

1 木食養阿上人

2 人康親王

3 織田信長

4 伏見義民

5 黒田官兵衛

6 小堀遠州

7 山脇東洋

8 伊藤若冲

8 北垣国道

10 角倉了以

11 坂本龍馬

12 

13 菅原道真

14 畠山勇子

15 弁慶

16 佐久間象山

17 惟喬親王

18   元三大師・慈恵大師

19 和泉式部

20 吉田兼好 兼好法師

21 今尾景年

22 与謝野晶子

23 本阿弥光悦

24 秋山自雲

25 安阿弥

26 在原業平 

27 淳和天皇

28 北大路魯山人

29 円山応挙

30 法然上人

31 九条武子

32 最澄

33  清少納言

34 道元禅師

35  三条小鍛冶宗近

36   三宅安兵衛の道標

    三宅安兵衛 石碑 その2

37   神南辺道心

38   小野篁 

39   紫式部 

40   富岡鉄斎

41   俊寛

42   明治天皇 行幸地 

43   明智光秀

44

45  新島 八重

46  岩倉槇子

47   桔梗屋辰路 幕末の志士との悲恋

48

 

 

 

 

 


人物034 まとめ017 道元禅師

2020年02月03日 11時21分21秒 | 人物数々

 

1200年 京都に生まれる 宇治市木幡で生まれたと推定される。

3歳  父(内大臣、久我通親)亡くなる

8歳  母(藤原基房の娘)亡くなる。母は死を前に「仏門にはいれ」と諭している。

13歳  比叡山に登る。

18歳  建仁寺に入る 栄西禅師の門をたたく。

24歳  中国へ渡る。

26歳  中国で天童山 如浄和尚と会い、やがて如浄和尚のもとで大悟する。

28歳  中国から帰る。

31歳 深草安養院(現 欣浄寺)に閑居。ここで「正法眼蔵」を書き始める。

34歳 深草興聖寺を開く。いま日蓮宗の宝塔寺がある深草宝塔寺山町は道元が本格的な弘法救生活動に乗り出すため建てた深草興聖寺がかつて建っていたところと伝わる。

36歳 宇治に興聖寺僧堂を建立。

44歳 京都を去って福井へ。越前の武将 波多野義重の招きに応じる。 永平寺を創建した。

     名利に捉われず、理論を捨てて体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧

54歳 夏病をえて療養のため京都へ帰る。結核のようだった。

   8月28日 下京区高辻通西洞院西入ルの俗弟子の家で死去。「東山の赤辻」にて荼毘。

           円山の西行庵の真南裏を複雑に入り込んだ所にある

  遺骨は永平寺に埋葬された。

誕生寺 伏見区久我本町3-1   

源光庵 北区鷹峯西桝屋町1038   寺院北0502 源光庵  血天井

天寧寺 北区寺町通鞍馬口下る天寧寺門前町301  天寧寺  曹洞宗 額縁門

興聖寺 宇治市宇治山田27-1

靖国寺 宇治市宇治金井戸7-14

禅定寺 綴喜郡宇治田原町大字禅定寺庄地100

欣浄寺 伏見区墨染西桝屋町1038   寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

栄春寺 伏見区桃山町丹下30   寺院伏0324  栄春寺  曹洞宗  総門は伏見城の遺構  長沼宗敬澹斎の墓所 

 

関連記事 ➡  史跡下007  道元が亡くなった所

        まち歩き長0510  おとくにの竹

                     

 


人物018 まとめ018  元三大師 (慈恵大師)

2020年02月03日 11時19分46秒 | 人物数々

 

元三大師良源( 慈恵)

良源延喜12年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。延長元年(923)12歳の時仏門に入り理仙大徳に師事する。

良源は得度し、正式の僧となる時期目前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明ぐんの郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源し名乗り、修行を重ねる。

良源55歳で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。

 

慈恵大師(912~985)は第18世天台座主良源の号で、正月3日に死んだことから元三大師ともいわれる。尊意や相応など当時の天台の高僧の指導を受け、学業の誉高く、承平年間(931~938)の興福寺維摩会で南都の義昭を論破し、応和3年(963)の清涼殿法華会で法相宗の法蔵を説伏するなど、弁才人にすぐれていた。

また、承平5年(935)、および康保3年(966)の火災で荒廃した叡山を復興した功績も大きく、天台宗中興の祖とあおがれている。それとともに、鎌倉時代には慈恵大師に対する特殊な信仰がおこっていきた。

それは33体、66体、99体という多数の慈恵大師像をつくることで、曼殊院の像の銘文によると、33という数は三十三観音をあらわすらしく、この像をつくった目的は、現在もおこなわれている大師の像を印刷した護符を家々の門にはるのと同様、これによって怨霊鬼霊のなす災いからまぬがれようとしたのであった。

この民間信仰的な大師像制作の動機は、鎌倉時代において、大師信仰がひろく民間に普及していたことを物語っている。

 

後世元三大師という俗称が一般的であるが、摩滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡、信仰され親しまれている

 

関連記事 ➡  寺院東0367  尊勝院  庚申堂

          廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址

           道標東0111  元三大師

           上善寺   忠臣蔵 ・軽女の墓 がある 

           左0155 横川 元三大師 近道


人物032 まとめ019 最澄 

2020年02月03日 11時18分59秒 | 人物数々

唐で仏教を学び、天台宗をつたえた平安時代の僧

空海(弘法大師)と並び称される平安初期の高僧で、天台宗の開祖。清和天皇の貞観8年(866)贈られた「伝教大師」の諡(おくりな)は、わが国最初の大師号である。767年、近江国滋賀郡の人で、俗称は三津首(みつのおびと)広野。ほくろがく首の左に1つ、左ひじの上に1つあったという。三津首家は、当時の村長クラスの家柄で祖先は中国からの帰化人とされる。

12歳で近江国分寺へ入り、19歳で東大寺で受戒、その直後比叡山に入る。12年間一人で修業した。延暦7年(788)比叡山根本中堂を建立し、30歳、宮中の仏事に奉仕する内供奉十禅師の一人に選ばれる。延暦23年勅を奉じて入唐、天台山に学んだ。空海も同年入唐して長安に学び、大同元年(806)帰国しているが、最澄は1年間の滞在で帰国し天台宗をひろめた。『守護国界章』『顕戒論』などの著があるが、弘仁13年(821)比叡山中の中道院で入寂したとき56歳であった。比叡山と切っても切れないので、比叡大師、根本大師などともいうが、その遺骸は弟子の円仁(慈覚大師)によって石棺に入れられ浄土院に納められた。

 伝教大師 関連  ➡  寺院東0362  金剛寺 八坂庚申堂

        寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道  

        寺院西0128   石の寺  正法寺 真言宗東寺派  

        寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行 

        松ヶ崎大黒天  日蓮宗  

        廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址  

        寺院中0241 善想寺 浄土宗  泥足地蔵   石仏

        寺院右0221  念佛寺  1200年前、母がこの地で亡くなる

        寺院長0171 乙訓寺 真言宗 最澄と空海が初めて出会った寺 ぼたん寺

        曼殊院  


人物030 まとめ022 法然上人

2020年02月03日 11時07分54秒 | 人物数々

 

石の唐櫃に納められて知恩院勢至堂の門内右手に埋められたのだが、比叡山の荒法師たちによって遺骸が掘り出されようとしたので、一時嵯峨の二尊院に移したものの、ここも天台僧によって危険になったので、今度は太秦のの大藪の中(今日の西光寺)に隠し、さらに西山粟野の光明寺へと移してここで荼毘にふしたという。激しい宗派の動きの中で、死後もつねに荒波の中に立った法然であった。

大谷本廟とともに光明寺にも廟堂があるのは、そのためであって、また、知恩院の古門前参道の白川橋にかかる石の太鼓橋は、「忠臣蔵」の天川屋儀兵衛とよく混同されやすい大阪の豪商・天野屋利兵衛の寄進による江戸初期の石像美術品だが、そこを少し入った所の華頂幼稚園前にある幼児の合掌姿の銅像は幼児の法然上人を現した「勢至丸」の像である。

法然上人は美作国久米の時国の子で、幼名は勢至丸といったのである。伝説によると、長承2年(1133)4月7日、母は剃刀を飲み込んだ夢を見て懐妊したといい、父は勢至丸9歳のとき源内武者定明の夜襲を受け、暗殺されたという。そしてその臨終に際して「復讐など毛頭考えてはならぬ。ただ衆生の往生極楽をはかれ」と遺言したといい、しばらくは付近の菩提寺へ弟子入りしたが、その年から勢至丸は比叡山に登ったという。著に『選択本願念仏集』などがある。

なお、後年配流の原因となる過失を犯した門弟というのは住蓮、安楽のことで、鹿ケ谷にある法然院は、その門弟の庵を大文字山の麓から移したもの。延宝8年(1680)知恩院の万無が、これを寺として構えたものである。

なお、東山渋谷通り上馬町の小松谷の俗称で通っている正林寺は、平重盛の灯籠供養をしたとして知られ、その碑を残しているが、また法然上人が流刑の際は、ここから出発したといわれ、本堂には上人の像を安置している。

遺跡は比叡山、八瀬の青竜寺、黒谷の金戒光明寺、知恩寺、嵯峨の清凉寺、東山の知恩院、粟生の光明寺、相国寺の法然水の井桁、西光寺(太秦)、などたくさんある。

 浄土宗の開祖。かくし名は源空、比叡山の源光と皇円に天台宗を学び、のちに、黒谷の叡空について諸宗の奥義を極め、43歳の年、専修念仏にて浄土の法門を開いた。

東山に吉水(よしみず)園があるが、草庵を結んだ地として知られ、また大原の勝林院で南都・北嶺の僧徒と会って法門を論じた大原談義と話題を多くまいたが、門弟の過ちの責を負って一時讃岐(香川県)ら流された。建暦元年(1211)11月17日、許されて京に帰った際、前記の如く慈円和尚に迎えられて、今の知恩院の前身となった大谷の禅房に入り、翌年1月25日、80歳で大往生をとげた。円光大師は後の贈号である。

 関連記事 ➔          人物検索 一覧

 寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

           寺院長0170 光明寺 西山浄土宗  法然上人 蓮生上人

           寺院右0004 西光寺 (さいこうじ)  門が茅葺だ  浄土宗  

           


まち歩き八幡1150 石清水八幡宮 表参道分岐点

2020年02月03日 07時22分31秒 | まち歩き

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き八幡1149 石清水八幡宮 駒返し橋

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます