池の周囲は1.8キロメートル。水深は最深部で1.8mにすぎないが、その底は泥土の体積が厚く、その深さは3.6mをこえるところがあり、池の名もこれから起こった。池中には「じゅんさい」をはじめ、種々の水生植物や食虫植物が群落し、浮島を形成している。約10万年前に形成され、池の中にはハリミズゴケ、オオミズゴケで構成される浮島がある。この池にはホロムイソウやアカヤバネゴケ、ミズグモなじウルム氷期からの生き残りの種など貴重な動植物がみられる。
昭和2年(1927)天然記念物に指定された。
この池は、美度呂池または美曽呂池・泥濘池などとも記され、その名は古く淳和天皇が天長6年(829)10月、泥濘池において水禽の遊猟をされた記事をある。また僧行基ぎこの地で修法を行ったとき、弥陀菩薩が池上にあらわれたという伝説もあって、御菩薩池(みどろいけ)とも記す。室町時代には六地蔵巡りの1つに数えられる地蔵尊が安置されたりもした。
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北大路魯山人は明治16年(1883)3月23日、ここ上賀茂の地で生まれた。15歳で当時流行の「一字書き」で次々と受賞を重ね、一字書きの名手として名をあげるなど、年少時代から非凡な才能を発揮した。明治37年(21歳)に、日本美術展覧会に隷書「千字文」を出品し一等賞を受賞、その後、書や篆刻、刻字看板を制作し、併せて古美術と料理にも興味を持つようになった。
大正14年(42歳)に東京で「星岡茶寮」を開設し、仕入れ、料理などに卓越した技量を発揮して、美食家としてもその名を世間に知らしめた。昭和2年(44歳)に星岡茶寮で用いるため、北鎌倉に「星岡寮」を築き本格的に作陶を始め、多数の優れた作品を残した。
魯山人は、書、篆刻、陶芸、料理など幅広い分野で人並み外れた優れた業績を残し、昭和30年(72歳)に重要無形文化財(人間国宝)の認定を打診されたが、固辞した。美の追求に一生涯を掛けた偉大な巨人であったが、世間の名声にはまったく無頓着であった。昭和34年(1959)12月21日、76歳で横浜の地で逝去し、京都西賀茂の小谷墓地に葬られている。
平成21年3月23日
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当神社は延喜式神名帳に記載されている古社で、一名に恩多社とも云われる。鎮座年代は不詳なれど賀茂に於ける最古の社であり、賀茂県主族の移住以前より農民から長寿福徳の神として信仰が寄せられていたようである。ご祭神の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天岩戸の前でお神楽をされた神で、その御神徳を慕って芸能上達を願い参拝される方が多い。
また、寿命長久、病気平癒、縁結びの信仰がある。上賀茂神社の境外摂社となり、上賀茂八摂社の1つに数えられる。寛永5年(1628)には本殿と割拝殿が造替された。
また、境内東側の沢池を大田の沢(おおたのさわ)といい、野生のカキツバタが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に「神山や 太田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」と詠われ、平安時代からこの地にカキツバタが咲き乱れて、すでに名勝となっていたようである。今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく沢一面に咲く。このカキツバタの群落は昭和14年に国の天然記念物に指定されている。
例祭は4月10日と11月10日である。
毎月10日に御神楽が奉納されていたが、現在では2月24日の「サンヤレ祭」がこの社の行事となっている。
京都市
紀元2600年記念の灯籠
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臨済宗南禅寺派の大本山での正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門(大明国師)規庵祖円(南院国師)によって創建された。以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行われると「五山之上」という最高位に列せられ天下の尊崇を得て今日に及んでいる。勅使門、三門は重要文化財に大方丈(清涼殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。京都市
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延元4年(1339)南禅寺15世、虎関師練が開山大明国師(無関普門)の塔所としてひらいたのを、慶長7年(1602)細川幽斎によって再興された塔頭で、細川家の菩提寺となった。
方丈の襖絵は長谷川等伯64歳の時に描いたものといわれ、水墨による「商山四皓図」8面、淡彩による「禅機図」16面・「松鶴図」8面、計32面(重文・桃山時代)は等伯晩年の作だが、筆力がある。
庭園は方丈の東に枯山水の庭園(明治)と書院の南部に池泉回遊式庭園(南北朝)の2つからなっている。
境内墓地には細川幽斎、梁川星巌夫妻、横井小楠夫妻、歌人渡忠秋、医師新宮凉庭 等多くの名士の墓がある。
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京都市中には、呉春、円山応挙、岸駒などの居宅跡があって、石標が建っている。明治・大正時代には、その門下の画家たちがたくさん住まいしていた。
景年は鈴木門下に入り、精緻な画風で知られ、同門の松年、久保田米僊らと並び称された画家である。
明倫学区の御倉町(三条通烏丸西入ル南側)に、円山派の今尾景年(1845~1927)が住んでいた。同町の『千總』の主人が、景年の技量を早くから認め、岸竹堂が描いていた刺繍の原画を景年にも描かせていたといわれる。
景年は衣棚二条上ル西側(梅屋学区)の悉皆屋今尾猪助の三男として生まれた。子どものころから絵を器用に描くので、家業の上絵の手伝いをしていたという。景年は上絵だけでは満足せず、どうしても絵師になって本絵を描きたいと願っていた。
その景年の作品が元富有校(中京区)に残っていた。同校の30周年記念(明治33年)を祝って、景年自身が寄贈したと伝わっている。「不老図」あるいは「松芝萬年図」ともいわれている。
また、聚楽校(上京区)には、師匠の鈴木百年の実子である松年と景年が二人で描いた墨画淡彩の「和漢故事人物図」が押絵張屏風6曲一双に仕立てられて残っている。
年譜
弘化2年(1845)8月12日、衣棚通二条北入ルに於いて悉皆業を営む今尾猪助の三男として生まれる。名は永勧、幼名を猪三郎といい、字を子裕と称した。
景年のほかに卿自斎という号もあった。