1869年(明治2年)10月26日 - 下京第17番組小学校として開校(間之町五条下ル大津町)。
1871年(明治4年) - 下京第25番小学校と改称。
1872年(明治5年) - 間津小学校と改称する。
1876年(明治9年) - 現在地に移転し、稚松小学校と改称する。
京都市立稚松小学校(きょうとしりつ わかまつしょうがっこう)は、京都府京都市下京区若松町にあった公立小学校。のちに京都市立菊浜小学校と統合され京都市立六条院小学校となったが、2018年12月現在は再度統合され京都市立下京渉成小学校となっている。
稚松小学校の閉校後も一部残されている鉄筋造の校舎は、京都市内で2番目に造られた鉄筋コンクリート製の建物であった。最初の校舎は、1869年明治2年10月26日、間之町五条下ルの大津町の校地に開校した際のもので、瓦葺2階建の木造講堂(28坪)と瓦葺平屋の木造教室(40坪)の2棟が、149坪余の敷地内に建つものであった。現在の校地に新築移転した際の校舎は、瓦葺2階建の木造講堂(以前の講堂を移築)と瓦葺平屋の木造教室(120坪)からなる375坪の敷地を持つ校舎であった。児童数増に伴い、校舎は手狭となり、1885年明治18年2月に教室棟を新築し、2階建てに、その後、1902年明治35年から1911年明治44年の間に、2期に分けて校地の拡張が行われた。結果、校地は671坪余りにまで広がった。
大正になっても、児童数の増加は更に続き、狭小な校舎による不便は解消されなかったため、1923年大正12年、より大規模な改築工事を実施することが決定した(創立50年の記念事業)。翌年8月28日に起工、1925年大正14年7月30日に落成したのが、鉄筋コンクリート造3階建て(地下1階)の本館・教室棟(263坪)である。『わかまつ:稚松小学校百周年記念誌』によれば、古老の話としてこの時のことが紹介されている。稚松校出身で、同志社を卒業し、アメリカ留学の経験もある楠井貫一が大倉商事に入社したため、建築関係のことで校舎の建設に当たった大倉組の活動に寄与した、というものである。同様に古老の話として、新校舎にはコの字型のシャッターが設置され、当時珍しかった防火シャッターを備えた建築であったという。また、建物のモデルにしたのは、大阪の船場小学校の校舎であったということも、語られている。その後、第2期工事で、1929年昭和4年8月10日に鉄骨、鉄筋コンクリート造の平屋建ての講堂棟(98坪)と、鉄筋コンクリート造で2階建ての職員室および作法室(38坪)が完成した。この当時の敷地面積は、885坪であった。これらの校舎は、稚松小学校の閉校後、六条院小学校でも使用され、六条院小学校の閉校後に、本館・教室棟は、その一部を残して解体された。
京都ニュース 2020.12.21
ユネスコ無形文化遺産 伝統建築工匠の技 登録決定
京都市関係では
● 檜皮葺(ひわだぶき)・柿葺(こけらぶき) ⇔ 全国社寺等・屋根工事技術保存会
茅葺(かやぶき)・檜皮採取・屋根板製作
● 建造物装飾 ⇔ 社寺建造物美術保存技術協会
● 畳製作 ⇔ 文化財畳保存会
● 装潢(そうこう)修理技術 ⇔ 国宝修理装潢師連盟
傷んだ古文書や絵画を修理するエキスパートの『装潢師』ふすまやびょうぶ、古墳壁画もする。
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