カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ヒア アフター

2011-03-26 | 映画
映画「ヒア アフター」予告編


ヒアアフター/クイント・イーストウッド監督

 実は東北関東大震災の前日に観た。現在は津波の影響で上映停止になっていると聞く。被災したわけではなく、オープニングにすさまじい津波の場面で始まる映画だからだ。
 僕自身の感覚で言うと、確かに翌日の現実の津波は、デジャブというより、少しリアルさの欠けるような、妙な浮揚感のあるものに感じられた。おそらくその波にもまれているその瞬間に、多くの人が現実に亡くなられているだろうということが、映画よりも信じられないという感じがあった。作り物の津波よりも、現実の津波はむしろゆっくりしており、波のおどろおどろしい高波のようには見えない。白い怒涛のしぶきをあげる映画の波は派手だが、しかしその水の透明感だとか、一気に流れながらもどこか柔らかな感じすらする迫力で、やはりあれは人間の想像の映像化なんだということを後で思うのだった。実際の押し寄せる津波は、あれはいったいなんだといぶかしげな押し寄せ方に見えて、近づくと猛烈な圧力ですべてのものを押し流していった。海の水があんなにも黒々とおぞましく汚らしく見えるものなのかと息をのむ思いだった。

 映画の内容に戻ると臨死体験や死後の世界とのかかわりなどを巡る群像劇で、テーマとしてはよく分からないが、人間の精神的なつながりと心の中の理解は別なのだということなのかもしれないのだが、下手をするとこのような題材だと、妙に陳腐になりかねないもののように思うのだが、上手くまとまっていて、観た後の感覚は悪くはない。イーストウッドは、多少はひねくれているが上手い職人さんだなあと思うのだった。人間というのは分かりあえるよう努力をするものの、本当には確かに分かりあえていないのかもしれない。しかしお互いにどこまで納得できるのかというのが重要で、心の中がすべて見えるようでは逆につらくなってしまうものだし、しあわせにもなれないのだ。何を言っているんだというようなことだけど、つまりそういう感じのことを考えさせられるのだ。
 また、人は身近な人の突然の死を、そう簡単に受け入れることができないのかもしれない。身内の人間は、自分自身とは違う人格ながら、自分自身の一部だからだ。長い時間をかけて失われたものを確認しなければ、欠けたものを埋め合わせることはできないのだ。
 また、震災のことに戻るならば、ただでさえ突然の災害に呆然とする思いの中にあって、身近な人の、行方の分からないまま生きているのか死んでいるのかさえ明らかでない状態がどれほど当人を苦しめるものなのだろうか。目の前で亡くなったというのを見ることは大変に残酷で悲惨なものであろうけれど、しかし死んでしまったのだという確認を目の当たりにすることでは、むしろその死を受け入れるということにはつながりやすいのかもしれない。もちろん、できるならば病院などで医者などの第三者が機械的に死亡を確認してくれる方が、よりメタレベルで死を受け入れやすくしているのかもしれない。災害というのはそういう意味で、最も死が宙ぶらりんのような、受け入れがたい別れの形なのかもしれないのだった。
 震災のこの時期にこのような映画がどうなのかというは、正直に言って僕にはよく分からない。ただ僕は、このようなタイミングで観てしまったというだけのことなのかもしれない。運命的に運がどうだということではないのだが、遠くの被災民の方々を考えるとき、むしろこのような映画を観ることは、必ずしも不謹慎なことではないとは思う。もちろんとても観る気にもなれないという心情はよく分かるにせよ、人の死というものを考える上では、決して害のある映画などでは無いと僕は思う。
コメント
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