ザ・ヘルプ~心がつなぐストーリー/テイト・テイラー監督
1960年代の米国南部での黒人女性のお手伝いさんを巡るお話。そのようなお手伝いさんをヘルプと呼んでいたものらしい。日本でも在宅介護職員はヘルパーさんなどと呼ぶので、同じような感覚かもしれない。違うのは当時の南部では黒人差別がまだ残っており、虐げられた人々がどのようにそのヘルプの仕事をしていたのか、ということのようだ。
日本にお手伝いさんがいない訳ではないし、「家政婦は見た(実際にこれを通してみたことは一度もないが)」などのドラマもあるくらいであるが、やはり根本的に差別の対象ということとは少し違うらしい。お手伝いを雇うというのはそれなりの金持ちである必要もありそうだけれど、そんなに金持ちでない場合の白人家庭でも、本当に黒人の手伝いを雇えたかというのはよく分からない。低賃金で一方的に解雇するなど不当な扱いをしたというのは事実らしいが、現代の目で見ることの困難も多そうな感じもつきまとった。差別意識というのは差別をしても良かった以前の法律から考えて、なかなか変化しない中での南部のお話ということも考えておく必要があるだろう。また、実際にリンチや殺人が行われているようなケースもあったと思われるが、比較的にそういう衝撃度は和らげて表現しているように感じられた。主人公の家庭そのものでも、育ての母としてのヘルプさんという認識をしているらしいことから、人によっての感覚の違いの大きかった時代だと考えていいだろう。
しかしながらそうであっても、やはりヘルプの黒人は白人社会に怯えながら、子育てという重要な仕事を担わされている責任感や、もちろん賃金収入を得なければならないという生活のために、危険で不快な白人社会の中で働かざるを得なかった。不満は当然あっても、発言する場が無く、自分だけでなく危険が伴う可能性が排除できない。いくら安全であるからと促されたとしても、発表を目的としたインタビューに答えるリスクは大きすぎたということなのだろう。安全側である出版社にもそのようなことに対する最大の配慮をしているとも言い難く、本当にやる気があるのかという感じもある。結局上手くいけば儲かる手段の一つにすぎなかったのかもしれない。
そうではあっても、勇気を振り絞って発言する方向に傾くことで、問題が大きくなった人もいるが、おおむね社会的には影響力があったことが分かる。それは時代の流れでもあったし、必然でもあったのだろう。ドラマとして社会派過ぎない描き方をすることで、かえってそれなりの啓蒙に繋がる話になっているのかもしれない。
現在に至っても、有色人種のお手伝いさんは存在する。そして恐らくそのような職種としては多数派だろう。お手伝いさんの暴行を摘発するビデオなども話題になる。それらすべてが差別問題との関連があるとは言えないまでも、そのような構造の中に差別が潜んでいることは確かだろう。抑止力や啓蒙ということについては、繰り返しの映画化の必要はあるのかもしれない。