カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

皿うどんはめんどくさい場合がある

2016-02-28 | 

 長崎県人だからという訳ではないが、皿うどんは大好きである。ただし、どちらかといえば太麺。そんなことを言うと、長崎県人としては少し気が引ける気もするが、事実だから仕方がない。それというのも、厳密にいうと、長崎市の人にとっては、伝統的で正当な皿うどんとは、やはり細麺のことだろうからだ。
 中華料理店などで単品で注文すると、最初からあんかけ状態で来るので問題が無いが、いわゆるコース料理で皿うどんが来る場合は、時々注意が必要である。まず細麺が皿に乗ってくるのだが、これをおもむろに適当につぶして待つ(素手でつぶしてよい)。そうして後から具というか、あんかけのようなものをかけて食べる。長崎市の人だけが集まるような会合で宴席などがあると、ほとんどの人がこのようなスタイルを普通にとる。この場合太麺が良いとかいう選択肢がそもそもない気がする。皿うどんは太麺で食べる人もいるらしいが、そんなことはよそでやってくれ、という気位が感じられる。恐ろしいが、しかしこれはこれで旨いので、激しく拒絶するほどのことでは無い。
 言い忘れたが、もちろん食べるときは金蝶ソースを掛けて食べる。そうしなくてもけっこうだが、それならばできるだけ掛けてないそぶりは見せない方がいいだろう。掛け忘れたと思われて、隣の人が親切に掛けてくださることもある。「いや私は掛けない」と言うと角が立ちそうなので、とにかくばれないように素早く食べるべしである。またそのような席では酢をかけるのは遠慮しよう。きっと嫌な顔をされるだろうし、個人の好みとはいえ、大いにその場の人々を不快にさせてしまうことだろう。せっかくの料理を台無しにするような節度の無い人間として、印象を広めてしまうことになるだろう。
 さて、そういう恐ろしいことはめったに体験できないだろうからいいのだが、皿うどんというのは長崎県といっても、北部のものは別であると考えた方がいい場合もある。佐世保地区の皿うどんは、時々焼きそばのようなものがあるからだ。焼きちゃん、というのもあって、これは皿うどんのような感じだ。最近はだいぶこなれてきて皿うどんは共通認識できるところが増えてはいるが、町の食堂のような場所では、長崎県人でも驚きの別物が出てくる場合がある。ちゃんぽん文化も今や長崎だけのものではないし、皿うどん文化も、同じように多様性があるということだ。ただ、同じ長崎県だから共通認識で皿うどんが作られているという考え方は、捨てた方がいいと思う。まあ、それが楽しく食べて心の平穏が得られる心構えである。
 そういう訳で、僕自身は長崎市の限られたエリート層の人間ではないから、普通に太麺の皿うどんを食べて何の遠慮も感じていない。太麺といっても少し炒めてパリパリ感が残っている感じがベストだ。要するに家庭の味がこれだったということで、母が厳密に長崎市内出身者ではない長崎人(なんだかどうかは実は僕は厳密には知らない。母は謎の多い人なのだ)だからそうなっているのかもしれない。さらに結婚して、つれあいの作るものはやはりちょっと母とも違う。さらに彼女はソースさえもかけない。真似して慣れてくると、僕もそのような趣向性になっている。おふくろの味というが、既にそのような味が僕の好みのベースにさえなっていない。そうして皿うどんにおいても、食べ方の多様性の方が僕自身には好ましく思えるような変遷があったということなんだろう。
 でもまあときどきは何かの間違いで、細麺を無性に食べたくなる場合がある。そうして金蝶ソースをドバドバ掛けて食べるのだ。宴会なんかの時に、多少酔っぱらうとそうなる場合がある。そうしてそうやって食べてみて、やっぱり皿うどんは、どのように食べても旨いな、と思うのであった。
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