小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

十二月二十四日、二十五日、二十六日

2015-12-21 | 嘉永二年
十二月二十四日 
10時頃に例の餅つきやが来て餅を搗く。搗き賃は612匁なり。
2時過ぎに浅之助が来たのでぜんざいを出した。
三浦から使いが300疋と700疋を届けに来た。300疋は中元の祝儀で700疋の歳暮と一緒に寄越された。
権七が黒豆を1升ばかり持ってきた。
夜分に仁達は小原へ行く。故郷からの便りがあったとのこと。

十二月二十五日 
晴れたがすこぶる寒い。
権七を方々へ使いに出す。
清吉が来て酒を出す。了吉も来た。同じくぜんざいにてもてなす。
主人は三浦殿へ礼に行って帰宅した時だった。
夕方、浅之助が来る。
銀を受け取った後で、主人は遠藤へ鶏を持参し、それから岩橋へ行った。
良蔵は廻文を持って大橋へ。そのまま笹屋へ頼母子に行く。
(廻文の意味。多くの人に知らせるために、あて名を連名にし、順番にまわし読みする書状)
京都からの到来物の麩を野呂からもらう。
廻状は「仰せの通りのことあり候につき、明日二十六日に平服にて登城とのこと」とある。

十二月二十六日 
おおいに温かい。
朝、伴右衛門がきたが主人はお城へ行って留守。
今回の仰せのあらましは「この度、お上では借財が多いので先年のように三分五厘をお取りあげとなる」と山中殿が言い渡されたのだ。詳しくは近々廻状がくる筈。
主人はお城から山本へ行き大いにご馳走されたとのこと。
筆を三つ持ち帰ったので三人へ分けた。
仁達は日方の魚屋へ金を取りに行き四時前に帰り、祝儀を送られた。
金三歩弐朱と飯料三両二歩。八月九月十、十一、十二月分、一月金二歩づつ。他に弐朱。これは切手やたばこ代などの代金。
良蔵は岩橋へ米つきに行く。
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