小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

『母上の金比羅参り』

2010-11-03 | 環境

小梅の母の辰子は家付き娘で婿を取って川合家を継いだ。
生年は不明だが慶応二年(1866年)に没している。
嘉永二年(1894年)時点で小梅は四十六才で辰子没年の時は六十三才になっているからかなりの長命であったといえよう。
安政五年(1859年)はコレラが流行し初孫を失う。さらに諸物価が高騰と大変な年だったが、その大晦日の日記には「いまだとし老いたる母君のいますをよろこびて、かつまた心を励ましつ…」とある。
幾つになっても辰子は小梅にとって心のよりどころだったのだろう。
辰子は本居大平に師事して和歌を学んでいて、それを小梅に伝授した。

はじめ、この日記に時々でてくる「母上、金比羅詣で」の金比羅さんを四国の金比羅詣でだと思ったのだが、それにしては旅支度の記述もなくあっさりしている上に何度も出てくるので、近くにもあるのだろうと調べてみた。金比羅さんが日本中にあることを忘れていたのだ。

どうやら当地の「観音寺」らしいと辿りついた。
和歌山市の市街地に今もあるが江戸時代から見るとかなり縮小されているようだ。

第23番 補陀落山 観音寺
(西山浄土宗)
如意輪観世音菩薩

「こんぴらはん」と親しまれる寺

 第23番観音寺は真空上人による開山と伝えられているが、戦災により資料が焼失しており年代の特定は出来ない。昭和20年の 空襲の際、寺は全焼し寺歴を語る過去帳も消失してしまったのである。過去帳は万一の場合に備えて写本を2部作ってあったようだが、不運が重なり過去帳の一 切が失われた。
 被災前までは、境内に鐘楼、本堂、鎮守祠金毘羅堂、稲荷社らが立ち並び、中でも金毘羅堂は「こんぴらはん」の呼び名で近隣の人から親しまれ、7月10日 の縁日には、多数の参詣者で賑わっていたようである。金毘羅堂なき現在では、2ヶ月に一度10日の夜に金毘羅画像の大掛軸を前に信徒さんたちによる法要が 行われている。また現在の本尊は、昭和37年に安置されたものであるが、かつては楠見寺(なんけんじ 和歌山市楠見)にあったもので、秀吉による紀州攻め と戦争の兵火を逃れた仏様である。
 江戸時代には紀州徳川家の庇護と奥女中の信仰を集めた寺であったが、戦後の区画整理により寺域も縮小され道路整備のため、境内と墓地も分断されてしまう。
 境内には、大名家の産婆さんの墓や戦前からあるソテツの木が残っており、寺の歴史を感じさせてくれる。
http://www.mason-kitani.co.jp/jiin/no23.htm  (和歌山西国三十三カ所より)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 九月八日  | トップ | 九月九日 快晴 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

環境」カテゴリの最新記事