22歳のときだった。随筆「空白」がある機関紙に載ったのを思い出した。それを再度、ブログに載せて若かりしころの反発を懐古します・・・・・私は、昨二月JTB主催第五回関東支社沖縄旅行団に一員として参加出来た。ある人が、旅費を出してくれたのである。私にとってこの出来事はすべて未知で最初の経験だった。当然「楽しかった、沖縄の景色が南国的で美しかった」と、単純にしかも正直に、正常な人はいうであろう。しかし、私は生まれてから今日まで父の愛情を知らない、顔を見ないという現実があった。その現実が南部戦跡を巡った時、よき同伴者、よき知識者、よきおじさま、おばさま方よきアシスタント達とは違った何物かを私に感じさせた。今は心にゆとりがあるからこう言おう。その人達は経験に富んだ、利口な人々である。私達とは違った形でこのことを考え思ったことだろう。姫百合の塔、魂魄の塔、健児の塔、荘明の塔と巡る間に、私はいとも容易にその雰囲気に溶け込めるのを感じた。その間母も、親類も、友人も、よき同伴者達も私の頭の中になかった。そこにはビルマに眠る父と私の二人だけの世界があると思った。健児の塔で花束を捧げたとき、瞬間思い出したのは、片田舎の中学校の一角に、遺族神社が出来た時、自分が答辞を読んだことである。私が呼んでいる片隅で遺族の人たちが泣いていた。それは自然で美しかった。現実に戻ったとき、私の背後にはあまりにもかけ離れたよき同伴者、常識者、理解者、現代人がいた。すすり泣く声は聞こえなかった。泣かなければならないといっているのではない。たとえ泣いても不自然だ。そのかわり自分が泣いた。不自然だったろう。あの時は泣かなかった。健児の塔に泣いたのではない、父と私の関係において泣いたのだから。それは、健児の塔からは不自然だった。私はバスのなかで、父の戦死した場所に少しでも近づいたことで幸福であると思った。自分のようにこれない人が沢山いる、毎日の生活に追われて父の事を思い出さない人もあるかもしれない。そんなことを考え、正常な観光旅行団の人々と比較した。無精に腹がたってきた。バスガイドの言う普通の言葉も、冗談も、私の心は正直にとらなかった。反発し、ののしり、そうすることによって自分が一番貴い存在であると思った。バスガイドが内地の人、よき常識者から情をかもし出そうと言わんばかりに、一層長く長く語る。私にとっては残酷だった。観光的になった地だ、墓だ、父の戦死したビルマには墓さえ立っていないかもしれない。何も一家全滅した家のあとを、沖縄を、深刻に考えなくても、第三者的に、観光団的に、悲しい顔をすればいいのだ。沖縄から帰り数日、そのいかにも自己本位な気持ちは変わらなかった。このような思いで日常の生活に戻ったとき、同僚の人々の顔を見たとき、あるめまいを感じた。「どうだ楽しかったか」「いや少しもたのしくなかった、残酷、強烈だった」確かにすべてのものが強烈だった。私は虫が良すぎた。楽しかったかと聞くのが普通である。私は、友に、職場の人に、私の気持ちを察したかのように、神技のように、慰めてくれる事を欲求していたのだ。今の私は、機会あるごとに知人に沖縄旅行の話をする、それはある優越感と、自信と、満足と、甘美さを伴っている。でも心の底にある、複雑な空白、底知れぬ空白を感ずるのをどうしようもない・・・・・当時沖縄はまだアメリカ領だった。僕にとってははじめての海外旅行となった。しかしこの旅行で学んだものは大きかったと思っている。大学生の従兄弟二人と高校を出て社会人の僕三人が、行った旅行、行きは仲良く、帰りは喧嘩別れの旅だったと記憶している。何かに常に反発する青春時代の「こころの旅」でした。