太田
「太田の渡し」は、中山道の難所中の難所であった。この川を流れて行く筏は、尾張藩領の木曽山中で伐採した檜などの木材を尾張の熱田湊まで運んで行く筏である。客を乗せた渡し舟では、流れに押し流されないようにと船頭が舟の舳先を懸命に川上に向けて漕いでいる。手前の堤防では、首から頭陀袋をかけた巡礼の親娘が、これから渡る木曽川と対岸の太田宿を眺めやっている。石に腰を下ろした旅人二人と、さらに堤防の下の川岸には旅人三人が、渡し舟の到着を待っている。大正二年に太田から犬山まで舟で下った地理学者志賀重昴は、その間の景観を讃え「日本ライン」と命名した。
春日井市在住、1935年私的な挿絵等に全て自由にご使用ください。
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