くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

ハノイ城・文廟

2018年01月10日 | Weblog

■プレゼンのための見学ツアーで朝8:15に端門(ドアンモン)集合予定に遅れそうだったので通りがかりのグラブのセ-オムに乗ったはいいが場所がわからずうろうろ。100k払って結局歩いてたどりつくと他の連中も車でようやく来た。ハノイ城は1010年に李王朝を作ったリ・タイトーがここにタンロン(昇龍)城を作りこの地をタンロンとしたのだ。1802年にフエに遷都するまでの800年間都として栄えたが遷都後はメコンの支流である紅河の3つの支流にはさまれた地ということで「河内」ハノイと呼ばれることになったのだ。城内の監視塔は今は軍事博物館の敷地でハノイ城の北門を結ぶ一直線上に端門、敬天殿(皇宮跡)D67,後楼が配置されている。監視塔は日本占領時に無線通信施設として使ったこともあるが今は国旗が掲揚されフラッグタワーとしてハノイのシンボルだ。

そうなのだ!日本はハノイを占領していたことがあるのだ。ごく短期間、数日か数ヶ月かではあるが、、その話は別にすることにして、敬天殿はフランス占領後その司令部に立て替えられていて、残っているのは数段の石段とそれを仕切っている見事な龍の彫り物だけである。福井の城跡に加藤尚の手で県庁が建ってしまった事を思い出してしまった。その先がD67といわれるベトナム戦争時の地下司令室で、ソ連の支援を受けて作られ原爆に耐えられるそうだ。19人の将軍の椅子と戦況地図などが展示されている。地上階の別の司令室、博物館などを見て文廟に行くのだがそこまでは英越のガイドがついた。彼女はベトナム語の練習にと主にベトナム語で説明していた。皆よく理解しているようだが僕はさっぱり。でもしっかり「ハノイ歴史研究会」のサイトで予習してあるから支障はなかったが、、、。

博物館の石彫刻の龍(王のシンボル)鳳凰(皇后のシンボル)の説明で鳳凰は日本からきた話があって解らなかったので後で聞いてみると占領時に日本が略奪したものを返還してもらったということらしい。日本もやるもんだわ!彼女は僕が日本人と知って口ごもってはっきりいわなかったのはベトナム人の親日感の表れと感じた。ハノイはB52の爆弾投下を日本のB29の爆弾投下と同様にうけ原爆まで落とされたのだよ、というような説明だ。でも、違いはここではそのB52を何機も撃墜していることだ。どうも電波や音響を通信機で聞いてやるらしいのかも、、。

地上の建築物は黄色の壁に緑の窓という典型的南仏様式の建物が保存され、デザインも単にヨーロッパアジア混合を超えた独自のセンスがあって僕はとても気に入っている。ハノイ城はベトナムの歴史を感じさせるとてもいいコースだ。ガイド料200k

文廟はイエン先生が直々に解説。ここは孔子とその4人の高弟などを奉り、科挙の合格者を彫りこんだ石碑を配置してあるこの国最古の大学跡である。5区分(木火土金水)された各区域は門があり、3番目のけい文閣はここを通る太陽の光を池に反射させて周りの石碑に反映させるといういみがあるらしい。これが100万ドン札のデザインでありハノイ市のシンボルでもある。

門の龍(幸福)虎(権力)、門屋根の鯉(滝を登って龍になる。登竜門の語源)、石碑の土台の亀は努力の象徴で龍の仮の姿(ホアンキエム伝説)。そして屋根瓦は魚のうろこ。2階から屋根に旅行者がコインを投げている。ベトナムでコインは使われないので50円玉だったりペニーだったり。サンヨンは1000ドン札の紙飛行機で屋根に飛ばした。

ベトナムでは中国で科挙制度が終わった後も続いていた。人材登用が国家発展につながるという考えは韓国でも同じ。韓国の士農工商の士は学士のことで日本の武士ではない。日本に科挙が根づかなかったは江戸時代の私塾が発達して公権力に結びつかなかったかららしい。中国では清朝に科挙が汚職を生み官僚が堕落して欧米の進出を防げなかったことで廃止になったようだ。北京官話「マンダリン」の本来の意味はポ語の「官僚」と関係する中国人役人を蔑視する造語らしい。日本の軍国主義と士農工商は関係があるかどうかわからないが韓国ベトナムの方がシビリアンコントロールができるのかも知れない。とにかくこの両国ともに儒教の伝統で教育熱が高いのは間違いがない。男しか受験できない科挙に男装して合格したベトナム女性がいたというのがベトナムらしい。なぜ仏教王朝のリー代に敵国中国の思想(儒教は漢代に国教になっている)を取り入れたのか?興味あるテーマだ。ここはベトナムの精神構造を垣間見ることのできる重要なスポットである。

皆で近くのKOTOレストランで食事。約400k。たいしてうまくない。

妄想が広がって浦島太郎の話になるが助けた亀に乗って竜宮城にいった話だ。長崎から朱印船でホイアンへ行ったが秀吉がキリスト教を嫌って禁止したので帰れなくなりホイアンで死んだ日本商人を訪ねてみたい。その後に続く200年の鎖国によって作られた日本人の精神構造をのぞける場所は竜宮城にあるのか?南方熊楠の「十二支考」を読み返したい。無理かなー。

コメント
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