くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

グループ・プレゼン

2018年01月12日 | Weblog

■今出されているプレゼンのテーマは文廟とハノイ城(タンロン城)についてグループでのプレゼンで、くじでメンバーを決めた結果僕と、サンヨンとヒュンへの韓国組に台湾のユン20歳の四人に決まった。

ものすごい取り合わせだ。最年長と最年少。最インテリとアスペルガー。言葉、文化、国籍、年齢、、のギャップ。これでどういうコミュニケーションができるのか?

さっそくサンヨンがライングループを作り、「どう進めたらいいか、わからないから意見を欲しい」と書き込んだから「これだけのダイバーシティだとコミュニケーションがとれないから、サンヨンがプランを1人でやってくれ3人は従うから」というようなコメントを交わし、すぐにサンヨンの賛成があった。韓国組の2人はプレゼン得意でビジュアルはヒュンへがビデオ入りでやるだろう。僕と彼女はナレーターで僕は数、年号のところを読み上げる、、てなことを考えていた。

後に、あの韓国組のコミニュケーションが全く取れてないことがわかった。それはあるかもしれない。サンヨンは優秀だが少し横柄で独善的な気がしないでもない。ヒュンへは韓国人間でさえよくコミュニケーションが取れないのだろう。韓国人より台湾のホーシンや中国のアンディとの仲間関係が強いのだ。ベトナムに来たのもそれが理由かもしれないと思う。サンヨンがしつこく彼と話そうとしたけれど連絡がとれず、結局僕とヒュンへで文廟をやってくれ、彼女とサンヨンがハノイ城をやるからみたいなことになった。

 

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残留孤児の背景

2018年01月11日 | Weblog

■「開発研究会」2回目の出席、小松みゆきさんの話。ハノイの日本語教師が認知症の母をハノイに連れて行く話で映画になった。その彼女が残留孤児に会いその父を日本で探す話。今回バス路線49番変更のため混乱し、45分ほど遅れてしまった。後半しか聞けなかったが衝撃の内容だった。

苦労して父を探し当てても合いたくない事情があったりベトナム人の親子観のちがいですれ違ったり、、という問題をのりこえ、昨年の天皇訪問残留孤児との面会が実現し彼女の言い方によれば止まった時間が動き出したのだ。ところが、ベトナムではこの報道が目に付かない。なぜか?

ハノイを占領するフランスはドイツに負け枢軸国日本がフランスを追い出しハノイを占領するのだがフランスのビシー政権と近い関係にあったので独立運動を指揮するホーチミンは日本に頼らずベトナム人の手であのディエンビエンフーの大勝利を勝ち取った(第一次インドシナ紛争1954年)ということになっている。

ところが残留孤児の父というのは日本の敗戦後ハノイに留まり、その戦争に参加し将兵の訓練をしていたのだ。中越紛争後、中国との関係が強くなって中国軍がベトナムに入ってくると傭兵はいらなくなる。なにしろディエンビエンフーはベトナム人だけで勝ち取ったのだから、実は外国兵がいたという事実は伏せられたのだ。家族はベトナムで看るから1人で日本に帰ってくれといって帰されたようだ。入隊から帰国まで実際は強制に近かったらしい。

天皇が訪越したからと言っても残留孤児に関しては触れられたくないのだ。ハノイ城博物館でガイドが口ごもった理由も同じことが言えるかもしれない。ここではウエブ検閲されているかもしれないのでめったなことはいえないかも。

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ハノイ城・文廟

2018年01月10日 | Weblog

■プレゼンのための見学ツアーで朝8:15に端門(ドアンモン)集合予定に遅れそうだったので通りがかりのグラブのセ-オムに乗ったはいいが場所がわからずうろうろ。100k払って結局歩いてたどりつくと他の連中も車でようやく来た。ハノイ城は1010年に李王朝を作ったリ・タイトーがここにタンロン(昇龍)城を作りこの地をタンロンとしたのだ。1802年にフエに遷都するまでの800年間都として栄えたが遷都後はメコンの支流である紅河の3つの支流にはさまれた地ということで「河内」ハノイと呼ばれることになったのだ。城内の監視塔は今は軍事博物館の敷地でハノイ城の北門を結ぶ一直線上に端門、敬天殿(皇宮跡)D67,後楼が配置されている。監視塔は日本占領時に無線通信施設として使ったこともあるが今は国旗が掲揚されフラッグタワーとしてハノイのシンボルだ。

そうなのだ!日本はハノイを占領していたことがあるのだ。ごく短期間、数日か数ヶ月かではあるが、、その話は別にすることにして、敬天殿はフランス占領後その司令部に立て替えられていて、残っているのは数段の石段とそれを仕切っている見事な龍の彫り物だけである。福井の城跡に加藤尚の手で県庁が建ってしまった事を思い出してしまった。その先がD67といわれるベトナム戦争時の地下司令室で、ソ連の支援を受けて作られ原爆に耐えられるそうだ。19人の将軍の椅子と戦況地図などが展示されている。地上階の別の司令室、博物館などを見て文廟に行くのだがそこまでは英越のガイドがついた。彼女はベトナム語の練習にと主にベトナム語で説明していた。皆よく理解しているようだが僕はさっぱり。でもしっかり「ハノイ歴史研究会」のサイトで予習してあるから支障はなかったが、、、。

博物館の石彫刻の龍(王のシンボル)鳳凰(皇后のシンボル)の説明で鳳凰は日本からきた話があって解らなかったので後で聞いてみると占領時に日本が略奪したものを返還してもらったということらしい。日本もやるもんだわ!彼女は僕が日本人と知って口ごもってはっきりいわなかったのはベトナム人の親日感の表れと感じた。ハノイはB52の爆弾投下を日本のB29の爆弾投下と同様にうけ原爆まで落とされたのだよ、というような説明だ。でも、違いはここではそのB52を何機も撃墜していることだ。どうも電波や音響を通信機で聞いてやるらしいのかも、、。

地上の建築物は黄色の壁に緑の窓という典型的南仏様式の建物が保存され、デザインも単にヨーロッパアジア混合を超えた独自のセンスがあって僕はとても気に入っている。ハノイ城はベトナムの歴史を感じさせるとてもいいコースだ。ガイド料200k

文廟はイエン先生が直々に解説。ここは孔子とその4人の高弟などを奉り、科挙の合格者を彫りこんだ石碑を配置してあるこの国最古の大学跡である。5区分(木火土金水)された各区域は門があり、3番目のけい文閣はここを通る太陽の光を池に反射させて周りの石碑に反映させるといういみがあるらしい。これが100万ドン札のデザインでありハノイ市のシンボルでもある。

門の龍(幸福)虎(権力)、門屋根の鯉(滝を登って龍になる。登竜門の語源)、石碑の土台の亀は努力の象徴で龍の仮の姿(ホアンキエム伝説)。そして屋根瓦は魚のうろこ。2階から屋根に旅行者がコインを投げている。ベトナムでコインは使われないので50円玉だったりペニーだったり。サンヨンは1000ドン札の紙飛行機で屋根に飛ばした。

ベトナムでは中国で科挙制度が終わった後も続いていた。人材登用が国家発展につながるという考えは韓国でも同じ。韓国の士農工商の士は学士のことで日本の武士ではない。日本に科挙が根づかなかったは江戸時代の私塾が発達して公権力に結びつかなかったかららしい。中国では清朝に科挙が汚職を生み官僚が堕落して欧米の進出を防げなかったことで廃止になったようだ。北京官話「マンダリン」の本来の意味はポ語の「官僚」と関係する中国人役人を蔑視する造語らしい。日本の軍国主義と士農工商は関係があるかどうかわからないが韓国ベトナムの方がシビリアンコントロールができるのかも知れない。とにかくこの両国ともに儒教の伝統で教育熱が高いのは間違いがない。男しか受験できない科挙に男装して合格したベトナム女性がいたというのがベトナムらしい。なぜ仏教王朝のリー代に敵国中国の思想(儒教は漢代に国教になっている)を取り入れたのか?興味あるテーマだ。ここはベトナムの精神構造を垣間見ることのできる重要なスポットである。

皆で近くのKOTOレストランで食事。約400k。たいしてうまくない。

妄想が広がって浦島太郎の話になるが助けた亀に乗って竜宮城にいった話だ。長崎から朱印船でホイアンへ行ったが秀吉がキリスト教を嫌って禁止したので帰れなくなりホイアンで死んだ日本商人を訪ねてみたい。その後に続く200年の鎖国によって作られた日本人の精神構造をのぞける場所は竜宮城にあるのか?南方熊楠の「十二支考」を読み返したい。無理かなー。

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えっ何のプレゼン?

2018年01月09日 | Weblog

■クラスが始まり何か様子がおかしい。PC持って来てる。先生が旅行の話をしているようだ。と、サンヨンがすばらしい韓国旅行のプレゼンをはじめた。、、あーっ、そうだったのか。この前なにか先生が話していたプレゼンの話はこのことだったのか。すっかり明日の文廟訪問と取り違えていた。自分の国の旅行案内をするプレゼンだったのだ。韓国組、台湾組が競ってそれこそベトナムの旅行会社の紹介ビデオ風プレゼンを呆然と見ているだけ。クラスの会話についていけなくなっている上大事な予定、目的、場所、時間が聞き取れないだけでなくどういうことか気がつくことさえなくなっている。誰か日本人でもいたら「明日のテスト準備していますか?」「えっテスト明日だっけ、、」となることもあるだろうが、日本人誰もいない中では気づくすべがない。もう仕方がない。気がつかなくて準備してませんでしたってどういうんだろうか、と考えているうちに中国組がメモだけでプレゼンをはじめた。おっ、こいつらも解ってなかったのかな。でもさっきの休憩時間にメモ作ってやっちゃってる、、。すごいな。先生に一度は準備してないですと言って、名簿から消してくださいと言おうと思ったが気を取り直して勧進帳でやっちゃおう。

挨拶もそこそこに「日本には大都市があって東京、京都、大阪、名古屋、、、」もうむちゃくちゃ、自分で何言ってるのかもわからん。先生が質問してくれて、、それもなんだかわからない、、。先生が歌でも歌いなさい、といわれて、、さすがに引き下がりました。それでも点数くれたみたい。やってみるもんだ。

若い連中のいる中に行こうとすると気のせいか皆が一瞬緊張するように感じて「バイバイねー」と言って立ち去ることになる。この歳で皆と一緒に、、は結構きつい。50,60はまだいいが70となると大分違うかな、、と感じている。この学生生活、後悔はないが人に薦めるのはよそう。

ちなみにこの「バイバイねー」「OKねー」は普通に使える。

 

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ここには暖房がない。

2018年01月06日 | Weblog

■ここの冬の寒さは思ったほどでないけれど明け方は寒くて目が覚めるほどだった。とにかくこの国には暖房という概念がないのかもしれない。エアコンは冷房だけで冬になっても部屋の温度は外気と変わらない。ひとはジャンパーや上着のまま仕事をする。部屋全体を暖めるという発想がない。だから厚い布団のないここではしっかり着込んだまま寝ないと眠れない。明け方は冷え込むので目が覚めてしまう。日本では秋口か終わりころの寒さでたいしたことはないのだが、今はセーターを着ているし夜はセーターを重ね着して毛布にくるまって寝ている。

昨日は水周りの工事をしたので久しぶりにロボットで掃除をする。昨日は外出中に部屋をかたずけて掃除してもらったが、考えるとロボットなんだから仕事中でもいつでもやれるはずだと思い、今日は椅子机はかたずけないまま動かしてみた。意地悪だけどわざと椅子机を後で動かしたりしてみたがなんだかんだ同じぐらいの時間で掃除終了するみたいだ。電池充電してもう一度からぶきさせたり、、、ここはほこりが多いのかすぐに雑巾が真っ黒になる。もっと働かせるようにしよう。

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