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語り

2009-08-13 09:02:03 | 山本耕史

20日間に及ぶパソコンの修理で、禁断症状が出ていた私

やっと戻ってきて、ぎりぎりセーフでこの番組のナレーターを山本耕史さんがすること

を知り見ました

正直、山本耕史さんがナレーターをするのでなければ見ない番組です

『あの日 僕らの夢が消えた 被爆学校生徒たちの 64年』

長崎 鎮西学院高校の物語である

やはり役者の語りは良いものです

山本耕史さんの穏やかな声と語り口は引き込まれる

爆心地に近いこの高校に8月9日原爆が落とされました

多くの生徒たちが、一体何が起きたのかもわからず一瞬にして人生を終わったのです

名簿などもすべて消失したため当時の生徒たちのその後の消息を捜すことさえでき

ず64年の年月が経ちました

が、ひょんなことから学年で撮った写真が16・7枚見つかり、それを頼りに生存者の

一人の方が、その後をたどる行動を起こされました

当時15歳から18歳であった少年たちも、今では80歳平均です

このたびの呼びかけに集まられたのは20名

一緒にいた同じ組の友をほとんど失ったある方は、自分だけが生き残り申し訳ない

と、声を詰まらせます

よくサボっていた学徒動員の仕事をたまたまその日、友を誘って出た

自分も九死に一生を得て、自宅に逃げ帰り、友の家へ行くと友が帰っていなかった

あの時、自分が誘わなかったら・・・自分が殺したようなものだと泣かれる方

号泣せずにはいられませんでした

私の住んでいるところは広島です

原爆といえば8月6日

毎年多くの人が全国から広島に集まります

式典も行われ、放映もされます

両親とも広島で被爆しました

父16歳・母15歳の学生でした

正に、母は学徒動員中に被爆し、一緒に仕事をしていた友が亡くなり、母は助かりま

した

つぶれた建物から這い出し、地獄絵図のような惨劇に目を覆いながら、郊外の自宅

へ逃げ帰ったそうです

涙ながらに当時を話された鎮西学院高校の方の家族の方が、今まで話されたことが

ないとおっしゃっていましたが、両親からも2・3度断片的に、耳にしただけで、話そう

とはしませんでしたね

話せば、思い出したくもない当時のことを思い出すからでしよう

母は9年前、父は4年前に他界しました

鎮西学院高校の同窓会に集まられた20名の方々にとって、64年前の8月9日は思

い出したくないことですが、正に夢と希望に満ちた、青春の真っ只中をともにすごした

友に再会することは、8月9日より以前に戻れる唯一のことではないのかなぁ~と、

平均80歳の方々の表情を見ていて感じました

山本耕史さんのおかげで、避けていた内容の番組を見ることができ、両親の64年

前をみさせてもらったような気になりました

そして、山本耕史さんのしみこむような語り口と声が、今も耳に残っています

 

 

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2 コメント

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Unknown ()
2009-08-13 21:25:03
ご両親、大変な思いをなさったのですね。
ほんとうに思いだしたくない記憶だったのだと思います。
一緒にいらしたお友だちが亡くなってしまうなんてショックですよね。

毎年この時期になると特に平和の大切さを思います。

あのかたの「語り」聞いてみたかったわ
返信する
花さんおはようございます (キャサリン)
2009-08-14 06:49:48
原爆は広島と長崎だけですが、戦争に出られた方々の思いは同じ様に悲惨なものでしょうね
とにかく二度と、戦争をしてほしくありませんね
山本耕史さんの語りは他でも聞きましたが、なかなか味わいがあってよいですよ
返信する

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