昨夜NHKで『ヒロシマ・復興を夢みた男たち』と題して、ドキュメンタリードラマが放送された
原爆に関しての放送は8月6日近辺と相場が決まっているのに、なんでぇ~と
思ったが、見進むうち、はたと気付いた「東日本大震災の復興」に引っ掛けての放送なのね
しかし、それとは別にして広島市民の一人として、「元市長浜井信三氏」のことを全然存じ
上げなかったので、見終わった後、とても胸を熱くしてしまった
浜井信三氏は1947年4月、公職選挙による最初の広島市長(20代目)となり、同年8月6日
に第1回広島平和祭と慰霊祭をおこない、平和宣言を発表した方だったのです
広島の復興のためには市民の心を一つにすることが大切と考え、平和の祭典が現在の広島
市民には是非とも必要ではないかと考えた
この時はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領統治時代であったため、いかに
検閲で平和への思いが消されないようにするかに苦労したという
浜井氏は1945年8月6日原爆投下の時には、自宅にて被爆、当時の役職は市役所の
配給課長だったため、生き残った市民の衣食住調達に 心血を注ぎ、ドラマの中では、
じき迎える冬のため、使わなくなった軍服のことを聞き、軍人の妨害を受けながらも、必死の
説得をし確保する様が描かれたり、広島を復興させるための財源が乏しく、政府の補助も
思わしくなかった為、1949年、当時の市民から「あまりに理想的」と批判されたながらも、
広島平和都市建設法を制定し、現在の広島市を造る大きな基礎をこの法律が果たした
又、『平和大通り~通称100m道路』を多くの反対の中、完成させたのも浜井氏だった
息子さんのインタビューの中で、この100m道路は道路の目的だけではなく、色んな事に
使えばいいと父は言っていたとおっしゃっていました
1977年から開催された「フラワーフェスティバル花の祭典」はこの息子さんの発案だとのこと
原爆投下により、当時の広島市の人口35万人(推定)だったが、死亡した人の
数については、現在も正確にはつかめていません
しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年12月末までに、約14万人が
死亡したと推計されていますが、その後も被爆の後遺症でなくなった人はたくさんいる
又、建物の被害は、被爆前7万6、327件の内、投下により5万1.787件が全壊か全焼し、
一部損傷以下は6.180件という壊滅状態だった
放射能の恐怖に怯えながら、絶望的にならず、すぐさま広島の復興に目を向け、まさに命を
かけた戦いをされた方々の一人に「浜井信三氏」という「市長」がいたということに、感謝をし
たいと思った
原爆投下時、75年は草木も生えないと言われたとか・・・
人間もたくましいけれど、可憐な花もがんばってます
可憐な花をめでながら、平和なればこその安心を感じます
我家の庭に咲いているスイセン、背の低い可愛い黄スイセンです
名前がわからないが、2~3年前突然やって来て、見る見る増殖し、毎年見事に咲き
誇ってくれる、名無しの小花ちゃんです
ここがよほど気に入ったのか、薄紫のジュータンを敷き詰めてくれます
ちっちゃなちっちゃな花をドアップ、名前をご存知の方は教えてください
昨日は、長男の引っ越し日で、帰宅が遅く
『ヒロシマ・復興を夢みた男たち』テレビも拝見してませんでした (*゜.゜)ゞポリポリ
広島を復興させるため、反対意見を押し切り、信念をもって尽力された浜井信三さん、すばらしいですね。
。正しい信念を持った行動力のある人が今の時代に現れてほしいです。
こういう方のことをもっともっと知るべきですね
そして、感謝をしなければならないと思いました
私もたまたまの、偶然に見たので、なにかのお導き
だったのかも知れません