読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

悪人列伝3 海音寺潮五郎 文春文庫

2007-01-06 18:17:05 | 読んだ
悪人列伝第3巻は、足利幕府第8代将軍義政(銀閣寺を作った人)の妻である日野富子からである。

著者は足利時代を

「足利時代ほど日本人の道義観念の低下している時代はない」
「もともと足利氏代々が道義観念などさらさらない人々」
「日本史上空前の無道徳時代」
「もしこの時代に匹敵する時代を求めるなら現代がそれかもしれない」

といっている。

この現代とは昭和30から40年代を言うのではないかと思うのだが、そうだとすれば今現在(平成19年)はもっとひどい無道徳時代ではないだろうか。

さて、日野富子についてはそのような時代背景であるがために「悪人」とされていると著者は言う。
そして当時は
「天下は破れば破れよ、国はほろびばほろびよ、人はともあれ、われのみは栄えむ」
という人の心のありようで、そのような人の一人であった、としているのである。

現代は応仁の乱のような戦争がなく平和であるのに、人の心は荒廃している。とすれば、人の心を荒ませるのは戦争ということだけではないのではないか、と考えさせられるのである。

続いては戦国時代の「松永久秀」「陶晴賢」「宇喜田直家」と続くが、この悪人たちは、日本全国に影響を与えた、というわけでもなく、その最後は哀れなものであり、その子孫も絶えている、いわば敗れ去ったものであり、そういう意味では「悪人」といってもスケールの小さいものである。

続いて「松平忠直」「徳川綱吉」という天下を獲った「徳川家康」の子孫である。
筆者は徳川家には一部「狂」の血筋があるという。
その血が表面に大きく出てきているのがこの二人である。
その前には家康の子「信康」「忠輝」がいるというのである。
そういわれれば家康の父「広忠」もその気があったように思える。

徳川綱吉は「極端に走る人間」として政治家には向かない性質としている。

また「時代」を見るには
「世をへだてて純粋に公平であることできる目」だけでなく「当時の人の目」というものも考えなければならない、と教えてくれる。

あるいは「法律」について
「法律には自制作用はない。ひたすら実行されることももとめる。」
「法にはその本質に拡大解釈の機能があり、その機能をつぶせば法は活力を失ってしまう」

と、綱吉の「生類あわれみの令」を通して教えてくれる。

悪人列伝は、歴史を教えてくれるとともに、実は社会というもののあり方を歴史を通して教えてくれるのである。
コメント
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