まだ、オール読物の12月号にひっかかっている。
今回は「花」の題名が共通であるが、その内容はちょっと違う。
「しづめる花」は時代小説である。
主人公<紀六>は桶職人の息子であったが、自分の声に惚れて瓦版を読み上げる「細見売り」の仕事をしている。
この仕事をしているときに<お久>と出会う。紀六はお久から「細見売り」の仕事にいろいろなアドバイスを受け商売繁盛となった。
よく売れるからますます仕事にのめりこんだが、のめりこみすぎてお久は娘を連れて同じ長屋に住む男といなくなる。
紀六は、誰かに見限られるということに打ちのめされる。
とまあここまでが本当の物語の始まる『前段』である。
紀六は「細見売り」という仕事ともうひとつ「上ゲ屋」という仕事もしている。
「上ゲ屋」とは、『吉原に売られてきた娘に男を教え、ひとかたの遊女に仕立て上げる、裏の家業』なのである。
女房に逃げられ母の薬代にこまっていた紀六が細見売りの兄貴分である吉次に誘われてはじめた仕事である。
その吉次は遊女と心中をして死んでしまった。つまりは仕事におぼれてしまったのである。
紀六は絶対にそんなことにならないように心構えている。
そんなとき、仕事で<お紺>という女と出会う。彼女は昔同じ長屋に住んでいた娘である。
そして・・・
最後にはあっと驚く逆転がある物語で、その逆転に向けてこれまでこの話を続けてきたのか、と思ったが、まあ納得の逆転である。
上ゲ屋、という職業をはじめて聞いたが、その職についている男の物語を女流作家が書いていることに驚き、実はこの物語は<お久>と<お紺>が主人公、というか『女』というものの怖さが伝わり「そういうものなのか」と思ったのである。
一方「水脈の花」は現代が舞台である。
翔子は30歳、ラブホテルの経営をしている。というか父・東吾がまかせっきりにしているのである。そして、いつ返済が終わるかわからぬ借金を抱えている。
父の東吾は「絵」を描いている。その父が通っていた絵画教室の講師・篠田と翔子は関係を持っていた。
そしてその篠田が亡くなったという朝刊を見て、翔子は父の代わりに通夜へ行く。
その席で谷本という篠田と親しかった新聞記者と出会う。
そこで、篠田が描いた「花瓶」の絵を見てほしいと頼まれる。
篠田は「花瓶を見ればすべて分かる」といっていたそうなのである。
翔子は、谷本とその絵を見て、その絵のモデルとなった場所<摩周湖>のそばの<神の子池>へ行く。
というのがざっとのあらましなのである。
その時間の流れの中で、翔子は結婚相手の母親から結婚を断られたことや、篠田との間にあった事柄などを思い出すのである。
翔子の今までの生き方が「受動的」であったことを我々は知る。
翔びだすことをしなかった<翔子>なのである。
谷本と花瓶の絵のモデルとなった「池」を見て翔子は、篠田が亡くなったことについてあらためて悲しみがわいてくる。
そして翔子は「篠田を失った街に帰ろう」と思う。
このあたりは、どうも想像力が足りないのか「よくわからない」ところなのだ。
ただ、翔子がそう思ったのであれば、そういうことなんだろう、と思うしかない。
そして、女は帰るのか、と思ったのである。
女は帰る、男はどうするのか。
そんなことを思ったのである。
近頃、女流作家の作品がすごい、と思う。
これはどういうことなんだろうか?
これまで男の作家の作品を多く読んできたので、新たな視点、のようなものに新鮮さを感じるのだろうか。
ということよりも、女性の持つ保守性が、、じつは男性の持つ保守性よりも革新的なのではないか、なんてよく分からないことを考えたりもするのである。
今回は「花」の題名が共通であるが、その内容はちょっと違う。
「しづめる花」は時代小説である。
主人公<紀六>は桶職人の息子であったが、自分の声に惚れて瓦版を読み上げる「細見売り」の仕事をしている。
この仕事をしているときに<お久>と出会う。紀六はお久から「細見売り」の仕事にいろいろなアドバイスを受け商売繁盛となった。
よく売れるからますます仕事にのめりこんだが、のめりこみすぎてお久は娘を連れて同じ長屋に住む男といなくなる。
紀六は、誰かに見限られるということに打ちのめされる。
とまあここまでが本当の物語の始まる『前段』である。
紀六は「細見売り」という仕事ともうひとつ「上ゲ屋」という仕事もしている。
「上ゲ屋」とは、『吉原に売られてきた娘に男を教え、ひとかたの遊女に仕立て上げる、裏の家業』なのである。
女房に逃げられ母の薬代にこまっていた紀六が細見売りの兄貴分である吉次に誘われてはじめた仕事である。
その吉次は遊女と心中をして死んでしまった。つまりは仕事におぼれてしまったのである。
紀六は絶対にそんなことにならないように心構えている。
そんなとき、仕事で<お紺>という女と出会う。彼女は昔同じ長屋に住んでいた娘である。
そして・・・
最後にはあっと驚く逆転がある物語で、その逆転に向けてこれまでこの話を続けてきたのか、と思ったが、まあ納得の逆転である。
上ゲ屋、という職業をはじめて聞いたが、その職についている男の物語を女流作家が書いていることに驚き、実はこの物語は<お久>と<お紺>が主人公、というか『女』というものの怖さが伝わり「そういうものなのか」と思ったのである。
一方「水脈の花」は現代が舞台である。
翔子は30歳、ラブホテルの経営をしている。というか父・東吾がまかせっきりにしているのである。そして、いつ返済が終わるかわからぬ借金を抱えている。
父の東吾は「絵」を描いている。その父が通っていた絵画教室の講師・篠田と翔子は関係を持っていた。
そしてその篠田が亡くなったという朝刊を見て、翔子は父の代わりに通夜へ行く。
その席で谷本という篠田と親しかった新聞記者と出会う。
そこで、篠田が描いた「花瓶」の絵を見てほしいと頼まれる。
篠田は「花瓶を見ればすべて分かる」といっていたそうなのである。
翔子は、谷本とその絵を見て、その絵のモデルとなった場所<摩周湖>のそばの<神の子池>へ行く。
というのがざっとのあらましなのである。
その時間の流れの中で、翔子は結婚相手の母親から結婚を断られたことや、篠田との間にあった事柄などを思い出すのである。
翔子の今までの生き方が「受動的」であったことを我々は知る。
翔びだすことをしなかった<翔子>なのである。
谷本と花瓶の絵のモデルとなった「池」を見て翔子は、篠田が亡くなったことについてあらためて悲しみがわいてくる。
そして翔子は「篠田を失った街に帰ろう」と思う。
このあたりは、どうも想像力が足りないのか「よくわからない」ところなのだ。
ただ、翔子がそう思ったのであれば、そういうことなんだろう、と思うしかない。
そして、女は帰るのか、と思ったのである。
女は帰る、男はどうするのか。
そんなことを思ったのである。
近頃、女流作家の作品がすごい、と思う。
これはどういうことなんだろうか?
これまで男の作家の作品を多く読んできたので、新たな視点、のようなものに新鮮さを感じるのだろうか。
ということよりも、女性の持つ保守性が、、じつは男性の持つ保守性よりも革新的なのではないか、なんてよく分からないことを考えたりもするのである。