読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

八戸の夜

2007-01-15 20:28:32 | 日々雑感
八戸にいる。出張で来ている。それも「随行」という出張なので『ツマラナイ』

夕食を食べ、あとは部屋にいるだけなので、読書をする。
「小説十八史略」<陳舜臣>と「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」<北尾トロ>の2冊を携行してきている。

じっくり読もうと思う。
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小説十八史略(二) 陳舜臣 講談社文庫

2007-01-14 20:07:47 | 読んだ
第1巻は、張良が秦の始皇帝暗殺に失敗し逃亡したところで終了した。
第2巻は、その張良が項羽の叔父である項伯に出会うところから始まり、秦が滅亡し劉邦と項羽が天下を争い、劉邦が勝ち「漢」を建国、そして漢の武帝が権力を得るところまで、である。

中国の物語は春秋戦国時代も面白いが、なにしろ登場人物が多すぎて、それに多くの国の王の名前が同じであったりしてなかなか大変であるが、この劉邦と項羽の争いから始まる「漢」の建国の物語と、三国志は<主人公>を特定できる(自分なりに)ので、のめりこみやすいのである。
従って、私はこのあたりを読もうとするときは十分な時間があるときにしている。
なにしろ、面白すぎてやめられなくなってしまうのである。

ときに話は変わるが・・・
何回読んでも面白くてのめりこむ読物、それから何回見ても新鮮な気持ちで見ることのできる映画やドラマというものがある。
映画だと「スターウォーズ」「ローマの休日」「サウンドオブミュージック」や「仁義なき戦い」「同胞」などがそうである。
読物であると、この「小説十八史略」である。(他にもあるが掲げると長くなるので)
この『面白い』という感覚はどうにも説明できないものなのだが・・・
そして「1回見ればいいじゃん」という人の気持ちもよくわからないのである・・・

というわけで―

秦は始皇帝が死ぬと、いわば悪貨が良貨を駆逐するカンジで、腐敗が進む。
そのなかで、陳勝・呉広の乱がおこり、これを契機に全土に秦への反乱が始まる。
この、陳勝がいった言葉というのが印象的である。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「王候将相、なんぞ種あらん」
このあたりが陳勝の最も輝いているところであったと思う。

<人は一瞬でも輝くときがあるのだなあ>
というのが、歴史を読んでいると思うことなのである。
その輝きが一瞬だけで終わるか続くのかそれとも堕落するのかによって、どのように歴史に評価されるのかが違うのである。
で、私は一瞬の輝きで終わってしまう人物がわりとすきなのである。

劉邦と項羽の争いは、いろいろとエピソードが多くて、またその一つ一つが面白いのであるが、劉邦のエピソードは微笑ましいというか暖かいのに比べて、項羽のものは「ついていけない」冷たいものである。
後世、そのように作られたのではないか、とも思うが『天下をとる』というものの『形』或いは『リーダーの条件』のようなものがが示されているようである。

さて、漢の建国後、漢の功臣たちが次々と粛清される。
<狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて、良弓は蔵さる>
<敵国破れて、謀臣亡ぶ>
である。
このことも歴史では繰り返される。
人というものは何かを創ろうとするときは協力するが、創りあげるとだめになるのだろうか?

第2巻の後半は、呂后が漢の王朝を引っかきまわし、その死後も内紛が起きるのであるが、それは民には関係のないところであり、内紛は国が安定していることの証拠とも言え、漢は富んでいくのである。
そして「武帝」が登場する。
第3巻は、漢の最盛期、の話である。
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離れの人 佐藤愛子 オール読物1月号

2007-01-13 19:47:39 | 読んだ
離れに住んでいる「絹」おばあちゃんは78歳。
このおばあちゃんのお話ですが、ナカナカ色っぽい話です。

この絹おばあちゃんは、神山質店という旧家の一人娘で、大事に育てられて、器量よしでおとなしい娘であった。
婿養子を迎えたが家業は衰退した、今は息子二人が持ち直しているところ。
まあ幸せな人生を送ってきたおばあちゃんなのである。

ところが、なかなかの艶福家であったらしい。
そのことをよく知っているのは、絹の母方の従姉妹で夫が戦死してから神山家に住んでいる菊枝と、関係した男たち。

そんな絹の離れの座敷に「男」がいるらしい。
見えるのは絹とお寺の和尚だけ。従って男は幽霊。その正体を絹は知らない。

面白いのは、菊枝と絹の関係である。
何にもしないのになんだか幸せな人生を過ごしている人(絹)と、一生懸命生きているのにその何にもしない人より劣る人生ではないかと思っている人(菊枝)。
菊枝が絹に対してひどく腹を立ている気持ちがよくわかる。
私もどちらかといえば、というか多くの人が菊絵のタイプだと思う。

幽霊のことと、絹がすごしてきた「あまりな」(うらやましいという意味の)人生がテンポよく語られ、人生をこういうふうに考えたことなかったなあ、と思ったのであった。
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拝啓、父上様

2007-01-12 00:04:45 | 観た、聴いた
やっぱり「前略おふくろ様」を思い出してしまう。

あの主人公の語り、ドラマのテンポ、会話のつなぎ・・・
倉本聡だよなあ、と思う。
なんというか「封印」を自らがとりさった、というカンジである。
映像も、なかなかよい「らしさ」が出ていると思う。

しかし、やっぱり年月の差は大きいもので、物語を見ていて感じたことがある。

「前略おふくろ様」は、古いものを守ろうとするあるいは守らねばならないという『若さ』が前面に出ているのだが、その中にどうしても何かを壊してしまうようなもう一つの『若さ』があって、それが主人公のサブや彼をとりまく若い人たちのジレンマになっていたような気がする。

そして、その若さを見守る大人たちがしっかりしていた。頼りなさそうにしていてじつは『芯』があった、そんな気がする。

一方「拝啓、父上様」は、若い人たちそのものに『若さ』特に何かを壊そうとするものがないように思える。
それは現代社会の実相なのであろう。

その代わりといっては何だが、大人が幼い。
たぶん、主人公の母「雪乃」があの「恐怖の海ちゃん」のような狂言回しの役となっているのだろうが、どうも幼い。
もっとも、倉本聡さんは、あの手の(つまりわりと暗い過去を背負っているのにあっけらかんと生きている)女性が好きなようで、どこかで、その真実を吐露させるとは思うのだが・・・

そして、最もがっかりしたのは、大女将・夢子の旦那であったという大物政治家・熊沢が、病床に板前の竜次を呼び、遺言めいたことを語ったところであった。
大物とか偉い人とか呼ばれるようになったら、自分の言葉が思わぬところまで波紋を及ぼすということを知らないのだろうか?
ましてやいまや死なんとするとき、ああいうことは言うものではない。
死んでも誰かを縛りつけることになるのだ。(だからドラマが生まれるということもあるが・・・)

偉くなったり大物と呼ばれるようになったら、言葉を慎むべきである。
自分の何気ない一言が誰かを縛る、ということを常に頭においておかないといけない。

そういう配慮のなさが、近頃の大人には多いのである。
ということを、倉本さんは言いたかったのか、それとも、今後の物語の大きな伏線となっていくのか。
いずれにしても、彼の大人げのない言葉が、料亭・坂下の今後におおきな影響を与えることになり、物語としては面白くなるのではあるが・・・

主役の二宮和也は「清潔」というのがいい。
梅宮辰夫と高橋克実もいい味を出しているが、ときどきバラエティーのイメージが浮かんだりするのがつらい。

あまりドラマを見たいとは思わないのだが、これは見続けてしまいそうなのである。
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風邪?

2007-01-11 21:38:00 | 日々雑感
風邪なのか?
9日の午後、具合が悪くなった。
熱が出て、チョイと吐いた。

前兆は朝ごはんが食べられなかったこと。
これはその前の夜、自分で作った自慢のカレーライスを2杯も食べたことによる物ではないかと、思っていた。

あまりにも顔色が悪かったらしく「帰ったら」と皆から言われ、自分でもフラフラしてきたので、とりあえず帰宅。

その後(9日の午後2時頃)から翌日12時まで、ずっと寝ていた。
症状は「高熱」と「体の節々が痛い」ということのみ。

これ風邪なのだろうか?
まあ近頃流行のノロウィルスではないことは明らかである。

今回の自慢は
1.体重が2日で3kg落ちた。
2.薬を服用せずなおした。

って、自慢している場合ではない。
といいつつ、体重を戻さないように工夫しなければ・・・
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しづめる花 志川節子  水脈の花 桜木紫乃 -オール読物12月号-

2007-01-08 17:12:13 | 読んだ
まだ、オール読物の12月号にひっかかっている。
今回は「花」の題名が共通であるが、その内容はちょっと違う。

「しづめる花」は時代小説である。
主人公<紀六>は桶職人の息子であったが、自分の声に惚れて瓦版を読み上げる「細見売り」の仕事をしている。
この仕事をしているときに<お久>と出会う。紀六はお久から「細見売り」の仕事にいろいろなアドバイスを受け商売繁盛となった。
よく売れるからますます仕事にのめりこんだが、のめりこみすぎてお久は娘を連れて同じ長屋に住む男といなくなる。
紀六は、誰かに見限られるということに打ちのめされる。

とまあここまでが本当の物語の始まる『前段』である。

紀六は「細見売り」という仕事ともうひとつ「上ゲ屋」という仕事もしている。
「上ゲ屋」とは、『吉原に売られてきた娘に男を教え、ひとかたの遊女に仕立て上げる、裏の家業』なのである。
女房に逃げられ母の薬代にこまっていた紀六が細見売りの兄貴分である吉次に誘われてはじめた仕事である。
その吉次は遊女と心中をして死んでしまった。つまりは仕事におぼれてしまったのである。
紀六は絶対にそんなことにならないように心構えている。

そんなとき、仕事で<お紺>という女と出会う。彼女は昔同じ長屋に住んでいた娘である。
そして・・・

最後にはあっと驚く逆転がある物語で、その逆転に向けてこれまでこの話を続けてきたのか、と思ったが、まあ納得の逆転である。

上ゲ屋、という職業をはじめて聞いたが、その職についている男の物語を女流作家が書いていることに驚き、実はこの物語は<お久>と<お紺>が主人公、というか『女』というものの怖さが伝わり「そういうものなのか」と思ったのである。

一方「水脈の花」は現代が舞台である。

翔子は30歳、ラブホテルの経営をしている。というか父・東吾がまかせっきりにしているのである。そして、いつ返済が終わるかわからぬ借金を抱えている。

父の東吾は「絵」を描いている。その父が通っていた絵画教室の講師・篠田と翔子は関係を持っていた。
そしてその篠田が亡くなったという朝刊を見て、翔子は父の代わりに通夜へ行く。

その席で谷本という篠田と親しかった新聞記者と出会う。
そこで、篠田が描いた「花瓶」の絵を見てほしいと頼まれる。
篠田は「花瓶を見ればすべて分かる」といっていたそうなのである。

翔子は、谷本とその絵を見て、その絵のモデルとなった場所<摩周湖>のそばの<神の子池>へ行く。

というのがざっとのあらましなのである。
その時間の流れの中で、翔子は結婚相手の母親から結婚を断られたことや、篠田との間にあった事柄などを思い出すのである。

翔子の今までの生き方が「受動的」であったことを我々は知る。
翔びだすことをしなかった<翔子>なのである。

谷本と花瓶の絵のモデルとなった「池」を見て翔子は、篠田が亡くなったことについてあらためて悲しみがわいてくる。
そして翔子は「篠田を失った街に帰ろう」と思う。

このあたりは、どうも想像力が足りないのか「よくわからない」ところなのだ。
ただ、翔子がそう思ったのであれば、そういうことなんだろう、と思うしかない。
そして、女は帰るのか、と思ったのである。
女は帰る、男はどうするのか。
そんなことを思ったのである。

近頃、女流作家の作品がすごい、と思う。
これはどういうことなんだろうか?
これまで男の作家の作品を多く読んできたので、新たな視点、のようなものに新鮮さを感じるのだろうか。

ということよりも、女性の持つ保守性が、、じつは男性の持つ保守性よりも革新的なのではないか、なんてよく分からないことを考えたりもするのである。
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クラシック・イン 全50巻 完了 小学館

2007-01-07 17:15:14 | 読んだ
クラシック・インというクラシック音楽のCDつき隔週刊のマガジンが完了した。

第1号「モーツァルト①」が2005年2月に創刊して、第50号「珠玉の名歌集」が2006年12月であった。

途中、時々買いそびれて(この地域の本屋さんは数が限られているのか、ちょいと時期を過ぎるともうなかった)、最後に47号と49号を今年になってそろえて完了した。

クラシック音楽の有名なところをそろえてあるCDである。
モーツァルトが生誕250年ということからなのか50号のうち5号あって、ベートーヴェンとチャイコフスキーがそれぞれ4号ずつあった。
どちらかといえば「ピアノ曲」が好きな私としては、ショパンをもう少しお願いしたかったのであるが・・・
もっとも私はクラシック音楽は主にBGMとして聴いて、じっくり聴くということはしないので、偉そうにいえないのであるけれど。

この全集を購入することにしたのは、クラシックを聴きたいということもあったが、以前<デアゴスティーニ・ジャパン>というところから出された「THE Classic COLECTION」というのを購入していたのだが、途中100巻くらいでストップしてしまったので「今度こそ」という気持ちと、なにより<池辺晋一郎>の「名曲のからくり」と<柴門ふみ>の「名曲ごちそうさま」というエッセイがあったからである。

短いエッセイではあるが、非常に楽しく読んでいたものである。
50巻そろったところで改めて読み直してみようかと思ったのである。

本というか文は連載だけではなんだかもうひとつ覚えられないのであるが、音楽は隔週刊くらいで聴くほうが余裕があっていいのである。
というわけで、クラシックもまた何かでたら(できればピアノとかバイオリンとかがいいのだけれど)付き合おうかとも思っているのである。
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悪人列伝3 海音寺潮五郎 文春文庫

2007-01-06 18:17:05 | 読んだ
悪人列伝第3巻は、足利幕府第8代将軍義政(銀閣寺を作った人)の妻である日野富子からである。

著者は足利時代を

「足利時代ほど日本人の道義観念の低下している時代はない」
「もともと足利氏代々が道義観念などさらさらない人々」
「日本史上空前の無道徳時代」
「もしこの時代に匹敵する時代を求めるなら現代がそれかもしれない」

といっている。

この現代とは昭和30から40年代を言うのではないかと思うのだが、そうだとすれば今現在(平成19年)はもっとひどい無道徳時代ではないだろうか。

さて、日野富子についてはそのような時代背景であるがために「悪人」とされていると著者は言う。
そして当時は
「天下は破れば破れよ、国はほろびばほろびよ、人はともあれ、われのみは栄えむ」
という人の心のありようで、そのような人の一人であった、としているのである。

現代は応仁の乱のような戦争がなく平和であるのに、人の心は荒廃している。とすれば、人の心を荒ませるのは戦争ということだけではないのではないか、と考えさせられるのである。

続いては戦国時代の「松永久秀」「陶晴賢」「宇喜田直家」と続くが、この悪人たちは、日本全国に影響を与えた、というわけでもなく、その最後は哀れなものであり、その子孫も絶えている、いわば敗れ去ったものであり、そういう意味では「悪人」といってもスケールの小さいものである。

続いて「松平忠直」「徳川綱吉」という天下を獲った「徳川家康」の子孫である。
筆者は徳川家には一部「狂」の血筋があるという。
その血が表面に大きく出てきているのがこの二人である。
その前には家康の子「信康」「忠輝」がいるというのである。
そういわれれば家康の父「広忠」もその気があったように思える。

徳川綱吉は「極端に走る人間」として政治家には向かない性質としている。

また「時代」を見るには
「世をへだてて純粋に公平であることできる目」だけでなく「当時の人の目」というものも考えなければならない、と教えてくれる。

あるいは「法律」について
「法律には自制作用はない。ひたすら実行されることももとめる。」
「法にはその本質に拡大解釈の機能があり、その機能をつぶせば法は活力を失ってしまう」

と、綱吉の「生類あわれみの令」を通して教えてくれる。

悪人列伝は、歴史を教えてくれるとともに、実は社会というもののあり方を歴史を通して教えてくれるのである。
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フタコブラクダ 谷村志穂 オール読物12月号

2007-01-04 22:35:39 | 読んだ
オール読物12月号を読んで、思いもかけず「いいなこれ」というのに出会ってしまった。

この手の小説はあまり好きではなかったはずなのだが・・・

主人公・真志津は「母と二人きりで生きてきたように感じている」
といっても、母と二人で暮らしているわけでもない。
父の会社がバブル崩壊後倒産してから、家族はばらばらとなっている。
真志津も短大を出てすぐ結婚をしたものの離婚し、コンパニオンをしている。

こういう設定だけで、もうイヤになっているはずなのだが、なんだか読み進んだのである。
母とはつかず離れずの生活をしている。

友達のような話をする母子というのはなんだか増えているような気がする。

親が子を話さないのか、子が親元から離れないのか・・・
ある一定のラインを超えないままの母子関係なのである。

そんな真志津にも一応恋人らしき高村というサーフィンに取りつかれた男がいる。
この男と結婚をしてもいいなあ、と真志津は思い、母にも紹介した。

高村は会社を辞めてサーフショップを一緒にやらないかと真志津を誘う。
そんな時母が倒れて・・・

という物語なのだが、今の母子関係、親は親らしくなく、子は子らしくない、なんというか変な関係を描いている。
そういう社会になっているんだなあ、と一人で納得してしまった物語である。

追伸
 そのほか、オール読物12月号では「ガモウ戦記」(西木正明)「静心なく」(畠中恵)「はぎ格子」(高橋克彦)が面白かった。
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青春のうた 第24巻 1970年代前期⑧

2007-01-03 18:13:07 | 読んだ
1.春のからっ風/泉谷しげる 1973年11月

泉谷しげるの歌は、本人の攻撃的なキャラクターとはあわない内省的なものがいい。

この「春のからっ風」も内省的である。であるが、開き直りに似た攻撃性もある。
そのバランスがいいのだ。

♪今度こそまじめにやるんだ♪
とか
♪自分こそ正しいと逃げ出す♪
という部分がなんとなく「感じる」のである。

そして最後に
♪今日の生き恥をかく♪
としめるところが、泉谷らしいのである。

2.しおさいの詩/小椋佳 1971年

すごくさびしい歌、という印象であった。
高校生のときに聞いたのである。

大人になるとこういう気持ちになるのだろうか。
とも思ったのである。

♪消えた僕の若い力呼んでみたい♪

若い力、みなぎる時代にこういう歌を聞くと、なんとなくうなだれてしまった、そんな記憶がある。

とはいえ、いい歌、だと思う。

3.されど私の人生は/斉藤哲夫 1971年

この歌は、吉田拓郎、で知っている。
斉藤哲夫が歌っているものは今回はじめて聞いたのである。

拓郎のアルバムは「オン・ステージ!!ともだち」というライブ盤であり、この歌を歌う前に語っている。

<斉藤哲夫という人の歌で、覚えるためにレコードを何回も聴いたので、レコードがシャリシャリいっている。ゆえにレコードをくれてもいいのではないか、そういうところから『ともだち』関係が生まれる>

といったふうの内容であったと思う。

であるから、斉藤哲夫ってどんなふうな人なんだろう?
とずっと気がかりであった。

そのうち斉藤哲夫が♪今の君はピカピカに光って♪と歌っているのをきいて「こんな声であったのか!」と驚いた。
印象としては、重く低い声、だった。

今回聞いて、斉藤哲夫の「されど私の人生は」は少し軽い感じ、という印象なのである。
拓郎の歌い方が重い感じであったからなおさらなのであるが、こういう感じも悪くない、と思った。
歌詞が重く暗いので、こういう歌い方もいいと思うのである。

それにしても「名曲」である。

4.サルビアの花/もとまろ 1972年

サルビアの花は「もとまろ」に限る、と思っていた。
ところが近頃は作曲者の早川義夫が歌うものしか聞こえてこないので、サルビアの花のイメージが違ってきていたのである。

サルビアの花は、詩を素直によめば、失恋した男の女々しい気持ちが直に感じられ、それがなんとも哀れで、きれいな恋、とか思ってしまうのである。
しかし、いつか何かの雑誌かで読んだ早川義夫の談を聞いて「んー」と思ってしまったのである。

♪いつもいつも思ってた サルビアの花を
  あなたの部屋の中に投げ入れたくて   ♪


の「あなたの部屋」というのは「子宮」のことである。
というのである。
何でそんな解釈をしなければならないのだろうか、と思ったのだが、そのごこの曲を聴くたびに、いつも引っかかっていたのである。

そうして、早川義夫が歌うのを聞くと「フーム」と納得したりしていた。

しかし、こんかい「もとまろ」できくと、やっぱり純愛の歌でいきたいなあ、と思ったのである。

5.月光仮面/モップス 1971年

この歌を聴いたとき「ふざけた歌だなあ」と思ったのである。

しかし、世間の、というか専門誌などの取り扱いは「斬新な手法」で「実験的な歌」というものであって、「そういうものなの?」と思ったのであった。

で、今になってきいても「斬新」という感じはしないのである。
そのご、このような形が普及したとも思えず、つまり「実験」は失敗に終わったのではないか、と思う。

ジャンルとしては「コミックソング」になってしまうだろうなあ。

6.僕にさわらせておくれ/ピンク・ピクルス 1971年

こういう歌は、当時から苦手だったのである。
なぜかといえば
「さわやか」「かわいい」というのが<恥ずかしい>のであった。

あまりにも直接的な詩が、いわゆる「モロ」ではないかと、そういうことが恥ずかしいと感じる年頃だったのである。

今は、どうでもいいけれどね、そんなこと。

とはいえ、この歌を聴くとやっぱり「恥ずかしい」と感じたりする50歳なのであった。



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中尊寺-1月2日-

2007-01-02 19:30:12 | 日々雑感
月見坂は相変わらずキツイ坂です。
昨年は雪と氷で登るにも下るにも大変でしたが、ことしは、雪もなく、登ることに専念できました。(呼吸は荒く、足は重く、でしたが)

中尊寺は人も多く参道も人があふれていたりしました。
午後になって風が出てきて、杉並木の上で「ゴーッ」という音がして、そういえば久しぶりに風の音をきいたなあ、と思ったのでした。
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毛越寺2-1月2日-

2007-01-02 19:26:00 | 日々雑感
昨年は雪に埋もれていた庭園も今年は池に薄い氷と屋根に雪が少し残っているだけです。
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毛越寺1-1月2日-

2007-01-02 19:22:17 | 日々雑感
穏やかで暖かな正月である。
こんなときにはどこかへ出かけたくなる。

昨年は猛吹雪になってしまった平泉の毛越寺と中尊寺へ行くことにした。

毛越寺は、風もなくおだやかな陽ざしのなかで、参拝することができました。
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謹賀新年

2007-01-01 18:40:21 | 日々雑感
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

宿直は山の上なので、記念に初日の出を拝み、写真を撮りました。
今年こそ、今年は、今年も、いいことがたくさんありますように。
欲張りなお願いもあわせてしたのでした。
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