久女が『花衣』を廃刊した翌年の昭和8(1933)年春に、次女光子が県立小倉高女を卒業し、東京女子美術学校進学のため上京しました。
夫、宇内は女の子に女学校以上の教育は必要ないとの考えで、進学費用は一銭も出さないなどと言い、久女と家庭の中で対立していました。久女は最後は強引に進学を強行したらしく、金策も久女一人で走り回ったようです。
久女の日記によると、金策だけではなく光子に持たせる布団やその他の物の支度に追われ、この頃夜12時前に寝ることはまれでした。新しく作った布団の代金は「製鉄婦人会にてもらいし車代にて」というように、久女はあれこれの出費を自分の大車輪の働きで調達しました。下はこの頃の句でしょう。
「 遊学の 旅にゆく子の 布団とじ 」
そして3月の終わりに光子を上京させ、娘の向学心を全人生をかけて応援したのです。『杉田久女句集』に昭和8年光子東上として下の句が載っています。
「 子のたちし あとの淋しさ 土筆摘む 」
「 娘がいねば 夕餉もひとり 花の雨 」
この頃、俳人が短冊を売るのは日常的なことで、俳人達はそれぞれ本業をもっていたので、短冊を売って生計をたてているわけではないけれど、需要があれば短冊を売ることもあったようです。
短冊1枚の相場はだいたい一円だったようで、久女は「日本新名勝俳句選」に入選しているし、『ホトトギス』巻頭も得ているので、彼女の短冊を乞う人も多かったと思われます。久女はそれを光子の学資に充てたいと思ったようですが、短冊色紙頒布の後援者として名前を借りようと思っていた人の了解が得られず、この時の短冊頒布は出来ませんでした。
短冊については、長女昌子さんの書いたものによると、売り物ではない、夫、宇内関係の短冊所望が多かったようです。宇内の顔を立てようと思えば断るわけにはいかず、書くとなれば短冊は後に残る物なので、自分が納得できるものでないと相手に渡せません。書き損じたものは久女はためらわず即座に破いて捨てていました。
宇内は破られる短冊を見て、「あの婦人はああいうことをして平気です」と人ごとのように非難したそうで、そんな時久女は黙って返事もせず、何事もないような様子で改めて書いたそうです。長女昌子さんは父のその言葉に嫌な気がし、父の狭量が嫌いだったと、著書の中で書いておられます。
このことから見ても、久女の夫、宇内という人は、妻の気持ちを短冊を所望している人に説明して、世間から妻をかばう気持ちは全くなかった人で、小倉に残る〈久女伝説〉で久女が悪女呼ばわりされる片棒を担いだといえるかもしれません。
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