久女は昭和7(1932)年9月の主宰誌『花衣』廃刊後頃から、自身の句集を持ちたいという気持ちになってきた様です。久女年譜にも昭和7年の終わりに<句集出版の志を持ち、序文を虚子に願うも承諾されなかった>とさりげなく載っています。
これまで見てきた様に、久女は昭和6(1931)年に「谺して...」で帝国風景院金賞を受賞し、昭和7年3月には自身の主宰誌『花衣』を創刊、7月に初めて『ホトトギス』雑詠巻頭になり、昭和8年7月には2度目の雑詠巻頭、そして昭和9年5月には3度目の雑詠巻頭になっています。
この様に昭和6年頃から昭和9年頃の久女は作句欲がみなぎり、各地に吟行し、後に代表作といわれる句を次々に詠み、彼女の才能が全開した時期でした。
この様な時期の久女が自身の句集を出版し、その俳句作品を世に問いたいと思ったのは自然なことで、それまでの経歴から句集を出すのに十分な実力があったのは誰の目にも明らかでした。
昭和3年には虚子の序文を得て久保より江の『より江句文集』、昭和4年には長谷川かな女の『龍胆』などが出版されていますが、まだ女性の句集出版は多くはなかったようで、久女もそのことを嘆いています。
だからこそというか、久女はこの頃、自身の句集出版に懸命になっていましたが、この句集出版の願いは、その後の彼女の運命に大きく関わることになるのです。
自身の主催誌『花衣』廃刊後、虚子編の『俳諧歳時記』の資料調査に協力し、『天の川』や『かりたご』に多くの評論を書き、昭和8(1933)年4月には宇佐神宮に詣で、『ホトトギス』雑詠巻頭を得た「うらゝかや 斎まつれる 瓊の帯」などの5句を詠みました。
又、8月には筑前大島ほしの宮の七夕祭りに詣で、筑前大島十二句を詠みという様に、各地に吟行し代表作といわれる句が次々に生まれ、はたから見ると大活躍という風に思えますが、実はこの頃の久女には大きな苦悩というか、焦りがあったはずです。
その大きな苦悩、焦りはどの様なものだったのかは、長くなりますので次回にしましょう。
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