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俳人杉田久女(考) ~失意の日々~(67)

2016年07月03日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女、石昌子さんの著書『杉田久女』によると、「傍観者の私でさえ、母が同人を削除されたと聞いては、母に何か落ち度があったと考えるよりほかなくなりました」と書いておられます。
<石昌子著『杉田久女』>

しかし久女は除名後最初の頃は、師の虚子は自分が『ホトトギス』を追われたら、すぐ他派へ身を寄せるのではないか、つまり先生はそう思っておられ、これは自分を試すための除名であると思っていたようです。なので、先生に自分の心が通じますようにと、神社やお寺にお百度まいりをしたこともあったそうです。

それが去就を試されているのではなく、確定的な師の断を示す除名だと知った時、これまで俳句に精進し培ってきた自負心、自尊心が粉々に砕かれ、久女は狂う程の心の嵐におそわれたのではないでしょうか。

昌子さんはその著書に、久女は「虚子はひどい」と口癖の様に言い、「先生なんか何だ」と激した声でいい、あとはさめざめと泣いて「先生はひどいよ」、
「弟子にこんなに冷酷な先生を七生かけて恨まずにおれない」と口走ったと記しておられます。

また同じ著書の中で昌子さんは〈悲しみ、痛苦、憤怒、激怒、その他抑えがたい感情が心の中でくすぶっていた。誰がどんなに慰めようと癒せる性質のものではなかった。〉とも述べておられます。

昂ぶる神経で虚子に手紙を書き、その悶々の心情をどこへぶっつけたらいいのかも分からず、俳句一筋に生きて来た久女は気分一新のすべも持ちませんでした。手紙で泣訴しても虚子からは一片の返事もありませんでした。

生きる希望や楽しみもないと久女は、だんだん追い詰められていきました。娘の昌子さんに「でも死ねない、自殺なんかしたらお前たちがかわいそうだから」と言ったそうです。

しかしこの様な状態であっても久女はその生涯の最後まで、『ホトトギス』
を離れて他の派に移ることはしませんでした。

句作も「張りとほす 女の意地や 藍ゆかた」の高ぶりが消え、次第に沈滞していきました。昭和8~9年の最好調の時期からみると痛ましいです。こんな句があります。

      「 菱実る 遠賀にも行かず この頃は 」

久女関連書物には、句集に序文を懇願しても拒否され続け、ついには除名という流れをみると、師の高浜虚子の個性、久女との師弟間の相性というものがあるので、そのことを客観的に見抜けなかった久女は、純粋といえば純粋、肉親の庇護と愛情のもとに育って、世間知らずだったとしているものが多い様です。その通りでしょうね。

次はこの頃の久女の夫、杉田宇内やその家庭についてみてみましょう。

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