戦局がいよいよ激しさを増し、敗色しのび寄る昭和19年から20年にかけて、物資が次々に消えていき、都市生活者は空襲に怯えて生きるのに精一杯の頃、傷ついて塞ぎ込みながら過ごしていた久女に手を差し伸べる余裕など、周りの誰にもありませんでした。
田辺聖子さんの著書『花衣まつわる...』の中には〈久女は終戦になった8月の少し前あたりから家事を投げやりにして、じっと籠るようになった。宇内が咎めると、支離滅裂な返答をした。〉とある様に、何かが彼女の中で崩れていったのでしょう。
が、すぐそのあとで田辺さんはこうも書いておられます。夫、宇内が問う住所も計算も確かであったと。
終戦になっても久女の行動は収拾のつかないままで、宇内も彼女をどうしたらいいのか、もてあます様になった様です。思いあまって医師の教え子に相談すると、その教え子は筑紫保養院で診察を受け、場合によっては入院させることをすすめたそうです。筑紫保養院は太宰府にあり、いわゆる精神病院でした。
田辺さんは著書の中で、〈久女はこの時、「私は悪いことは何もしていない。そんなところへやらないで」と宇内に哀願したそうである。宇内はその教え子に頼んで麻酔薬を打ってもらい、眠らせて毛布にくるんで病院へ連れて行った〉と記しています。昭和21年10月29日のことでした。
麻酔から目覚めた時、病院の中にいるわが身を知って久女は愕然としたに違いありません。それから約3か月の入院後、昭和21年1月21日に栄養失調からくる腎臓病悪化により亡くなりました。56歳でした。
臨終には夫、宇内は間に合わず、久女の俳友でもあった合屋武城ただ一人が立ち会ったと伝えられています。宇内が臨終に間に合わなかったことにつき、宇内の悪口を言う人もいるようですが、終戦直後の交通事情を考えると仕方がないことだったと思われます。
その日の夜、宇内と合屋武城と二人で、病院の一室で通夜をしたそうです。二人の男性は何を語り合ったのでしょうか。死者の枕元には梅の花が一輪供えられていました。
久女関連の本を読んでいて最近知りましたが、合屋武城は自身の『垚句集』という句集で、この通夜の時のことを下の様に詠んでいるそうです。
昭和21年1月21日、杉田夫人久女々史死去通夜という前書きがあり
「 燭光の ゆれて更け行く 夜寒かな 」
「 枕頭に 梅折り挿して 拝みけり 」
「 寝棺守り 追憶つきぬ 夜寒哉 」
「 トボトボと 霜の小径を 火葬場へ 」
合屋武城はもと小倉中学の宇内の同僚で、宇内と家族ぐるみの交際をした人でした。久女もまた温和な合屋の人柄に親しんで、「 童顔の 合屋校長 紀元節 」という俳句を作っているくらいの間柄でした。
「こんなに早く死ぬのなら、家で最後まで看取って死なせてやるのだった」と後に久女の夫、宇内は、長女昌子さんに告白したそうです。
⇐クリックよろしく~(^-^)