前回(76)の記事で書いた様に、久女の師、高浜虚子は彼女の死後10か月後に自身が主宰する俳誌『ホトトギス』に「墓に詣り度いと思ってをる」という不思議な一文を載せました。
<高浜虚子 1874-1959>
この文中で虚子は、久女の「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」や「狂気説」を人々に印象付け、どこが「常軌を逸して手がつけられない」かを、虚子らしい執拗さで描き出しています。
(63)で書いた様に、久女は昭和11年2月にヨーロッパに渡航する虚子を日本での最後の寄港地、門司港で見送りました。虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の文中で、この時の久女のことに触れています。
それは<最後に久女さんに会った時のことを思い出してみよう>で始まり、<出航時間が来て、虚子の乗った船が門司港を出港する時、「虚子渡仏云々」と書いた旗を立てた一艘の小舟が近づいて来た>と続きます。<その小舟には女性達が満載され、その先頭に立つ久女は、女達とともに千切れるほどに自分に向かって白いハンカチを振った。女性達は久女の弟子達であった>
甲板にいる虚子に船客の視線が向けられるなかで、その小舟は汽船に遅れないでいつまでも付いて来た。<私は初めの間は手をあげて答礼していたが、その気違いじみている行動にいささか興がさめて来たのでそのまま船室に引っ込んだ>と書いています。
これが高浜虚子が書く、久女の箱根丸見送り風景です。
帰国の際も門司港に寄港したが、人々に迎えられて自分が上陸した後に、久女は何度も訪ねて来て、機関長に面会を求め、「何故に私に逢わしてくれぬのか」と泣き叫んで手の付けられぬ様子であったという。その時久女が書いた色紙を機関長が自分にみせた。<乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった>と記しています。
久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。次の記事でこの本について見てみましょう。
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