死によって、久女の悲しみ、痛苦、憤怒、その他の抑えがたい感情は消え、魂は天上に還りました。普通なら「棺覆て人定まる」で、その死によってすべてが終わるのですが、久女を襲った悲劇は、死してなおも続きました。
久女の師高浜虚子は、弟子久女の死後、彼女に関する文章をいくつか書いています。それらを書かれた順に並べると、下の様になります。
① 「墓に詣り度いと思ってをる」 (『ホトトギス』昭和21年11月号)
② 「国子の手紙」」 (『文体』昭和23年12月号)
③ 『杉田久女句集』序文 (昭和27年10月)
昭和11年10月に久女を『ホトトギス』から除名した高浜虚子は、彼女の死後も死者に鞭打つように、久女叩きとも受け取れる上の様な文章を発表し、何故これほど久女にこだわり続けたのでしょうか。
私は、虚子は久女の想い出として上の文章を書いたのではなく、周りに明らかに出来ない、ある明確な目的のもとにこれらの文章を書いたのだと思います。
高浜虚子が書いたこれらの文章をもとに、昭和28年には松本清張が小説『菊枕』を、昭和39年には吉屋信子が『底の抜けた柄杓(杉田久女)』を出版し、それから孫引きされたと思われる様々なゆがめられた久女に関する文章が発表されました。
誇張された噂や想像は久女像を歪め、いつしか久女=エキセントリックというイメージが出来上がっていき、歪曲された久女像を決定的なものにしたようです。現在でも久女を紹介する一文に高浜虚子が書いたこれらの文章から言葉を抜き出したり、そのイメージをそのまま伝えたりしているものが数多く見られます。
高浜虚子の上の3つの文章は、当時はそのまま人々に受け入れられた様ですが、後に真実が浮かび上がって来て、今日では①と③の文章の一部については高浜虚子の捏造が明らかになっています。
②は創作と虚子は言っていますが、久女が虚子宛に出した昭和9年の手紙で構成されていて、それの幾つかに虚子が短い解説を加えるという形式で、とても創作とはいえない奇妙な作品です(この作品は現在高浜虚子全集第7巻小説集3に納められています)。
では、①の「墓に詣り度いと思ってをる」という文章にはどの様なことが書いてあるのでしょうか。次はこれを見てみましょう。
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