杉田久女のことを調べていると、理解に苦しむ不可解な出来事に時々ぶつかるのですが、このカルテ事件もその一つです。
この事は彼女の没後に起こったことで、昭和20年10月末に県立筑紫保養院に入院した久女でしたが、その入院中の久女のカルテが、没後遺族ではない誰かによって持ち出され、さらにそれがひそかに特定の人々の手から手に渡った形跡があることです。
(62)と(63)の記事に書いた増田連著『杉田久女ノート』の「その後と死」という項目の最後辺りに、〈虚子の「俳諧日記」(昭和27年8月号『玉藻』)には五月十二日 小田小石、杉田久女の病床日記を携え来るとの記載がある〉とあります。
<増田連著『杉田久女ノート』>
病床日記というと、入院中に久女がつけていた日記という意味にもとれますが、彼女が日記を書ける状態ではなかったことは誰にでもわかることです。
久女のカルテは正式には「福岡県立筑紫保養院 病牀日誌」というそうなので、虚子が『玉藻』に書いている「病床日記」と名称が非常によく似ています。
なので小田小石という人物が虚子のところに持参したのは、久女のカルテではと思われます。高浜虚子はどんな必要があって、久女のカルテを見なければならなかったのでしょうか。またどんな経緯で、遺族ではない人の手で病院から持ち出されたのでしょうか。非常に不思議に思います。
田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によると、北九州市在住の医師、俳人の横山白虹氏が書いた「一本の鞭」という文章があり、それには彼が昭和29年5月に橋本多佳子と共に筑紫保養院に行き、〈院長は九大の後輩だったので、久女さんのカルテの写しを所望した〉との記述があり、〈終戦直後のことで病床日誌というほどのものはなく、体温表に時々症状が記載されてある程度のものだった。暫くして送られてきたものは、写しではなく本物ではないかという気がし始めた。手擦れの具合、紙の古さ、綴穴の具合などが新しいもののように思えなかったのである。『菊枕』に出て来る独語独笑というのは、その体温表の所々に記載されてあった。(中略)私の所に送られて来たものは平畑静塔、橋本多佳子と転送されているうちに、私の所には戻って来なかった〉と書かれているそうです。
上の文章を読んだ時、私は非常に驚きました。この文章を書いた横山白虹という人物が、学校の先輩後輩の間柄を使って、自分が久女のカルテを持ち出したと言っているも同然だからです。
横山白虹という人物は久女の遺族ではない第三者ですが、どんな理由があってカルテを持ちだしたのでしょうか。又医師は何故第三者にカルテを渡したのでしょうか。しかも次々に転送されているうちに自分の所にはもどってこなかったとは、なんと無責任な話でしょう。
上の文章の中にある『菊枕』は松本清張が杉田久女をモデルに書いた小説(この小説の記事を(43)で書いています)で、彼はこの小説を書くにあたり横山白虹や橋本多佳子に取材したと彼自身で書いています。その取材の折にカルテの話が出るか、又はカルテその物を見るかしてカルテに書いてあった独語独笑という言葉を小説に使ったものだと思われます。
カルテ事件を見てきて思うのは、患者の病状に対し守秘義務のある医師が、患者のカルテを遺族ではない第三者に渡したこと、また渡すことを要求した第三者がいたという事実の不可解さです。この様なことから、久女をとりまく一部の人々は、彼女の死を好奇で加虐性を帯びた目で見ていたと感じます。
田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によれば、戦後の一時期、病院の綴じ込みから外され無くなっていると言われていた久女のカルテは、昭和56年秋に田辺さんが筑紫保養院(現在の太宰府病院)を訪れた時、副院長先生から「途中行方不明になっていつの間にか戻って来たのかどうかは調べようがないが、今はある」と言われたそうです。カルテは戻るべきところに戻ったということでしょうね。
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