日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~私の久女像~ (89)

2016年12月22日 | 俳人杉田久女(考)

ブログのカテゴリーに俳人杉田久女(考)を加え、杉田久女について書き出して約1年半になりますが、書くことによりそれまで自分の中にあった久女像が、より鮮明になってきた気がします。

結果的にみると、久女は高浜虚子により育てられ、しかし身内偏重の虚子により『ホトトギス』から追放されてしまいました。久女の追放が俳句の理念上からそうなったのであれば、私が何も言うことはありません。が、これまで見てきたようにそうではありませんでした。俳句理念上からの追放ではないところに久女の悲劇がある様に思います。
                     
のんきなお嬢さん育ちだった久女(当時は久)が、芸術家の妻にという願いで、美術学校出身の青年の元に嫁ぎます。しかしいつの間にか夫は絵筆を取らず田舎の美術教師におさまっていき、手の届くところにあるとみえた将来への夢や希望はうたかたの様に消えてしまいました。

そのようなことから夫婦の間には絶えず隙間風が吹いていましたが、教師の妻として二人の娘の母として生き、満たされぬ思いを抱きながらも俳句によって生き直そうとしました。高浜虚子に師事し『ホトトギス』に投句することにより、久女は次第に俳壇で認められる存在になっていきました。

その後、俳人杉田久女として彼女の人生が完結していれば、それは一つの答えを得た生涯ということが出来、夫との間には齟齬をきたしたとしても、どこか救われる思いがします。

しかし久女の場合、俳人としての生命も『ホトトギス』除名で無残にも断たれ、次第に精彩を失い10年後に誰にも看取られることなく亡くなりました。しかもそこは鉄格子のある病室でした。

久女がほどほどで妥協し心を切り替えることが出来る人であれば、晩年の不幸は避けられたかもしれません。しかし彼女は俳句に全人生をかけ又俳句に執念を燃やす人だったが故にそれが出来ませんでした。自身の才能、才華ゆえに俳句に執念を燃やし破綻したと言えるかもしれません。

『ホトトギス』に復帰困難と感じた時、それまでに誘われていた水原秋櫻子主宰の『馬酔木』に移るとか、また非常に困難な道ですが一派を立てるとかを何故しなかったのか。そうすれば違った展望が開けてきたのではと思わずにはいられませんが、しかしあまりにも虚子に連なる俳句の世界にとらわれ過ぎていたため、それが出来なかったのでしょう。

一方で、師というものは、弟子の死後までも、これ程のことをするものだろうか、という思いが私から消えません。久女没後、高浜虚子は回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文などで遺族の心を逆撫でするような文章を発表し続けていました。

そしてそれらの文章を盾にした、様々な久女批判の文章も多く見られました。虚栄心が強い女、人一倍功名心が強かった、才能ある仲間を嫉妬すること甚だしかった、これらは現在でも久女を紹介する文章に時々見られる表現です。この表現は元を正せば、高浜虚子が書いたこれらの文章にかえって来ます。久女伝説などと言われるものも、おそらくこの辺りから生まれたものでしょう。

しかし近年、増田連氏、坂本宮尾氏など多くの人々の実証的研究が進み、誤りが正され、久女の実人生とフィクションが区別される様になったのは、私にとって嬉しいことです。

特に田辺聖子氏の評伝『花衣ぬぐやまつわる...』の力は大きく、そこでは従来の自己顕示的イメージから女性表現者の苦悩を真摯に生きる久女像への転換がなされています。

大正から昭和初期にかけて女流俳人の先駆けとなった杉田久女。時は流れ時代は変わっても、力強くまた優雅な久女の俳句は私達の心に訴えかけてきます。それは深い教養に裏打ちされた言語感覚、生まれながらの色彩感覚と合わせて、その句に人生の真実、ものごとの真実が詠み込まれているからだと思います。


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)


このカテゴリー「俳人杉田久女(考)」を「谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ)http://blog.goo.ne.jp/lilas0526」として独立させました。内容は同じですが、よろしければ覗いてみて下さい。