昭和21年1月の久女の死から10ヶ月程しか経ってない昭和21年11月に、久女の師高浜虚子は自身の主催する俳誌『ホトトギス』に、不思議な一文「墓に詣り度いと思ってをる」という文章を載せています。
この文章は二つの部分から成っていて、前半は久女、後半は尾形余十という俳人の死を悼む形になっています。二人を並べていますが、虚子のねらいは久女にあるのは明らかです。
<高浜虚子 1874-1959>
久女の長女昌子さんには、母、久女から託された、句集を出版するという大きな仕事がありました。母の師、高浜虚子へ母の死を知らせると、折り返し悔やみの手紙が届き、そこには「悼句でも出来たら差し出したいと思っている」との言葉がありました。 その言葉は昌子さんを力づけ、「もしかすると悼句で句集を飾って頂けるかもしれない」という希望が湧き、恭順な手紙を虚子に出させることになったようです。
その昌子さんからの手紙を、虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の冒頭で、<ここに一つの手紙がある。それは杉田久女さんの娘さんからの手紙である>という書き出しで紹介しています。
長くなるのでその手紙は書き写しませんが、昌子さんはその手紙の中で虚子に心を許し、「母は病気でありました」、そして「我儘で手が付けられない」と見ていましたなどと、母の師、高浜虚子を信じればこその打ち明け話を書いています。
もし母が虚子の不快をかったことなどあれば、病気の為と許してほしいとの気持ちを込めてこう書いたのでしょう。
が、高浜虚子はその昌子さんの言葉に言いかぶせたと思われる、次の様な妙なことを書きました。<この手紙にあるように、或る年以来の久女さんの態度には誠に手が付けられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、或時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いていた。其れがついには常軌を逸するようになり、いわゆる手がつけられぬ人になってきた>と。
田辺聖子さんは著書「花衣ぬぐやまつわる...」の中で、高浜虚子がこう書いたことで、常軌を逸した久女のイメージが固定化し、久女伝説のあらゆる現象はここに胚胎していると思っていると書いておられます。私も全く同感です。
娘の昌子さんが母を「我儘で手が付けられない」というのと、虚子が「常軌を逸して手がつけられない」というのとでは、まったく意味が違うと思います。
娘が母をかばって身内的謙遜をするのと、高浜虚子が断定するのとでは質がまったく違います。私はそのことを虚子は判っていて、言いかぶせたのだと思います。
上にある様に、この短い文章の中で虚子は、「手がつけられない」という言葉を2回使っています。「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」、「狂気説」を人々に印象付け、同人除名の理由を明かさぬまま、人々に久女が狂っていたとの風説が浸透するのをねらった様に感じます。
「墓に詣り度いと思っておる」は前半には上の様なことが書いてあり、その後に虚子らしい執拗さで、最後に久女に会った箱根丸での見送り風景を書いています。この部分は今日、高浜虚子の明らかな虚構文であると指摘されています。
次は虚構文であると指摘されている、箱根丸見送り風景を書いた部分を見ていきましょう。
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ソフトバンクはパのcsファーストステージで2連勝し、札幌での日本ハムとのファイナルステージに駒を進めました。
昨年はcsのチケットを割合簡単に入手出来たので、今年もそのつもりで油断していたら、結局第1戦、第2戦のチケットは手に入らず、試合があるのかどうか判らない第3戦のチケットしか入手できませでした。
第3戦ということは、ソフトバンクとロッテが1勝1敗になった時だけ観戦できるチケットで、ソフトバンクに第1戦で勝ってもらって、第2戦で負け、第3戦で勝って、ファイナルステージに行ってもらいたい、なんて勝手なことを考えていました。
ところが、ソフトバンクは接戦をものにして連勝し、第3戦は行われませんでした。
嬉しい、でも少しガッカリ...(^-^)
11日からチケットの払い戻しがなされるということなので、早速行かなくっちゃ!
ソフトバンクが札幌で何とか4勝できて、ヤフオクドームで日本シリーズが行われるといいなぁ~。
死によって、久女の悲しみ、痛苦、憤怒、その他の抑えがたい感情は消え、魂は天上に還りました。普通なら「棺覆て人定まる」で、その死によってすべてが終わるのですが、久女を襲った悲劇は、死してなおも続きました。
久女の師高浜虚子は、弟子久女の死後、彼女に関する文章をいくつか書いています。それらを書かれた順に並べると、下の様になります。
① 「墓に詣り度いと思ってをる」 (『ホトトギス』昭和21年11月号)
② 「国子の手紙」」 (『文体』昭和23年12月号)
③ 『杉田久女句集』序文 (昭和27年10月)
昭和11年10月に久女を『ホトトギス』から除名した高浜虚子は、彼女の死後も死者に鞭打つように、久女叩きとも受け取れる上の様な文章を発表し、何故これほど久女にこだわり続けたのでしょうか。
私は、虚子は久女の想い出として上の文章を書いたのではなく、周りに明らかに出来ない、ある明確な目的のもとにこれらの文章を書いたのだと思います。
高浜虚子が書いたこれらの文章をもとに、昭和28年には松本清張が小説『菊枕』を、昭和39年には吉屋信子が『底の抜けた柄杓(杉田久女)』を出版し、それから孫引きされたと思われる様々なゆがめられた久女に関する文章が発表されました。
誇張された噂や想像は久女像を歪め、いつしか久女=エキセントリックというイメージが出来上がっていき、歪曲された久女像を決定的なものにしたようです。現在でも久女を紹介する一文に高浜虚子が書いたこれらの文章から言葉を抜き出したり、そのイメージをそのまま伝えたりしているものが数多く見られます。
高浜虚子の上の3つの文章は、当時はそのまま人々に受け入れられた様ですが、後に真実が浮かび上がって来て、今日では①と③の文章の一部については高浜虚子の捏造が明らかになっています。
②は創作と虚子は言っていますが、久女が虚子宛に出した昭和9年の手紙で構成されていて、それの幾つかに虚子が短い解説を加えるという形式で、とても創作とはいえない奇妙な作品です(この作品は現在高浜虚子全集第7巻小説集3に納められています)。
では、①の「墓に詣り度いと思ってをる」という文章にはどの様なことが書いてあるのでしょうか。次はこれを見てみましょう。
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戦局がいよいよ激しさを増し、敗色しのび寄る昭和19年から20年にかけて、物資が次々に消えていき、都市生活者は空襲に怯えて生きるのに精一杯の頃、傷ついて塞ぎ込みながら過ごしていた久女に手を差し伸べる余裕など、周りの誰にもありませんでした。
田辺聖子さんの著書『花衣まつわる...』の中には〈久女は終戦になった8月の少し前あたりから家事を投げやりにして、じっと籠るようになった。宇内が咎めると、支離滅裂な返答をした。〉とある様に、何かが彼女の中で崩れていったのでしょう。
が、すぐそのあとで田辺さんはこうも書いておられます。夫、宇内が問う住所も計算も確かであったと。
終戦になっても久女の行動は収拾のつかないままで、宇内も彼女をどうしたらいいのか、もてあます様になった様です。思いあまって医師の教え子に相談すると、その教え子は筑紫保養院で診察を受け、場合によっては入院させることをすすめたそうです。筑紫保養院は太宰府にあり、いわゆる精神病院でした。
田辺さんは著書の中で、〈久女はこの時、「私は悪いことは何もしていない。そんなところへやらないで」と宇内に哀願したそうである。宇内はその教え子に頼んで麻酔薬を打ってもらい、眠らせて毛布にくるんで病院へ連れて行った〉と記しています。昭和21年10月29日のことでした。
麻酔から目覚めた時、病院の中にいるわが身を知って久女は愕然としたに違いありません。それから約3か月の入院後、昭和21年1月21日に栄養失調からくる腎臓病悪化により亡くなりました。56歳でした。
臨終には夫、宇内は間に合わず、久女の俳友でもあった合屋武城ただ一人が立ち会ったと伝えられています。宇内が臨終に間に合わなかったことにつき、宇内の悪口を言う人もいるようですが、終戦直後の交通事情を考えると仕方がないことだったと思われます。
その日の夜、宇内と合屋武城と二人で、病院の一室で通夜をしたそうです。二人の男性は何を語り合ったのでしょうか。死者の枕元には梅の花が一輪供えられていました。
久女関連の本を読んでいて最近知りましたが、合屋武城は自身の『垚句集』という句集で、この通夜の時のことを下の様に詠んでいるそうです。
昭和21年1月21日、杉田夫人久女々史死去通夜という前書きがあり
「 燭光の ゆれて更け行く 夜寒かな 」
「 枕頭に 梅折り挿して 拝みけり 」
「 寝棺守り 追憶つきぬ 夜寒哉 」
「 トボトボと 霜の小径を 火葬場へ 」
合屋武城はもと小倉中学の宇内の同僚で、宇内と家族ぐるみの交際をした人でした。久女もまた温和な合屋の人柄に親しんで、「 童顔の 合屋校長 紀元節 」という俳句を作っているくらいの間柄でした。
「こんなに早く死ぬのなら、家で最後まで看取って死なせてやるのだった」と後に久女の夫、宇内は、長女昌子さんに告白したそうです。
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